将也の小学校生活最後のクラス発表会は、創作劇に決まった。詳しく言えばまたしても劇。六 年間劇。大抵のクラスが劇か合唱、たまに合奏という程度なので、ずっと劇続きというのも不思 議ではないが、将也はどうにも劇が嫌だった。別に芝居が不得手とうわけではない。そもそも芝 居が上手いかどうか試す機会がなかった。今まで一度も芝居らしい芝居付きの役に当たっていな い。小鳥その三――シンデレラの変身を眺める役、陪審員その八――アリスの裁判中座っている 役、といった具合で、要するにずっとその他大勢だった。それから、今年も。 「また劇なんだって? あんたまたどうせ通行人Fとかじゃないの?」一級上の姉がシチューを すすりながら構ってくる。「その一とかAとかにすらなれないもんね」 「いいじゃない通行人でも。いなけりゃ町が寂れちゃうものねえ」母、由美子が庇う。これがま た将也には堪える。 「あたしは白雪姫だからその後は全部譲ったけどぉ」  姉は二年生の時に主役に抜擢され、そのたった一度のことを五年間自慢にしている。 「真奈美ちゃん、やめなさい。いいじゃないどんな役だって」それが堪えるのに。 「俺、ピーターだから」思わず口をついた出鱈目。 「え?」女二人が同時に振り向いた。 「どうせ犬の名前でしょ」 「犬じゃないし。人間だし」  確かに犬ではなかった。姉の指摘そのままに通行人だった。そして、名前なんてなかった。 「ふーん。今年はあたしが観ないと思って適当なこと言ってるでしょ」  鋭い。しかし真奈美の言葉にヒントも得た。当日姉は学校、両親も共に仕事、且つ保護者同士 の繋がりは薄い様子。バレない、と将也は踏んだ。 「適当なんて言ってないよ。ほんとに人間のピーターだよ」 「すごいじゃない、将也ちゃん」 「お母さーん。何だって同じって言ってたのにぃ。どうせ台詞もないちょい役だよ」 「真奈美ちゃん!」  女の争いをほうって将也はこっそり食卓を離れた。  嬉しそうな由美子の報告を聞いたのは、雨の降りしきる発表会当日の朝だった。 「お母さんね、今日仕事休めることになったの」 「え」将也の声は裏返って、キェと発音されたが、構わず由美子は続けた。 「雨だったら仕事少ないから休んでいいって。昨日言おうと思ったけどぬか喜びさせちゃうと悪 いから」  喜ぶどころか絶望の淵に立たされた将也の曇る顔を、由美子は照れているのだと解釈した。 「早めに行くからね、発表会。ピーター頑張ってね」  本当に由美子は早く家を出た。まだ人の少ない体育館で、保護者スペースの一番前に座布団を 敷いて陣取ったが、急ぎすぎてプログラムを持ってくるのを忘れたことに気付き、座布団を残し て席を立った。あいにく体育館内には次第がわかるようなものはない。雨の中家に戻るべきか否 か迷いながら昇降口をうろついた。 「こんにちは」  声に振り返ると担任の遠藤が会釈しながら通り過ぎてゆくところだった。 「あ、先生。よかった、ちょっとすみません」 「はい」男にしては小柄な遠藤は、抱えたダンボールごと振り返り、山盛りの衣装の間から愛想 のいい顔を覗かせた。 「先生、今日二組は何番目で何時頃でしたかしら」 「三番目だから九時十五分くらいですよ。お母さんお早いですね」 「ありがとうございます。せっかくピーターを頂いたのに見逃せませんから」 「はぁ……」 「今日はよろしくお願いします」颯爽と去ってゆく由美子を引き止めている暇は遠藤にはなかっ た。首を捻りながら教室へ急いだ。  将也は渡しそびれたままのプリントを机の中から引っ張り出して、筆箱大の大きさに切り、裏 に大きくマジックでピーターと書き込んだ。セロハンテープの残量を確認してポケットに突っ込 む。教室の中は劇の準備で大騒ぎで、誰も一番前の席の将也に注意を払わなかった。と、目の前 のドアが開いた。 「はい衣装まだの人ー。遅くなってごめんねー」遠藤は騒がしい教室を見回した。慌てて将也は 紙切れを四つに折り、これもポケットに入れた。  衣装と言っても色模造紙を切り張りしたものが殆どで、そうでなければ各家庭から持ち寄った 私服だった。遠藤の古いトレンチコートの袖を中に入れてマント風にしたものが将也の衣装のす べてで、簡単に身支度を終え、列を成して体育館に進んだ。既に並んで座っている三組の後ろを 通るときには、一番前で手を振る由美子に気がついた。手を振り返す代わりに、マントの下で紙 切れとセロハンテープの手触りを確認する。  舞台袖から反対の袖へただ歩く。それが将也の仕事の全てだ。舞台袖でのわずかな待ち時間、 遠藤が反対の袖にいるのを確認して、将也はそっと紙切れを左胸に貼り付けた。  幕が上がる。中央では主人公がなにやら悩んでいる。ここが街中であることを示すため、通行 人が目の前を行き来する。上手から一人、下手から三人、計四人のその他大勢。将也は意を決し て舞台に踏み出した。ピーターと胸に付けて。この即席名札に母だけが気付いてクラスメイトに 気付かれないなんて奇跡はあるだろうか。いや、母だって将也ただ一人が名札をつけていること に気付いたら不審がるかも知れない。そこに思い至ったときにはもう手遅れだった。既に後戻り はできない位置まで来ていた。とにかく早く通り過ぎてしまいたい。顔が火照る。  向こうから通行人の麻弥が現れる。静かにすれ違う。はずだった。けれど、麻弥は将也に駆け 寄ってこう叫んだのだ。 「ピーター! お待たせ」  見ると麻弥の左胸には、キャサリンと大きく書かれた紙切れが貼られていた。急いで千切った ようなでこぼこの残る名札。 「……キャサリン」自然に口が動く。その紅潮した顔は、観客に恋人を想う高鳴りを思わせた。 「いよう、お二人さん」 「仲いいねえ」  ジョンの翔とボブの裕輔が、からかいながら通り過ぎる。 「うるせーよ。ジョン、ボブ」こぼれる笑みと共に返して、キャサリンに向き直った。肩越しに 見える遠藤の笑顔。 「待ってたよ」  ピーターはキャサリンをマントに迎え入れて舞台袖に消え、将也の仕事は終わった。 おわり