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心の声に耳を澄ませて (Res:31)

1 名前: bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:40 ID:wp/f2a/6
長編板活性化計画の尻馬に乗ってみた。

題名
「心の声に耳を澄ませて」

目次
一 『牛丼日和殺人事件』事件
  >>2
二 対岸の火事と野次馬
  >>7
三 黒くて熱くて苦いもの
  >>13
四 完全敗北
  >>24
五 春、始まりのお話
  >>27

読みにくい、という人用にzip版
章ごとのtxtファイル、整形なしで入っているので読みやすい横幅でご覧ください。
http://bnskvip.jp.land.to/up/src/up1364.zip

2 名前: 一 『牛丼日和殺人事件』事件 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:41 ID:wp/f2a/6
一 『牛丼日和殺人事件』事件

3 名前: 一 『牛丼日和殺人事件』事件 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:42 ID:wp/f2a/6
 俺は物語の最後を示す「了」という字を目に入れて、ボールペンと原稿を机に放り出した。

 自室であれば声をあげて、推敲終わりー、と叫んでいたところだが、さすがに図書室の中でそ
んなことは出来ない。いつもよりは多い利用者と、カウンターの中で暇そうに文庫本を読んでい
る図書委員に迷惑だ。 
 利用者が多いのに図書委員は暇、という状況は主に定期テスト前に訪れるが、今回の理由
はもう少し楽しいものである。文化祭が近いのだ。
 眉間に皺を寄せて辞書と睨み合いをしている人間や、資料を積み上げたまま二、三人で難し
い顔を寄せ合っている人間が、部屋の中にちらほらと存在している。お祭り前だというのに彼ら
があまり楽しそうでないのには理由がある。
 文化祭は基本的に名前どおりのお祭り騒ぎだが、毎年、一部の不幸なクラスは担任教師の
圧力によって、英語のスピーチだとか、郷土の歴史だとかを発表することになっていた。つまり
彼らは、不幸なクラスの中でさらに貧乏くじをひいた代表者というわけで、楽しくなさそうでも仕方
がないのだった。
 俺はというと、文化祭に出す文芸部誌の原稿を書くために図書室を利用していた。趣味とも言
える部活動が理由なだけ、彼らより随分ましである。あまり楽しいとは言えない状況であること
に変わりはなかったが。
 本文はついさっき推敲が終わったけれど、タイトルがまだ決まっていないのだった。右上をホ
チキスで止めた原稿の最上段には、とりあえずつけた仮題がそのまま印刷されている。
 そう、いくらなんでも、牛丼日和殺人事件はない。
 仮題にその日食べたものを使う癖はどうにかしなければと前々から思っているが、なかなか
治せないでいる。
 ネーミングセンスがないのだろう。ミステリばかり書いているせいもあるのかもしれないが、な
んたら殺人事件だとか、うんたらかんたらの謎だとか、そんなタイトルばかりつけている気がする。
 しかし、得手不得手について考えをめぐらせている場合ではなかった。部誌の締め切りは、実
のところ先週の内に過ぎ去ってしまっている。
 部室で書いていると部長の視線が痛いという理由で、ここ数日の放課後は図書室に逃げ込ん
でいたが、いつまでも引き伸ばしているわけにもいかない。そろそろ提出しないと、冗談抜きで
早川和樹という名前が目次から消えることになる。
 とにかくタイトルだ。タイトルさえ決まれば、あとは原稿に直接メモした推敲部分を直すだけで
終わる。
 心理トリックなどではなく、いっそ館ものでも書けば良かったのかもしれない。なんとか館の密
室、とでもすればそれなりの格好がつくからだ。いや、そうしていたら今度は館の名前を考える
のに同じような労力を割くことになっただろう。
 タイトルについて考えるつもりで、いつのまにか全然関係のないことを考えていた。だから、と
いうわけでもないが、俺は声をかけられるまでその人物の接近に気付かなかった。
「お、悩んでいるねえ。青少年」
 図書室という空間に配慮したのだろう抑えた声に、俺は顔をしかめた。
「坂本か。そっちは完成したのかよ」
「当然、どこかの遅筆な男とは違うわよ」
 文芸部の締め切り破り二大常連の片割れは、鼻を鳴らして胸を張った。
 坂本は遠目から見ると、ひっつめて後ろをゴムで止めた髪型に、黒縁の眼鏡なんていう地味
な格好をしている。傍にいると地味どころか活発な印象を受けるのは、眼鏡の奥にある目がい
つも自信に溢れているせいだろう。
「たった今、出してきたわ。あんたで最後よ、早川」
 俺の頭に五十歩百歩という言葉が浮かんだが、それは第三者が使ってこそ意味のある皮肉
だった。実際百歩逃げている人間が言ったところで、単なる負け惜しみにしかならない。
「あー、黒井部長、何か言ってたか?」
「今週一杯は待ってくれるらしいよ。メールでも良いから月曜までには必ず出せってさ」
 部長である黒井さんの持論では、締め切りを破って良いのは人気のあるプロだけなのだそう
だ。実際、部長自身は入部からこっち、一度も締め切りを破ったことがなく、その辺の生真面目
さも買われて部長という名の編集役を任されている。その部長が必ずと言うからには、本当に
印刷が間に合うぎりぎりのラインなのだろう。
「で、何。悩んでるのはまたタイトルなの?」
 俺の隣の椅子を引きながら、坂本が聞いてきた。また、という部分に、呆れた調子が含まれて
いるのは、気のせいではないだろう。
「そうだよ、またタイトルだよ」
「目次にも載るし、書き出しと同じくらい気を遣う場所ってのはわかるけどさ。考えすぎてる部分
もあるんじゃない? もうちょっと気楽に考えなよ。事件が起こった館の名前使うとかさ」
 先ほどの脱線していた自分の思考を読まれたようで、俺はことさら無愛想にこたえた。
「今回、館ものじゃねえよ」
「あらそう。それはごめんあそばせ」
 芝居がかった台詞を口にした坂本は、机の上に置いてあった原稿をひょいと手に取った。原
稿に目を落とした瞬間、ぶふっ、と笑いを漏らす。
「このままでも良いんじゃない? 少なくとも私は読んでみたくなるけど」
「牛丼のぎの字も出てこない小説につけられるか」
「まあ、そうだろうけどね」
 坂本の目が、そのまま文字を追いはじめる。俺は慌てて止めようとした。
「おい、待て。読むな」
 坂本は顔を上げて、不思議そうな目でこちらを見る。
「良いじゃない。あとタイトルだけなんでしょ」
 上手い返しはないかと、頭の中から言葉を探す。単純に目の前で読まれるのは恥ずかしい、
などとは間違っても言えない。
「読むものなら他に幾らでもあるじゃねえか」
 少し考えて、それらしい文句をつけた。なんと言ってもここは図書室だ。俺のようなアマチュア
の文章でなくても、プロの作品が本棚にたくさん並んでいる。
「私ねえ、図書室の本って嫌いなのよ」
 早川は坂本の回答に耳を疑った。
 本が嫌いとは、文芸部員の口から出ていい台詞ではない。
「図書室で面白い本を見つけたとするでしょ。でも、それは私の本じゃないのよ。ここで読んでる
ときはもちろんそうだし、借りて帰って部屋で読んでも、それはやっぱり借り物でしかないの。
 私は、面白い本は私のものでないと我慢ならないのよ。だから本は買って読むし、お気に入り
の本ならコーヒーもお茶菓子も用意して、自分の部屋で誰にも邪魔されないようにしてから読むわ」
 重要なのは本ではなく、その所有権にあるらしかった。確かに、図書室の本は学校のものだ。
「だから、私のものじゃない本で溢れている図書室は嫌いなの」
「……その理屈でいくと、その小説は俺のものなんだが」
「早川の小説は、もうすぐ部誌っていう形で私のものになるじゃない。図書室や図書館の本は、
どう頑張っても私のものにはならないわ」

4 名前: 一 『牛丼日和殺人事件』事件 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:42 ID:wp/f2a/6
 そんなこともわからないなんて馬鹿じゃないの、という顔で見られた。
 独占欲、というよりは所有欲というべきなのだろうか。そもそも、なぜそこまで自分のものとい
う部分に拘らなければならないのかがわからなかった。そりゃあ、コーヒーでも零して汚したりす
れば、確実に弁償だろうが。
 呆れ混じりにため息をついた俺に構わず、坂本がまた原稿を読み始めた。良く考えれば論点
をずらされただけなのだが、なんとなく勢いに負けてしまった今、もう一度妨害しなおすというの
も決まりが悪い。
 有無を言わさずに原稿を取り上げる。そして反論される前にとっとと帰る。俺にはそれが最上
の解決策に思えた。だとするならば、原稿を取り上げても、いきなり図書室から出て行っても不
自然ではない理由が必要だった。
 だから結局、やることは変わらない。さっさとタイトルを決めて、完成したから部室に行く、と言
えば良い。それだけの話だった。

 俺は思いついたネタを書き込むために持ち歩いているメモ帳に、作品に出てくる名詞を片端
から書き出していた。
 館ものなら館の名前をそのまま使ってしまえば良い。同じように、作中にある特徴的なものの
名前を使えば、それなりに格好のつくタイトルになるのではないだろうか。何よりも、新しくタイト
ルを考えるよりは、とっかかりがある分だけ浮かびやすいような気がした。
 探偵役で主人公でもある間島航一を使うのは楽そうだが、どうにも前例が多すぎる。ヒロイン
である南香奈枝でも、それは同じだろう。逆に犯人の井上多佳子を、などと考えもしたが、タイト
ルで犯人をばらしてしまうミステリーのどこに面白みがあるというのか。
 では被害者はどうだろうか。稲葉信二は舞台と登場人物の説明があらかた終わったら、すぐ
に殺されてしまう。起承転結でいうなら起の部分だ。これなら、あらかじめ被害者とわかってしま
うようなタイトルをつけても、面白みを損なうことはないはずだ。
 稲葉信二殺人事件。いや、いくらなんでも直球すぎる。
 今回は心理トリックに重点を置いて書いたつもりだった。どうやって殺したのかは、かなり早い
段階で解明されるが、それは誰でも犯行が可能だということしか示さない。終盤のちょっとした
発想の転換で、探偵役は犯人を特定出来ることに気付く。そういう筋だった。
 この心理トリックを匂わせるような名詞、例えば勘違いとか、思い込みとか、そういう言葉と組
み合わせれば良いのではないだろうか。
 俺はメモ帳に文字を書き込んでいた手を止めて、集中した。トリックを考える時と同じだ。材料
は揃っている。あとは組み合わせて、形にすれば良い。
 二十秒か、三十秒か。隣で原稿を読んでいる坂本が、ぺらりとページをめくった。文字の書か
れていない、原稿の裏側が視界の端に入る。
 閃いた。
 その言葉が消えない内に、素早くメモ帳に書き込んだ。
 坂本の手から、原稿を取り上げる。
「ちょっと、まだ読み終わってないわよ」
「残念だが、タイトルが決まった。今から部室に行くからその要求は却下する」
 筆箱とメモ帳と原稿を、まとめて鞄に放り込んで、俺は立ち上がった。
「ふーん、なんてタイトル?」
 俺は自分の中ではかなりまともな部類に入るタイトルを口にした。
「稲葉信二と裏側の盲点」
 しかし、坂本の反応は中途半端だった。曖昧な態度を取ることなど滅多にない坂本が、口の
中でもごもごと呟いて、なんとも言えない表情をしている。
 褒め称えろとは言わないが、もう少しこう、早川にしてはまともだね、みたいな言葉くらいあっ
ても良いんじゃないだろうか。
 まあ、良い。目の前で読まれて、そのまま感想を言われたり、あるいは駄目出しをされたりす
るよりは、曖昧な反応の方がまだましだと考え直す。
 他の部員たちの感想なら別に良い。だが、坂本はまずい。坂本の書く作品もまた、ミステリー
ばかりだからだ。坂本が妙に俺に絡んでくるのも、たぶんそこら辺が理由だろう。ただ俺はちゃ
んと自覚している。明らかに坂本の作品の方が面白い。良く練られたトリック、納得のいく動機、
周到に張られた伏線、それらを支えるしっかりとした日本語と、筆力。
 そんな坂本に褒められれば逆に腹が立つだろうし、駄目出しされれば、時間がないのに修正
したくなってしまうだろう。
 だからさっさと部室に行こうと、俺は鞄を持って歩き出した。後ろから坂本の声がかかる。
「ところでさ、犯人って井上とかいう女の子? その稲葉と付き合ってる子」
 足が止まる。やっぱり敵わないと、そう思った。
「はいはい、正解正解」
 振り向かないまま、軽く手を振った。また歩き出す。
 坂本をライバルと呼ぶには、あまりに実力差がありすぎる。俺は廊下に出てから、小さくため
息をついた。

 文芸部室は図書室と同じ北校舎の四階にある。発足当時は南校舎の三階にあったらしい
が、二代前の部長が資料探しに便利だからと、生徒会にねじ込んだという話だ。実際のところ
は、南校舎四階で活動しているブラスバンド部の騒音から逃げたかっただけに違いない。
 坂本がさっき原稿を出してきたというのだから、少なくとも部長はいるだろうと、気楽に部室の
引き戸を開けた。
「遅い」
 俺が挨拶を口にするより先に、室内から冷たい声が飛んできた。
 広いとは言えない部室の中央は長机に占拠されている。そこに置かれたノートパソコンの画
面から顔を上げ、われらが文芸部の黒井部長がこっちを睨んでいた。
 部長も坂本と同じく眼鏡をかけているが、坂本のそれが一昔前の図書館司書という印象なの
に対して、部長のそれは、できる女をそのまま体現したようなノンフレームの眼鏡だ。部長は厳
しく自身を律しており、文芸部の長として申し分ない人だが、他人への要求も同じだけ高い。
「いや、はい。すみませんでした」
 思わず目をそらして、謝罪の言葉を口にしながら部室へ入る。非が完全にこちらにある以上、
反論など出来たものではない。
「とりあえず、あと数箇所直したら完成なので、パソコン貸してもらって良いですか?」
「推敲は終わっているんだろうな」
 今ここで考えながら書く、などと言ったら辞典の一冊くらい飛んできてもおかしくない殺気がこ
もっていた。俺は慌てて持っている鞄を指し示した。
「終わってます。全部メモしてあるんで、十分とかかりません」
「……わかった。少し待っていろ」
 部長は俺からパソコンへと視線を戻した。おそらく坂本の作品の誤字などをチェックしている
のだろう。部員の原稿の最終的な校正は、顧問である西先生と、部長が行っている。怪しげな
日本語を見つけたら、この部分は本当にこれで良いのかとメールが入ってくるのだ。
 幸い、俺は世話になったことがない。自分で真面目に見直しをしているからというのもあるが、
締め切りを破ってばかりなので、部長たちも詳細に読み込む時間が足りないのだろう。次回の
部誌こそは締め切りを守ろうと、何度目になるかわからない決意を新たにしておくことにする。

5 名前: 一 『牛丼日和殺人事件』事件 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:43 ID:wp/f2a/6
 部長の後ろに回って、坂本の作品を読みたいという気持ちもあったが、我慢した。ミステリー
を途中から読むのは邪道以外の何物でもないし、このタイミングで読んでも自分の作品への自
信がなくなるだけだ。
 俺はわざわざ部長の対面の席へ座り、暇潰しがてら修正箇所を見直すことにした。
 今回の作品は二十四枚の短編だ。部長が部誌の段組やフォントを前回から弄っていないの
なら、紙面でも同じく二十四ページになるはずだった。
 頭から順番に見直すつもりだったが、鞄から取り出した原稿はなぜか五ページ目が開かれて
いた。少し考えて、気付く。原稿を取り上げたときに坂本の読んでいたページが、そのまま先頭
に来ているというだけの話だ。
 ページを戻そうとした手が、あることに気づいて固まった。五ページ目は主要登場人物こそ四
人全員の紹介が終わっているが、殺害方法だとか心理トリックだとかを考えるような段階ではな
い。なにしろ、稲葉信二がまだ死んでない。事件が起こっていないのだから、推理など出来るわ
けがないのだ。
 坂本は、井上多佳子が犯人じゃないかと聞いてきた。
 推理小説を読みなれていて、自身でも書いている坂本だから、俺の考えたトリックを早々に見
破ったのだと思っていた。坂本なら、探偵役よりも先に犯人へ辿り着いても不思議ではないとも
思った。
 しかし、これは違う。どうやったら起こってもいない事件の犯人が、わかるというのだろうか。
「早川」
 悩んでいたところへ、部長に声をかけられた。
「使って良いぞ」
「ちょっと待ってもらって良いですか」
「お前はさっき、推敲まで終わっていると言ったはずだが」
「終わっていたけど、たった今、作品の根幹を揺るがす重大な問題が発見されたんです」
 俺は精一杯真面目に答えたつもりだったが、部長はその大げさな言い回しをふざけていると
受け取ったようだった。俺を睨む目が一層鋭さを増す。
「阿呆なことを言ってると、このまま印刷所に持っていくぞ」
「いや、結構真剣なんですけど」
 今度は目をそらさない。部活動とはいえ、文章を書く人間の端くれとして、俺にもプライドという
ものがあるのだった。
「手を抜けとは言わないが、それで締め切りを破られても困るんだがな。で、何が問題なんだ」
「殺人事件が起こる前に犯人を特定されたんですよ」
 坂本が図書室まで部長の伝言を伝えに来たこと、そのついでに原稿の序盤を読まれて、それ
だけで犯人を特定されたことを簡単に説明した。
「なるほど、確かに大きいミスを犯していないか不安になる話だな。だがまあ、話は簡単だ。そ
の原稿をよこせ」
 部長は机の対面から手を差し出して、指をちょいちょいと動かした。
「失せ物と同じだ。自分では気付かなくても、他人が探せばあっさり見つかることもある。私が読
んで気付いたことは教えてやるから、お前はさっさと推敲した場所を直せ」
 校正はもともと、編集の仕事の一つだ。部長にしてみれば責務を果たしているだけという意識
なのかもしれないが、俺は素直に感謝の気持ちを述べた。
「ありがとうございます」
 原稿を渡すと、部長が何ページまでだと聞いてきた。一瞬なんのことだかわからなかったが、
坂本が何ページまで読んだのかを聞いてきているのだと理解した。
「五ページまでです。五ページのどこまで読んだのかはわかりませんけど」
「了解だ」
 部長は一瞬原稿に目を落とし、何かに気付いたように、すぐ顔を上げた。ノートパソコンをこち
らへ押し出してくる。
 部長に押し出されたパソコンをさらに引き寄せて、自分の方へ向けた。鞄からメモリースティッ
クを取り出して、パソコンに挿す。ワードを立ち上げたところで、修正箇所は部長へ渡した原稿
に直接書き込んでいたことを思い出した。
 仕方がないので、とりあえず牛丼日和殺人事件と書かれたタイトルを消し、稲葉信二と裏側の
盲点と打ち直した。他の部分は出来る限り記憶に頼って修正して、最後に原稿と照らし合わせ
ることにしよう。

「わからんな」
 部長の声に、俺は顔を上げた。
「一応二回読み返したが、一人には絞り込めない」
「じゃあ、坂本の勘だったんでしょうか」
「坂本はお前と同じでミステリファンだ。勘ということはないだろうが……」
 部長は眉根に皺を寄せている。つまりはお手上げということだった。少し悩んだが、俺は改め
て部長に礼を言った。
「いえ、ありがとうございます。わがままを言ってすみませんでした」
 部長から原稿を受け取って、修正に戻る。部長がそこまで真面目に読んでわからないという
のなら、普通に読む人にもまずわからない。部長が坂本より読解力で劣っているというわけで
はなく、そこは単純に得意としているジャンルがミステリかそうでないかの違いなのだろう。
 そう割り切ってしまえば、あらかじめ用意した言葉に書き換えるだけの作業は、ほとんど時間
もかけずに終了した。
 最後にもう一度、誤字や脱字がないかを確認する。
「部長、お待たせしました。とりあえず完成です」
 俺はワードを保存して、部長にノートパソコンを返した。そのまま校正に入るのかと思ったが、
部長はパソコンをシャットダウンして、帰り支度を始めた。
「あれ、帰るんですか」
「お前が最後だったからな。今日はもう人も増えんだろうし、家に帰って茶でも飲みながら校正
するさ」
「重ね重ね申し訳ないです」
 そう言って俺が頭を下げると、黒井は眼鏡の位置を直しながら笑った。
「遅れた分はその内労働でもして返してもらうさ。お前はどうするんだ。残るなら職員室に鍵を返
しておいてくれ」
「いえ、俺も出ます」
 手早く鞄の中に荷物をまとめて、まだノートパソコンを片付けている最中の部長に声をかけた。
「そういえば、そのパソコンって備品なんですか? 去年は坪田部長が使ってましたよね」
「備品といえば備品だが。部費で買ったものではないらしい。毎年の部長が編集作業なんかに
使わせてもらっている」
 誰かが自腹を切った、ということだろうか。気前の良い話だ。そこまで古い型のものではない
ので、ここ数年内の部員だろう。案外、ここに部室を移動させたという噂の、二代前の部長なの
かもしれない。
「ありがたいものだ。情報処理教室までわざわざ足を伸ばす必要がないからな。出るぞ」

6 名前: 一 『牛丼日和殺人事件』事件 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:44 ID:wp/f2a/6
 部長はノートパソコンの入った鞄を、よっ、と声をかけて持ち上げた。そこまで重いものではな
いとわかっているが、毎日持ち運んでいるのだと考えると、情報処理教室まで歩くのとどちらが
楽というものでもない気がした。自分ならどちらが楽だろうかと考えて、原稿のデータが全部一
度に集まるなら、情報処理教室を選ぶだろうと結論付けた。
 つまり、俺や坂本のような部員がいる以上、やはりノートパソコンはありがたいものなのだ。
 心の中で、もう一度部長に頭を下げておく。
 廊下に出て、部室の鍵をかけている部長を待っていると、そういえばと前置きされて尋ねられた。
「タイトルはあれで良いのか? 牛丼日和」
「さすがにあれは仮の奴ですよ。もう直しました」
「そうか。あれはあれで味があると思うがな」
 坂本みたいなことを言わないでくださいと、俺はため息をついた。

 昇降口へ歩き出した部長と別れ、俺は図書室へ向かった。
 推理出来ないはずの犯人を推理して当てる。さっきは気付かなかったが、部室で原稿を見れ
ばその異常に気付く。だから、というわけではないが、坂本はまだ図書室に残っているのではな
いかと思った。
 そんなこともわからないの、とでも言うように、目に笑いを湛えて、俺のことを待ち構えている
坂本の姿が思い浮かんだのだ。
 答え合わせは探偵の仕事だ。ならば自分は答えに気付けないワトソンか、ミスを犯した犯人か。
 坂本がまだ図書室にいるかどうか、実はいない可能性の方が高いと思っていた。何しろ坂本
は図書室の本を読むのが嫌いなのだから、暇潰しも出来ない。なにより、わざわざ坂本が残る
保障がないのと同じくらい、俺が戻ってくるという保証もないのだ。
 しかし、俺は図書室に戻ってきた。坂本もまた、図書室に残っていた。
 さっきまで俺が推敲を行っていた机で、何かを読んでいる。近づいてみれば、それが春に出し
た部誌だとわかった。本が自分のものであるなら、図書室で読書すること自体には抵抗がな
い、ということだろうか。
「よう」
 とりあえず声をかけてみた。待たれていたのは疑うまでもないが、なんと言葉を続ければ良い
のか良くわからなかった。
「出してきたんだ?」
 てっきり目を輝かせて、なぜ推理出来たかわかったかと聞いてくるかと思っていたのに、坂本
の反応は、俺の予想していたものとは違っていた。
「まあ、部長なら気付くよね」
 それどころか、俺と目を合わせないようにして、そそくさと帰り支度を始めた。
「ストップ、待て、止まれ」
 大声を出せない分、言葉の数で意志を伝えて、坂本を押しとどめた。
 おかしい。
 最初は単純に推理した犯人を告げることで、坂本の実力を見せ付けられたのかと思ったが、
それは違った。次に坂本が俺を待ち構えていたことから、作品のミスだか粗だかから犯人を当
てることができた理由を、謎かけのごとく俺に推理してみろと思っているのかと考えた。
 だが、それなら坂本がこんな反応をとる理由はない。
 とにかく、こんな後味の悪いまま帰られてたまるかと、俺は言葉を繋げた。
「結論から言うと、俺も部長もお前がどうやって犯人を当てたのか、わからなかった」
「え、部長もわからなかったの?」
 坂本は心底意外という顔をした。次いで、気まずそうな表情をする。
「だったら、良いんじゃないかな? 私がたまたま気付いただけなんだろうし、わざわざ直すよう
なことじゃないよ」
 直す、という表現を俺は聞き逃さなかった。犯人が割れてしまうような失敗を犯したのではない
かと考え続けていたのだから、当然のことだ。
「直すってことは、やっぱり、ミスがあったんだな」
 坂本が、しまったという風に口に手をあてた。
「教えてくれよ。論理に穴のある推理小説なんて、存在価値ないじゃないか」
 少しの沈黙。坂本は俺から視線を外して、小声で話し始めた。
「別に、論理に穴があるわけじゃないよ。ただ単に、あんたが想定してなかったところから犯人
がわかるってだけで」
 十分に問題だと思ったが、茶々を入れると止まってしまいそうだったので、相槌を入れるだけ
にとどめた。
「あんたの書く話は、探偵が誰で、そいつが誰とくっつくのか、描写に力が入ってるからすぐわか
る。ノックスの十戒を守るなら、最序盤から出てない人たちは犯人になり得ない。だから、主要
人物四人の中で犯人の可能性があるのは二人だけって、簡単に絞り込めるのよ」 
 なるほど。部長もまた、犯人を一人には絞り込めないと言っていた。つまり事件が起こる前か
ら、容疑者は二人に限られていたのだ。
「あとは、タイトルから逆算出来るわよ。推理小説で犯人の名前をタイトルに使うわけがないか
ら、稲葉は自動的に探偵でも犯人でもない役柄に割り振られる。だから、残った井上が犯人よ」
 綺麗な推理だった。しかし坂本の口調には少しも自慢げなところはない。まるで小説に出てく
る探偵そのもののように、淡々と言葉を繋げた。
「なんかさ、ぽろっと犯人当てちゃったけど、早川が良いタイトル思いついたー、って顔してたか
ら、わざわざ説明して水を差すのも悪いかなって。部長だったら普通に気付くと思ってたし」
 坂本は段々と早口になって、自嘲めいた表情で笑った。
「いや、ごめん。悪者になりたくなかったんだよね。完成した直後の駄目出しってきついしさ」
 考えてみれば、変更後のタイトルを部長は知らないままだったのだ。部室の鍵を閉めていたと
き、ちゃんと新しいタイトルを教えていれば、坂本の見立てどおり、部長も犯人にたどりつけてい
たのだろう。
「……気にすんなよ。今のは俺が教えてくれって言ったんだし」
 作品の欠陥を教えられた俺よりも、坂本の方が辛そうな顔をしていた。
「ありがとうな。新しいタイトル考えて、今日中にでも部長にメール入れておく」
 だから、顔に笑みを作って礼を言った。坂本の顔が少しだけ緩む。お互い、笑顔というよりは
苦笑と言った方が正しい気がしたが、笑顔は笑顔だとごまかすことにした。

 結局、二人でぎこちない態度のまま校門まで歩き、じゃあまた、と言って別れた。
 俺は自分の部屋でベッドに転がって天井を見ている。新しいタイトルは、まだ考えていない。
 別れ際に坂本が言っていた言葉が思い起こされる。
「次あたりはさ、いっそ犯人の名前をタイトルに使って、サスペンスものでも書くのもありじゃな
い?」
 ミステリやサスペンスの定義はこの際置いておく。坂本が言いたかったサスペンスは、始めか
ら犯人がわかっていて、事件の関係者の心理にこそスポットを当てた話のことだろう。

7 名前: 一 『牛丼日和殺人事件』事件 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:46 ID:wp/f2a/6
 そして、坂本が俺に言いたかったことは、タイトルのことなどよりも、サスペンスを書けという一
言だったのだと思う。
 駄目出しはきついと言っておきながら、犯人が井上だと俺に告げた。悪者になりたくないと言
いながら、俺が戻ってくるのを図書室で待っていた。どうにも行動がちぐはぐだ。
 タイトルで犯人が特定出来ることは付属物でしかなかった。五ページしか読んでいないくても、
容疑者を二人に絞り込めること、そして二人の内片方が被害者であることの方が重要だったのだ。
 タイトルを変えたところで、稲葉が死んだ時点で犯人が井上だとわかってしまう。
 そんなものは推理小説とは言えない。
 それを指摘されてしまえば、主要人物を何人か増やすしかない。その人物の性格と人間関係
を考え、タイムテーブルを考え、実際の作品の中に自然に溶け込ませる。一から小説を書き直
す方がまだ楽に思えてくる作業だ。
 なにより、確実に締め切りに間に合わない。
 たぶん坂本は甘いのだ。文化祭という晴れの舞台で、部誌に作品が載らないのは忍びない
と、見逃してくれたのに違いない。
 そのために、問題なのはタイトルだと思わせて、構造そのものの欠陥から俺の注意を逸らそう
としたのだろう。
 ごろんと、寝返りを打った。壁が目の前にくる。
 そして、出来るだけ俺が傷つかないように、オブラートに包んで言ったのだろう。
 サスペンスを書け、と。
 ミステリは向いてない、と。
 枕を掴んで天井へ放り投げた。受け損なって、枕は俺の顔面に落ちた。痛かった。
 不意に、机の上に放り出してあった携帯電話が鳴った。
 慌てて体を起こして取ってみると、部長からのメールだった。
 思わず笑いがこぼれた。
「甘い人、ばっかりだなあ」
 メールの文面は部長らしくとても端的だった。
『このタイトルだと、五ページで犯人がわかるぞ』
 何か適当なタイトルを返信しなければと、俺はようやく考え出した。

8 名前: 一 『牛丼日和殺人事件』事件 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:47 ID:wp/f2a/6
 
 
二 対岸の火事と野次馬
 
 

9 名前: 二 対岸の火事と野次馬 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:48 ID:wp/f2a/6
 文芸部誌の締め切りから二週間。つまり、俺が原稿を提出してから一週間たった昼休みのこ
とだ。
 ポケットに入れてマナーモードにしておいた携帯電話が震えた。
 購買で売っているパンの高額さについて熱弁をふるっていたクラスメイトの高橋に、すまんと
断り俺は携帯電話を見た。
 平日昼間に入ってくるメールは家族がらみか部活がらみ、ちょっと可能性が落ちて他校の友
人といったところか。アルバイトはしていないし、何より校則で禁止されている。
 今回の場合は二番目、部活がらみだった。文芸部部長である黒井さんから、部員全員へと送
信されている。
『業務連絡、文化祭当日の店番について。
 一日目。
 九時から十時、佐野、村田。
 十時から十三時、坂本、早川。
 十三時から十四時、金山、高崎。
 十四時から十七時、坂本、早川。
 十七時以降、黒井、白浜。

 二日目、一日目と同じ。以上』
 ありえない。この理不尽な時間割は一体何なのだろうか。俺は低く唸り声を上げただけにとど
めた自分の忍耐力を賞賛したかった。
「どうかしたのか? すげー顔になってるけど」
 金欠だからとうまい棒三本を昼食に代えている高橋が、めんたいこ味を口に入れたまま聞い
てきた。
「いや、一年より立場の低い二年部員ってなんなんだろうと思ってな、世の無情を感じていた」
 よくわからん、という顔をして、高橋はサラダ味にとりかかった。三本しかないのだからもっと
味わえば良いと思うのだが。
 とにかくこんな理不尽には断固抗議すると、俺は返信メールを打った。内容を簡潔にまとめる
なら、店番の時間が平等でない、となるだろう。
 予め文面が用意してあったのではないかと疑うほどの速さで、部長からメールが返ってきた。
曰く、坂本と早川は、締め切りに遅れたので罰労働、とのことだった。
 筋は通っている。というか、いろいろあって忘れていたが、原稿を提出した日に働いて返しても
らうと言われていた。
「はあー」
 思わずため息がもれた。言質をとられている以上、抵抗しても無駄という気がしてきたのだ。
「どうした、嫌なことでもあったのか? 袋の裏舐めて良いぞ?」
「いらない」
 うまい棒の袋を突き出してくる高橋の言動は慰めているのか馬鹿にしているのか微妙なライ
ンだったが、励まそうとしているのだと強引に解釈した。話のついでとばかりに、高橋に尋ねて
みる。
「うちのクラス、文化祭でなにか出店とかやるんだったか? 俺、部活の用事で出られなくなりそ
うなんだけど」
「ああ、そういうメールか。てか、一昨日のホームルームで言ってたろ。うちは部活やってる奴多
いから、みんなそっちで手一杯なんだよ。クラスで出し物する余裕なんかねえよ」
 そういえば一昨日そんな話を聞いたような、いや、ホームルームは寝ていたのだったか。ま
あ、覚えていないのだからどちらでも変わらないか。
「高橋も確か部活入ってたよな。料理部だっけ?」
「製菓部だよ。俺が作れるのは甘いもんだけ。ケーキとかクッキーとか作るから食いにこいな。
数量限定でシュークリームもやるぞ」
 そういう自由時間がほとんど絶望的になるメールだったのだが、わざわざ言うまでもないだろ
う。昼飯を食う時間くらいはあるだろうし、その時ついでに冷やかしに行けば良い。
 しかし、俺のクラスはたまたま何もやらないようだが、同じように一日あたり六時間拘束される
坂本のクラスはどうなのだろうか。たしか坂本は三組だったはずだが、そういった情報を俺に流
してくれそうな友人は、当の坂本くらいしかいなかった。
 今日の放課後は部室に顔を出して、そこら辺を話し合った方が良いだろうかと考えながら、俺
は焼きそばパンを頬張った。

 その坂本からメールが来たのは、昼休みのあと、俺が睡魔と格闘していた世界史の時間だっ
た。授業中のメールは感心せんな、などと考えながら、俺は受け取ったメールを読んだ。メール
と睡眠、授業中にやって罪が重いのはどちらだろうか。どちらも話を聞いていないという点では
同じという気もする。
 メールの内容は、あの時間割はありえないから始まって、部長への呪いの言葉が連なり、続
けて俺への罵りに繋がって、気がついたら今日の昼に食べた弁当のハンバーグは絶品だった
とか書いてあって、最後に放課後部室に顔を出せやコラ、で結んであった。
 仮にも文章を書く人間なのだから、もう少し綺麗な話運びをして欲しいものだ。部誌に推理小
説を書いている坂本と、普段そこら辺を歩いている坂本は、実は別人なのではないだろうか。
 メールがあまりにも長すぎてどう返事をして良いのかわからなかったので、とにかく一番最後
の部室に来い、という部分に対してだけ、わかったと返しておいた。
 頭を使ったおかげか、眠気も飛んだので、俺はおとなしくノートをとり始めた。
 教卓に立つと、生徒が漫画を読んでいたりメールを打っていたりするのは一目瞭然だという話
だが、メールを打つ前よりもまじめに授業に取り組む気になったのだから、授業中の息抜きとし
て少しは見逃して欲しい物だ。もちろん、屁理屈以外の何物でもないわけだが。

 放課後、掃除当番を終わらせてから、呼び出しどおりに部室へと出頭した。締め切り破り以外
に悪いことをした覚えはないので、言わば同じ穴のムジナである坂本の呼び出しに対して出
頭、というのもおかしな話だが、気分としてはそういう感じだった。
 メールに書いてあったように、俺が締め切りをちゃんと守っていれば、この罰則店番はもっと
短くなっていた、という主張を、もう一度口頭で語られるのかと思うと、気が重かったのだ。店番
がペアでやるものである以上、一理はあるが、それは坂本が締め切りを守っていた場合も同様
なので、真理ではない。
「遅い!」
 がらりと引き戸を開けると同時に、坂本の声が飛んできた。つい一週間前も似たような出迎え
を受けたことを思い出して、笑いそうになったのを堪える。このタイミングで笑えば面倒なことに
なるのはわかりきっているからだ。
 部屋の中には、気炎を上げている坂本と、迷惑そうに眉をしかめている部長、そして線なんだ
か目なんだ区別のつかない表情でにこにこ笑っている白浜さんの三人だけだった。
 部長である黒井さんと、副部長である白浜さんがいるのはわかる。印刷所への入稿が終わっ
たとはいえ、文化祭の絡みでなんやかやと話すことがあるのだろう。俺を呼び出した坂本がい
るのも至極当然だ。しかし、それ以外の部員が一人もいないのはどういうことだろう。

10 名前: 二 対岸の火事と野次馬 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:48 ID:wp/f2a/6
 一週間前同じ様に、遅いと出迎えられたときは、原稿の遅れにプラスして、放課後の時間とし
ても十分遅かったから、部長しかいなかったのもうなずける。だが、今日はまだ時間も早い。村
田や高崎あたりの、生真面目な一年部員は顔を出していてもおかしくないはずだった。
「他の奴らはどうしたんですか?」
 とりあえず、まともな返答を期待出来る部長、副部長のコンビに聞いてみた。
「避難させた」
「高崎さんあたりの一年生を坂本さんの隣に置いておくと、進んで店番を代わりかねなかったか
らね」
 部長の端的な返答を、白浜さんが補足した。妥当な判断、というところだろうか。考え方によっ
ては、この二人に、俺や坂本に楽をさせてやろうという慈悲は欠片もないということだから、非道
な判断というべきかもしれない。
「坂本、元はと言えば俺たちが悪いんだ、そう荒れるな」
 まずは話し合いが出来る状況を作ろうと、不機嫌そうな坂本に声をかけた。
「締め切り破ったのは私なんだから、店番はするわよ。それが出来なさそうだから荒れてるんじゃ
ないの」
 意外な返答だった。昼のメールを読んだ俺は、いかにして部長へ抗議し、割り当ての時間を
減らすかについて、会議でもするのではないかと睨んでいたからだ。
 とにかく座りなさい、とばかりに、ばしばしと机を叩く坂本の隣の椅子へ腰を下ろす。
「なんだ、クラスで何か出し物でもやるのか?」
「誰から聞いたのよ」
 勘だった。というか、同じ心配を昼休みにしていたから、当然の発想でもあった。
「級長がくじで当てちゃったのよ、舞台の三十分使用権。半分冗談で抽選に行って、当てて帰っ
てくるんだから性質が悪いわ。他にもっと使いたいクラスも部活もあったでしょうに」
「三十分だろ? 時間が被ってても、それくらいなら俺一人で店番してるぞ」
 文化祭は来週の末だ。今日が木曜日だから、準備期間から考えても合唱あたりが妥当なとこ
ろだろう。
 しかし、俺の言葉を聞いた坂本は頭を抱えて机に突っ伏した。
「そうよ合唱あたりでお茶を濁せれば何の問題もなかったのに、直前がアカペラ部で、直後が合
唱部なのよ。何が何でも劇をやらなきゃいけない雰囲気なのよ」
 それは災難だ。アカペラ部も合唱部もそう大きい部活ではないが、さすがに素人の合唱では
見劣りするだろう。
 坂本は頭を抱えたまま唸り声とも呪詛ともつかぬ言葉をぶつぶつと搾り出している。
「あー、劇をやるのはわかったが、それでも準備後始末合わせて一時間かからないだろう。そ
れくらいなら俺が」
「台本!」
 がばっ、と体を起こした坂本は、ひと際大きな声で叫んだ。
「台本がいるのよ。しかもそれを書けって頼まれたのよ。今週中によ。文芸部を何か根本的に
勘違いしてるに違いないわ、あの級長は!」
「ああ、それは……」
 どうにもフォローのしようがなかった。むしろ助けを求めて俺は部長たちの方を見たが、二人
はこちらを気にする素振りもなく、何かの書類に向かってボールペン片手にぼそぼそと話し合い
をしている。全くの孤立無援だった。
「断れば良かったのに」
 悩んでいる以上はもう引き受けてしまったあとなのだろうから、言っても詮無いことなのだが、
思わず言ってしまった。

「断れるわけないじゃない。うちのクラス演劇部とかいないし、芸を売りに出来るような特技持ち
もいないし、私が最後の砦だったのよ」
 なんとなく想像がついた。
 合唱では完全に恥をかく。場を盛り上げるための芸もない。転がり込んできてしまった三十分
を、どうにかこうにか持たせるためには、劇しかない。そういう状況で、坂本に頼みにきたという
三組の級長は、完全に進退窮まっていたに違いない。
 つい最近気付いたのだが、普段は自分こそがルールという顔をしているくせに、最後の最後、
どうにもならない一線を越えてしまうと、坂本は優しい。甘いと言っても良いくらいだ。たぶん坂
本は、今ここで晒しているような醜態はおくびにも出さず、いつも通りの自信に満ちた表情で、
任せろと言ったのだろう。
「まとめると、なんだ。台本が完成しない限りは、クラスメイトに合わせる顔がないと」
 坂本はこくりとうなずいた。
 当日のスケジュールは問題がなくても、今の坂本は心情的に先のことを考える余裕がないの
だ。台本が完成しなくても文化祭は来るが、完成させない限り、坂本は使いものにならない。
「話は良くわかった。それで、俺を呼び出した理由はなんだ」
「手伝って」
「帰る」
 立ち上がろうとしたが、右手の袖を掴まれた。振り返ると、坂本はいやいやをするように首を
振っている。ポニーテールと呼ぶにはいささか硬すぎる髪の毛が揺れる。
「私、遅筆だから一人じゃ無理。そしたら台本が完成しないでしょう。そうすると困るのは早川な
んだから、早川は手伝わなきゃ駄目だと思う。……お願い」
 俺は息を大きく吐いて、椅子に座りなおした。
「俺も遅筆だぞ」
 坂本が力の抜けた顔で笑った。また一つ、坂本の新しい表情を見つけた。

「部長」
 相変わらず白浜さんと額を寄せ合って何事か話している部長に声をかけた。
 さっきはあれだけ騒いでいた俺たちをちらりとも見なかったのに、呼んでみると部長はあっさり
と振り向いた。たぶん、意図的に無視していたのだろう。ひどい話だ。
「パソコン借りて良いですか?」
 情報処理教室まで行けば空いているパソコンの一台や二台あるだろうが、作るものが舞台の
台本だ。あまり大人数の前でああだこうだと相談して、ネタばらしをすることは避けたかった。
 その点、文芸部のノートパソコンを借りられるのなら、ネタがばれるのは部長と白浜さんの二
人だけで済むのだった。それに、部長が舞台を見て大口開けて笑ったり泣いたりしているところ
など、まったく想像がつかない。ネタがばれたところで、部長たちが舞台を見ることはないだろう。
「今は使っていない。貸しても良いが、私たちに使う用事が出来たら容赦なく返してもらうからな」
「はい、ありがとうございます」
 部長からノートパソコンを借り受けて、俺はワードを立ち上げた。
「え、何。あんたワード使ってるの?」
 隣から坂本が口を挟んできた。
「台本作るのにエクセル開く奴はいないと思うが」
 軽口を叩くと、坂本がそうじゃなくて、と首を振った。

11 名前: 二 対岸の火事と野次馬 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:49 ID:wp/f2a/6
「ワードってなんか余計な機能ついてて好きじゃなくてさ。何かテキストエディタ入ってないの? 
部長が使ってる奴でしょ、これ」
 坂本の言うことには一理あった。俺自身、ワードを使って書き始めたばかりのころは、台詞部
分の口語体にまでいちいちチェックを入れてくる、文章校正機能を鬱陶しく思ったものだ。
「いや、便利なところもあるんだって。部誌みたいな一行二十三文字の二段組とかも組めるか
ら、実際何ページになるかも確認出来るしさ」
「そんなの、完成させてからコピーして貼り付けて確認すれば良いじゃない」
「確認した時に切れて欲しくない台詞がページをまたいでたら嫌じゃないか」
「それくらい前後の表現を見直せばいくらでも修正が効くわよ」

 結論が出ない上に不毛な議論は、パソコンの操作を坂本が担当するということで、テキストエ
ディタを使う方向に落ち着いた。テキストエディタは秀丸とサクラエディタが入っていたが、坂本
が使い慣れているという理由で、秀丸を使うことになった。
 時間もないのに馬鹿なことをやったものだ。白浜さんが時折こちらを見て笑っていたように感
じたのは、俺の被害妄想というだけではないはずだった。笑顔以外の白浜さんの表情というも
のを見た覚えがなかったが、この際それは気にしないことにした。
「さて、なんだか無意味に時間を使っちゃった気がするけど、とりあえずはじめるわよ」
「ああ、とっととはじめよう」
 お互いの主導権の確認という意味では、決して無意味ではないはずだ。というか、そうとでも
思わないとやっていられない。自分はあくまでも坂本の手伝いであって、坂本のやりたいように
やらせてやれば良いのであった。それに、本当なら坂本が一人で書いた方が、より良い作品が
出来るに違いなかった。時間という制約があるから、俺は仕方なく手伝っているだけなのだ。
「ジャンルは何にしようか」
「そこからなのかよ!」
 思わず突っ込みを入れてしまった。やりたいようにも何も、何も決まっていなかった。
「ミステリってわけにはいかないわよね、舞台の上じゃトリック考えても再現できないだろうし」
「待て、一回待て」
「何よ」
「情報が足りない」
 舞台に立つ役者は何人程度なのか、小道具や大道具、衣装を作る時間はあるのか、そもそ
も三組の生徒は舞台劇をやることにどの程度乗り気なのか。坂本が自明のものとして把握して
いるそれらの情報を教えてもらわなければ、ネタ出しすら手伝うことが出来なかった。
 坂本が言うには、せっかくの文化祭だから何かやりたい、ということで三組の意見は固まって
いるらしい。その中で舞台に立っても良いという目立ちたがりと責任感のある人間は、十人くら
いだという話だった。衣装などはクラスメイトの手持ちのものを寄せ集めるらしく、自分たちで作
ったりはしないらしい。
「その十人以外はほとんど使えない、ってことだな」
「そうなるかな。模造紙とか絵の具とか買うなら、カンパぐらいは集められると思うけど」
 そして、舞台経験のある人間はなし。せいぜいが小学校の学芸会時代の話だ。
 それならば、ちゃんとしたストーリーのある話をやるのは無謀だ。一週間では、台詞を頭に入
れる時間がまず足りないだろう。となると、考えられる選択肢は童話のパロディか、この学校の
有名人を使ってコント仕立てにするか、何をするにしても笑いをとりに行くという方向性だけは揺
るがないだろう。
 俺がそう言うと、坂本は目を丸くした。
「詳しい、っていうか、よくそんなにスラスラ出てくるね」
「阿呆、腐っても元演劇部だ」
「え、そうなの」
 坂本はさらに目を丸くした。
「そうなのって、知ってたから手伝えって言ったんじゃないのかよ」
 わざわざ呼び出して手伝わせたのだから、誰か――例えば、俺と同じ中学校だった金山あた
り――からそれを聞き出して、目をつけたのだと思っていた。
 そう指摘すると、坂本はわざとらしく手で頭を掻いた。
「一緒に店番をする仲だし、当日私がいなかったら早川が困る。これは一蓮托生だな、って感じ
で、そういう深いことはあんまり……」
 ただ腹いせに巻き込んだということらしかった。
 坂本は考えていないようで色々考えている奴だと思っていたが、実はやっぱり何も考えていな
いのかもしれない。
「ところで、なんで童話とかコントなの?」
「童話だったら、話の流れと台詞は大体誰でも知ってるだろ。コントは、そっちが重要なんじゃな
くて、例えば先生の口癖をネタにするなら、わざわざ台詞を覚える必要がないから楽なんだよ」
 なるほど、と坂本はうなずいた。
「笑いをとりに行くのは、お客さんを退屈させないためか。素人がやるシンデレラとか見せられて
も面白くないもんね」
 そういうことだ、と俺もうなずいた。台本と小説という差はあっても、それを受け取る人間がい
る、という部分は変わらない。
 舞台なら観客が、小説なら読者が、面白いと感じないのだったら、それと関わるのは大げさに
言ってしまえば時間の無駄だ。
 そこら辺、坂本も小説を書く人間として何か思うところがあるのだろうが、客を退屈させない、
という部分で共通認識は取れているようだったので、わざわざ聞くようなことはしなかった。
 舞台の場合は特に、演じたそばからリアルタイムで観客から反応が返ってくる分、客席がしら
けたときの焦りは半端ではない、というのも理由のひとつだが、それは今坂本に言ったところで
どうにもならないことだった。
「どうする、童話で行くか。それともコントで行くか」
 坂本はわざとらしく腕を組んで、うーん、と唸ったあと、あっさりと言った。
「コントで行こうか。ネタの数を変えれば、三十分っていう時間制限に合わせて長さも調整しやす
いし」
 百点の回答に、俺は内心で舌を巻いた。
 ただ台本を完成させるだけなら、童話を選ぶ方が明らかに楽なのだ。ストーリーや台詞を把
握しているのは、演者だけでなく、台本を作る坂本にも言えるのだから。
 だが、実際に舞台で演じるとなると、尺を合わせることが何より難しい。台詞を言う人間が早
口だったり、台詞と台詞の間のための長さが違ったりと、不確定要素が多い。同じ台本でも、演
じる人間が違うと十分近い差が出てくることがあるのだった。
 だから、坂本が上演時間まで念頭においてコントを選んできたことに感心したのだ。
 先を見越し、問題を把握して、解決策も考える。
 自信を持っている人間は、自信に見合った何がしかを、やはり持っているものなのだ。
「じゃあ、次はネタ出しかー。内輪ネタを避けるとしたら、先生か、ぎりぎりで生徒会長ってところ
かな」
「そんなところだろうな」
 俺たちは、手始めに自分のクラスで単元を受け持っている教師の名を順に上げ、次に一年時
の担当教師の名も上げた。上げた名前は、片端から坂本がパソコンへと打ち込んだ。

12 名前: 二 対岸の火事と野次馬 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:50 ID:wp/f2a/6
「あとは、校長と、教頭と」
「学年主任と生徒指導ってところじゃないか」
 他にはどんな教師がいただろうか、と考えていたが、良いことを思いついた。三人よればなん
とやら、だ。人に聞くという手があるじゃないか。
「部長とか白浜さんの知ってる先生で、名物教師っていますか?」
 長机のほとんど対角線にいるおかげで、意識しなければ視界に入らない二人に声をかけた。
「顧問の西先生はあれでなかなか面白い人だが」
「んー、山田先生なんかが有名なんじゃないかな。あの先生、鼻炎持ちなのか知らないけど、板
書しながらすぐに鼻を啜るんだよね。数えた人の話によると、一時間の授業で三百回超えたと
か超えないとか。まあ、数えたのは僕なんだけど」
 それぞれ答えが返ってきた。部長はともかく、白浜さん。授業中にノートもとらずに何をしてい
たんだか。とりあえず礼を言って振り向くと、坂本は西、山田と二人分の名前を既に打ち込んで
いた。
 そのあと坂本は少し思案顔になって、山田の名前を消した。
「あれ、なんで?」
「私、山田先生受け持ってもらったことないもん。早川もでしょ」
「ああ、ないな」
 だが、それがネタにしない理由になるのだろうか。
「ディテールがわかんないから、使わない。私が白浜さんのまた聞きで書いても、たぶん面白い
ものにならないもの」
 納得の行く理由だった。知らないものを中途半端な知識で書いても、ろくなことにならない。
 俺もそれで痛い目を見たことがあった。簡単に言ってしまうと、知ったかぶりで明治時代の風
俗について書いたことがあるのだが、案の定、あとになってから詳しい人間に突っ込まれた。あ
の話が載っている部誌は、全て火にでもくべてしまいたいところだが、去年の文化祭で百部以
上が出回っている。回収するのは不可能だ。誰にでもある、消したい過去という奴だった。
「そうすると、俺は受け持ってもらったことあるけど、お前が知らない先生はどうするんだ?」
「あんたが書けば良いじゃない」
 道理だった。
 しかし、その言葉に一つ思いついたことがあったので、意見しておくことにした。
「じゃあ、名前だけ残しておいて、クラスで聞いてみろよ。案外、去年教えてもらってた奴がいる
かもだぞ」
「あ、それはありだわね」
 坂本はあっさり主張を引っ込めて、山田の名を改めて付け足した。
「そう考えると、あんたが書く先生は、受け持ってもらったことのある人を探して、役を割り振った
方が良いかな」
「そうだな、その方が良いと思う」
 やる気があるという十人の中に該当者がいてくれれば良いのだが。

 名前のリストアップが済んでしまえば、ネタ出しは意外に順調に進んだ。
 どの先生にも生徒の口に上る逸話や噂話の一つや二つはあるもので、それらを書き出すだ
けでも十分だったのだ。
 例としては、どんな学校にも一人はいるであろう、カツラ疑惑がある日本史の深井だとか、授
業中に堂々とアニメのビデオを上映して、その作品に隠されたテーマについて語る哲学の森が
挙がるだろうか。
 ただ、坂本は出したエピソードをネタの中で正確に伝えようとするので、笑いどころが逆にわ
かりにくくなることがあった。コントにするのだから、多少大げさになるくらい脚色しても良いと、
何度か口を出した。
 また、舞台の形式についても、経験者として意見させてもらった。
 教室の机と椅子を四セットと、移動出来る白板を舞台に並べて、即席の教室を作るのだ。生
徒役四人は出ずっぱりになるが、授業という形で舞台を進める以上、台詞はそう多くならない。
ついでに、一人はずっと寝ているということにすれば、やる気のある十人以外から生徒役を引っ
張ってこれるかもしれなかった。
 あとは、残りの人間で入れ代わり立ち代わり教師役をして、授業を行う。教師役は一人につき
二、三役することになるかもしれないが、出番と出番の間に時間が取れるので、台本で台詞を
確認する余裕があるはずだった。
 一応、教師のネタは三つ四つ多めに用意しておくようにと言っておいた。本番になると緊張で
早口になる人間は必ず出てくるはずだ。舞台袖でタイムキーパーをする人間を設けておけば、
三十分という時間に合わせて、あと幾つのネタを回せるか計算出来るだろう。
 どんどんと完成していく台本に、俺は少しばかり懐かしい感覚を味わっていた。中学校の三年
生のとき、近所の保育園でやる白雪姫の台本を書いていたときも、今と同じ様にすらすらと書け
たのを覚えている。
「なんていうか、気持ち悪いわね。台本書いてると、自分の筆が速くなった気がするわ」
 坂本が眉を寄せて言った。
 俺も坂本も、お互いが遅筆であることを良く知っていた。坂本は、その二人で書いているの
に、台本がこうも早く形になっていくことが不思議なのだろう。
「小説書くときほど真剣に言葉を選んでるわけじゃないけど、手を抜いてるわけでもないのに。
うーん、地の文がないから?」
「地の文の代わりは、舞台でやるもんだからな」
 ト書きは何箇所か書いてあったが、台本は大部分が台詞で出来ている。ネタにされている教
師の姿を知っているから、俺には台詞だけでもそれがどういう状況なのかがわかる。だが、例
えばこの台本を四月の新入生に見せても、全く意味がわからないだろう。
 役者の声の強弱、感情、身振りや手振り、舞台装置などがあってはじめて、脚本を書いた人
間の頭の中ある状況が、誰の目にもわかるように再現されるのだ。
 それら全てを肩代わりする地の文を書かなくて良いというのは、確かに筆が進む理由の一つ
に違いなかった。そう考えると、文章一本で勝負しなければならない小説というのは、演劇に対
して大きなハンディを負っているのかもしれない。
 しかし実際のところ、俺たちの頭の中にある状況が舞台上で再現されたとしても、面白いと思っ
てくれるのはこの高校の生徒と、教師の一部くらいだろう。ネタにされている先生を知らない一
般来客にはやはり意味がわからないだろうし、教師を笑いの種にすることを不謹慎と考える人
間も少なからずいるはずだった。
 特に、ネタにされることを愛されているからではなく、悪意からだと勘違いする教師は確実にい
るだろう。
「台本が完成したら、級長あたりと手分けして、ネタにする先生に挨拶に行っておいた方がいい
かもしれないな」
「ああ、うん。確かにね。そうするわ」
 俺が言葉の裏に込めた意味を、坂本は正確にはかり取ったようだった。
 そして、生徒にしか受けないという部分は、俺にしても坂本にしても織り込み済みなのだった。
もともと、素人が無理やり三十分間もたせるためにでっち上げている企画だ。客の中で最も数
が多いだろう生徒にターゲットを絞るのは当然のことだった。

13 名前: 二 対岸の火事と野次馬 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:50 ID:wp/f2a/6
「完成っ!」
 かこん、とパソコンのエンターキーを押して、坂本が声を上げた。
「出来るもんだな、意外に」
 授業という形態をとった時点で、校長や生徒会長といった名前はネタの候補から消えていた
が、それでも二十一人分の教師を使ったコントの台本が完成していた。
 坂本はいそいそと保存をかけている。ふと気付いて、俺は横から声をかけた。
「待った、そこに保存しても意味がない。メモリスティックか何か持ってるか?」
 持っていなければ、鞄の中に放り込んである俺の奴を貸すつもりだった。
「そうだった、そうだった。完成したことに満足するところだった」
 そう言って、坂本は鞄の中から筆箱を取り出し、さらにその中からメモリスティックを取り出した。
 データをメモリスティックへ移動させて、坂本はパソコンをシャットダウンした。
「あとは一日寝かせて、明日の朝もう一回見直す。プリントアウトして級長に渡せばお仕事終わ
り。めでたいっ、早川手伝ってくれてありがとうっ」
 坂本のテンションは高い。今にもいえーい、と叫びだしそうだった。俺が部室に来たときとは、
逆の意味でのテンションの高さなので、見ていて気持ち良い。俺自身、一日で台本を完成させ
たことに多少興奮を覚えていた。
「お、終わったか」
 台本作りに夢中ですっかり存在を忘れていた第三者、部長の声で高揚していた気分が現実に
引き戻された。
 顔を向けてみれば、部長はいつの間にか帰り支度を整えて、手持ちの文庫本を読んでいたよ
うだった。白浜さんもまた同じく荷物を綺麗に片付けていて、こちらは何年か前の部誌に目を落
としている。
「もしかして、待っててくれたんですか」
 やはり現実に引き戻されたのだろう坂本が、ちょっと気まずそうに部長に問いかけた。
「いやなに、使う用事が出来たらパソコンを返せとは言っていたが、こっちの用事が終わったら
帰る、とは言っていなかったのでな」
「すす、すみません。お待たせしました」
「パソコン、ありがとうございました。白浜さんも、お待たせしてしまってすみません」
 俺も、慌てる坂本と共に頭を下げた。
 白浜さんはいつも通りの笑顔で、いいよ、いいよと手を振った。
「僕はみのりちゃんの付き合いみたいなもんだから気にしないで。このあと、甘味処であんみつ
食べて帰る予定だったから待ってただけだよ」
 ね、と白浜さんは部長に笑顔を向けた。部長が、すぱん、と白浜さんの頭を軽くはたいた。部
長の顔が少し赤い。甘いものが好きだったとは、部長もやはり女の子だということだろうか。い
や、白浜さんが甘党という可能性も大いにあるが。
 部長がノートパソコンを鞄にしまう間に、俺たちも帰り支度をした。何気なく時計を見てみると、
既に六時を回っていて、そこでもう一度謝った。明確な決まりではなかったが、文芸部は大体五
時には活動を切り上げて帰るのが常だった。
「なに、たかが一時間と少しだ。ついこの間はお前たち二人に一週間待たされたのだから、短
いものだ」
 返す言葉に困った。坂本も複雑な顔をしている。冗談で言っているのか嫌味で言っているの
か、部長の真顔からは判別がつかなかったのだ。ただ、白浜さんだけは声を上げて笑っていた。

 そんなことがあった次の週の火曜日の話だ。
 部室に顔を出すと、またも坂本が頭を抱えて唸っていた。どうしたのかと尋ねると、やはり呪
詛を吐くような低い声で、役が当たったのだと返してきた。
「西先生に受け持ってもらったことのある人がいなかったのよ。一番面識があるのが文芸部の
私だったのよ。顧問だから当たり前じゃないの。ああああ、あの時、山田先生と西先生の名前
を消しておけば良かったのよ。そもそもあんたが部長たちに声かけなきゃ良かったんじゃない。
早川の阿呆、馬鹿、間抜けー」
 ということらしかった。
 当日のスケジュール次第では、金山か佐野あたりに店番を代わってもらわねばならないだろう。
 とりあえず、週末の文化祭、坂本の演じる西教諭が一番の楽しみになった。

14 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:51 ID:wp/f2a/6
 
 
三 黒くて熱くて苦いもの
 
 

15 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:51 ID:wp/f2a/6
「では、ミーティングを始める」
 早朝の文芸部室という、部員の誰にとっても珍しい空間に、部長である黒井さんの声が響いた。
 十一月三日、文化祭一日目の朝である。
 ミーティングと言ってもやることは店番についての最終確認だけなので、そう時間のかかるも
のではない。しかし、白浜さんや金山といった一部の部員は、クラスで模擬店を出すために文
芸部のミーティングのあと、すぐさまクラスのミーティングに出なければならいということらしかっ
た。そのため、開門直後の七時などという時間に、部員全員が部室に集合することになったの
だった。
 俺は椅子に座ったまま、なんとなく部員たちの顔を見回した。意外と生真面目な人間の多い
部活なので、遅刻者はいなかったが、俺以外にも金山と村田が眠そうな顔をしていた。
 特に金山などは、女としての恥じらいはどこに捨てたのか、大口を開けてあくびをしている。目
が合うと、しっしっと手を振られた。見られるのが恥ずかしいのなら、せめて口を手で隠すくらい
すれば良いんじゃないだろうか。 
 それにしても、部員八名全員と、顧問の西先生までが顔を並べると、部室はさすがに狭く感じ
る。そもそも、全員が揃ったのは四月に新歓のお茶会をしたとき以来ではなかろうか。
 部長は淡々と説明を続けている。部誌が百五十部印刷されていること、一部の値段は三百円
であること、うち四十部は漫画研究部の部誌と交換して、お互いに委託販売を行うこと、十部は
部員用と保存用で取り置くこと、お釣りは百円玉で五千円分、千円札が念のために二万円分用
意してあることなど、三日前にメールで送られてきたものと内容は同じであった。
 部長の説明が店番の時間割当に入ったところで、一年生が座っているあたりからちらちらと
視線を感じた。高崎などは特にそういう年功序列を重んじそうな性格をしているので、気になる
のだろう。
 締め切り破りの罰処分、ということで俺は納得していたので、部長の「十時から十三時、及び
十四時から十七時は坂本と早川に担当してもらう」という言葉に、出来るだけはっきりとした声
で返事をした。不満はない、という意思表示だ。坂本もまた、しっかりと返事をしていた。
 長時間の店番で唯一の気がかりとなっていたのは、坂本たち二年三組が体育館のステージ
でやるコントの時間と被らないかどうかということだったのだが、幸いなことに上演時間は二日
目の午後一時から一時半で、上手い具合にずれてくれた。
 時間が重なっていれば堂々と店番の代役を申し込む理由が出来ていたはずなので運悪く、と
言った方が正しいのかもしれない。いや、部長や白浜さんの性格を考えると、文字通り交代とい
うことで、店番の時間自体は一秒も変化しなかった可能性もあった。
「出店場所は南校舎の二階だ。二年五組と、その廊下の使用許可をとってある。例年なら部誌
は朝のホームルームが終わってから運んでいたのだが、今年は幸い早川のクラスだ。責任を
持って早川が部誌を見張ってくれるはずだから、ミーティングが終わり次第、男三人と私で運
ぶ。以上だが、何か質問は」
 部長が言葉を切って、部員たちの顔を見た。釣られて、俺も思わず視線を巡らせてしまった。
 佐野の手が上がる。
「ええと、早川先輩と坂本先輩の当番時間が長いですけど」
 良く言った佐野。納得はしているが、店番の時間が短くなるのは喜ばしい。今度ジュースでも
おごってやろうと、俺は心の中のメモ帳に記録した。
「締め切りを破った罰だ。他には」
 一言だった。なんとも言えない沈黙が室内に広がった。
「ないようだな。西先生から何か連絡事項はありますか?」
 部長がそこまで傍観者に徹していた西先生へ話を振った。
 西先生が軽くうなずいて、立ち上がる。癖なのか、西先生は大勢の前で話すときは、必ず視
線を巡らせて全員の顔を見る。
「毎年言っていることですが、お金を扱うことになるので、管理には注意してください」
 確かに、俺は去年も同じ言葉を聞いていた。
 西という教師は、部長の言葉を借りるなら中々面白い人だ。文芸部の顧問をしているくせに、
担当科目は生物と化学。それなのになぜ文芸部の顧問をしているのかと訪ねたことがあるが、
なんと初代の部長だった。部誌のバックナンバーから逆算すると、今年三十七歳ということにな
るはずだが、本人の顔は至って若々しい。顔も性格も良いのに未だに独身というあたり、俺は
勝手に日名高七不思議の一つとして数えている。薬品だかコーヒーだかの染みがついた白衣
をいつも着ているので、校内でも探しやすい部類に入る教師だ。
 そこまで考えて、俺は腕を組んだ。坂本は明日、この人を演じるわけだ。
 そうなると、髪はおろさなければならないだろう。西先生は肩の上あたりで髪を切りそろえてい
るが、坂本はいつもきつく縛ったポニーテールだ。多少坂本の方が髪が長いが、わざわざウィッ
グの用意はしないはずだ。眼鏡は外すのだろうか。コンタクトレンズを持っているなら外しそうな
ものだが、洒落っけのない坂本がそんなものを持っているかは大いに疑問だった。
 西先生は幾つかの諸注意のあと、さて、という顔で部屋を見回した。
「せっかく全員揃っていることですし、部誌の講評などしたいのですが、皆さんもう目は通されま
したか?」
 その言葉に、全員の目が部室の片隅に積み上げてある部誌の山へ集中した。山は四つある
が、どの包装紙もまだ破られていない。
 全員の作品を読んでいるのは、最後の校正を担当した西先生と部長だけということである。
「……読んでいませんね。では、ネタバレは避けるということで、講評はまたの機会にしましょうか」
 部長が西先生へ頭を下げた。
「すみません、予め全員に配る時間が取れなかったので」
 ほぼ確実に、俺と坂本の原稿が遅れたせいだが、部長はそれをあげつらうことはしなかった。
「どうしても気になる人はあとで個別に私のところへ聞きに来てください。時間の許す限り、お相手します」
 西先生はそう言って、席に座った。
 部長が視線を受けて立ち上がる。
「では、以上でミーティングを終わる。解散」
 途端、室内の空気が弛緩したものに変わる。そこまで真面目なものでなくても、ミーティングと
聞くと肩肘を張ってしまうものらしい。
 金山は素早く鞄を掴み、お先にと叫んで駆け出していった。クラスのミーティングに向かったの
だろう。他の面子も、それぞれに部室を出て行こうとしている。
「待て、男子三人は肉体労働だ」
 佐野がああそうだった、という顔をして立ち止まった。俺も危うく、忘れて教室へ行くところだった。
 ふと気付いて、部長の隣に立つ白浜さんに尋ねてみた。
「白浜さんは良いんですか? クラスの模擬店の方」
「ああ、僕はね。これでも副部長だから、遅れても何とでも言い訳がきくんだよ」
 笑顔でそう返されると、何も言えなかった。白浜さんはこの笑顔のおかげで絶対に得をしてい
る思う。
 部長と、俺を含むお供の男子三人は、部誌の山を囲んで立った。

16 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:52 ID:wp/f2a/6
 四十部入っている包装紙が三つと、三十部入っている包装紙が一つで、合計百五十部あるは
ずだった。
「取り置く分の十部はここで出していきますか?」
 佐野が訪ねたが、部長は首を振った。
「開けてしまうと崩れる分持ちにくくなるからな。このまま持っていこう」
 その言葉にうなずいて、俺は四十部の塊を持ち上げた。佐野も当然、四十部のものを手にし
ている。紙といっても、これだけの量になると結構な重さだった。少なくとも、教科書を満載にし
た鞄とためを張れる程度には重い。三十部の塊は、部長が持つのが妥当だろう。
 しかし白浜さんが、残った四十部と三十部を、それぞれ小脇に抱えるようして持った。重さに
比例した嵩もあるので、不恰好な持ち方になっているが、余裕のある笑顔は崩れていなかった。
「……一人一束持てば良いだろう」
「ん? みのりちゃんはお釣り入れた缶を持ってきてよ。それに、全員の両手が塞がっちゃうと
部室の鍵が閉めれないしね」
 佐野が微妙な表情になった。自分では見えないが、俺も同じだろう。こういう真似を自然に出
来てしまうあたりが、白浜さんの恐ろしいところだった。

 四人でえっちらおっちらと階段を二階まで降り、渡り廊下を通って目的地である二年五組へ歩
いてきた。
 教室の前でぼーっと立っていた漫研部員に待たせたことを詫び、お互いの部誌を四十部交換
した。同じ四十部なのに、漫画研究部の部誌は包装紙二つ分あった。
「サイズの問題だな。うちの文集はA5サイズだが、漫研はA4サイズのはずだ」
 とにかくも、全ての部誌を教室へ運びこみ、俺の机の上に積み重ねた。
「座ると前が見えないんですが」
「授業を受けるわけでもないんだ。我慢しろ」
 部長の言うとおりではあったが、目の前に壁のごとく積み上げられると、言いようのない圧迫
感がある。
「部誌よりもある意味注意して扱ってくれ」
 最後に、そう言われて釣り銭を入れた缶を渡された。二万五千円入っているのだ。部費なの
か部長のポケットマネーなのかは知らないが、万が一無くしたら大事だった。
 目的は果たしたということで、三人はそれぞれの教室へ戻っていった。白浜さんが軽く腕を振っ
ていたのが印象的だった。やはり重かったらしい。
 黒板の上にかかっている時計を見ると、まだ八時前だった。
 一年生なら初めてということで、諸注意など含めてホームルームを行うかもしれないが、二年
生ともなると出欠確認だけで良いらしい。昨日、担任が言っていたところによると、放課後まで
に一回でも自分へ顔を見せれば出席扱いにしてくれるとのことだった。そんなに適当で良いの
だろうか。
 つまり、ここでぼーっとしていても、誰も来ない。人との雑談は、いつでも切り上げられる最適
な暇潰しだというのに、困った話だった。
 廊下は段々と慌ただしくなってきていた。文化祭実行委員会の方針で、部活やクラスの出し物
は南北の校舎の一、二階に全て押し込まれているはずなので、ここら一帯は準備で忙しい、と
いうことだろう。二年生以上がまともにホームルームを行わないのは、教室が準備に奔走する
他クラスの人間に占拠されているから、というのも理由の一つなのかもしれなかった。
 そう考えると、文芸部が使うこの二年五組は静かなものだった。佐野と村田が来たら、机を二
つ三つ廊下に出して、部誌を並べればそれで準備が終了するからだ。
 あと三十分以上、たった一人でどうやって暇を潰すか。俺はとても冴えた回答を持っていた。
 教室の前後にある戸を閉めて、部誌に占拠されている自分の机の隣に座る。
 あとはお金の入った缶を枕にして眠れば、三十分くらいすぐに過ぎるはずだ。
 頬にあたる缶の冷たさが、体温に馴染んでいくのを感じながら、俺は目を閉じた。

 眠りが浅かったのか、それともお金と部誌を預かっているという使命感で気が張っていたの
か、がらり、という戸が開く音ですぐに目が覚めた。体を起こす。
 教室の前の方から、失礼しますと声をかけて、佐野と村田が入ってくるところだった。
 目が合うと、佐野の顔が怪訝そうに歪んだ。
「先輩、寝てましたね」
「何言ってるんだ、部誌とお金を預かっておいて、寝るわけがないだろう」
 しかし、村田が自分の頬を指差して追い討ちをかけてきた。
「跡、ついてますよ。缶の」
 物的証拠が残っていたらしい。なんとも初歩的なミスだった。
 気まずくなって視線をさまよわせると、村田の手にある模造紙が目にとまった。
「なんだ、それ」
 村田は模造紙を広げて見せてくれた。
「ポスターらしきものくらいあった方が良いかと思って、作ってきました」
 模造紙には「文芸部部誌『曙光』一部三百円」と大きく書かれていた。黒マジック一本で書か
れているあたりが、いかにも村田らしい。
「おお、良く気が回ったな」
「いえ、教室で始業を待つ時間が暇だったものですから」
 暇を持て余していたのは、俺だけではなかったらしい。
「とりあえず、もう八時五十分を回ってますし、売り場を作っちゃいましょうか」
 佐野の言葉にうなずいて、俺たちは机を廊下へ運び出す作業に取り掛かった。
 包装を破って、文芸部と漫研の部誌を手頃な高さまで並べた。在庫が見えているのも格好わ
るいので、残りの部誌は教室に入れて、戸を閉めておくことにする。少なくなってきたら、二人組
のどちらかが中へ取りに行けば良いのだ。
 村田が書いてきた文芸部のポスターだが、貼り付けるテープを用意していないことに気付い
て、隣のクラスで準備している人間から慌てて借りた。並べた机の前にべたりと貼り付けると、
売り場はそれなりに見れるものになった。
 思わず、おお、とため息がもれる。
「良いんじゃないか」
「良いですね」
「完璧です」
 三人で自己満足の確かめ合いをして、うなずいた。
「じゃあ、俺は数少ない自由時間を楽しんでくるわ。二人とも頑張ってな」
 はい、わかりました、という返事に手を振って、俺は二年五組をあとにした。

 昨日のホームルームで配られた、文化祭のパンフレットを見ながらぶらぶらと歩く。
 さすがにこの期に及んで準備に駆け回る人間は減ってきたらしく、どの教室も文化祭開始を
告げる放送がかかるのを待っているようだった。廊下の人影はまばらだが、そこかしこの教室
の中で人の気配がする。

17 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:52 ID:wp/f2a/6
 歩いていると、突然教室の中からうおおっ! と野太い鬨の声が上がったりして心臓に悪い。
気合を入れたのだということは十分わかっているつもりだが、その教室の入り口に「ラグビー部
女装喫茶」などと書いてあるのだから恐ろしい。俺が入店することは絶対にないだろう。
 しかし、喫茶店というのは良い響きだった。朝早く起きて登校してきたため、今日はまだ何も
食べていなかった。食べ物関係で何か腹が膨れるものはないかとパンフレットのページをめくる
と、たこ焼き、フランクフルト、焼き鳥にポップコーンと、出店の定番といえるものは大体揃って
いるようだった。
 ふと、二年一組、お好み焼き屋の文字が目にとまる。金山のクラスだった。金山と料理という
のはどうにも結びつかなかったが、ウェイトレスでもしているのだろう。金山は口を閉じてじっと
座っているだけなら申し分なく美人だから、客寄せパンダとしては十分に働くはずだ。いやしか
し、と俺は自分の考えを否定する。ウェイトレスなら接客をしなければならないはずだった。
 いらっしゃいませー、などと言って微笑む金山を想像して、背筋に怖気が走った。
 中学校からあわせると五年の付き合いがあるが、そんな恐ろしい金山を見た覚えはない。
 しかし人間、怖いもの見たさという感情があるのも間違いはなく、話の種にということで、俺は
向かう先をお好み焼き屋に決定した。パンフレットによると目標は北校舎一階、三年三組にあ
るらしかった。
 パンフレットを閉じて歩き出した俺の頭上で、ぴんぽんぱんぽんとチャイムが鳴った。ノイズ混
じりの放送が流れる。
「ただいまより、第七十二回、日名山高校文化祭を開催します。繰り返します。第七十二回、日
名山高校文化祭を開催します」
 放送はそのまま、軽快な音楽を後ろに流しながら午前中にステージで行われる催し物の案内
を始めたが、各教室から上がる歓声にかき消されて、ほとんど聞こえなかった。

「へい、らっしゃい! なんだ、早川じゃない」
 あまりにも予想外というか、ある意味予想通りすぎた対応に呆れて、脱力してしまう。お好み
焼き屋に入った俺を迎えた、金山の第一声だった。
「さすがにメイド服を着ろなんて馬鹿なことは言わないが、文化祭で割烹着はないんじゃない
か?」
「あ、何言ってんの。料理といえば心、心といえばおふくろ、おふくろといえば割烹着っしょ」
 全国のお母様方に謝罪して欲しかった。お好み焼き屋でへい、らっしゃいと叫んでおきなが
ら、おふくろの味もないものだ。
「適当に座っててくれれば誰かがメニュー持ってくよ」
 適当なのは店の対応だった。金山を接客に立たせていたら、赤字になるのではないだろうか。
 店内の席はひいき目に見ても、全体の三割くらいしか埋まっていない。むしろ、文化祭が始ま
った直後からお好み焼きなどという重いものを食べに来ている人間が自分以外にもいたことが
驚きだった。
 俺は言われたとおり、適当に空いている席に座った。
 程なく、水と一緒にお品書きが運ばれてきた。それを持ってきた女生徒もやはり割烹着だった
ので、この店のユニフォームということなのだろう。いくら金山でも、そこまでのスタンドプレイは
しないということか。
 メニューは文化祭の出店としては意外に種類が豊富だった。基本料金としてのタネに、イカ、
ブタ、鶏、ネギ、コーン、そばと言ったトッピングを自由に選択することが出来るようだった。下段
に行くほど納豆とかチョコレートとか正気を疑うトッピングが載っていたが、頼まなければ良いだ
けだと自分を納得させた。
「注文決まった?」
 金山が声をかけてきたので、ブタ、ネギにキャベツとコーンで注文して、釣りが出ないように三
百円渡した。面白みのないオーダーね、と顔をしかめられたが、チョコや納豆の入ったお好み
焼きを食べたいとは思うほど俺は酔狂じゃない。
 とりあえずは客も少ないし、そんなに待たされることもないだろう。九時五十分くらいに店を出
れば、五分前には文芸部の売り場へ戻れるはずだった。
「へい、お待ち!」
 べらぼうに早かった。注文してから五分と経っていない。
「生焼けなんじゃないだろうな」
「失敬な。タネを薄く伸ばして焼いてるから速いだーけ。速い、安い、多いがモットーなんだから」
 個人的には美味いがつかないのが不安だったが、金山の言葉どおり、皿の上には薄いお好
み焼きが四つ折りで載っていた。この形状はすでにお好み焼きではない気がするが、ソースと
マヨネーズはちゃんとかかっているし、上では湯気と一緒にかつお節が踊っていた。
「じゃあ、まあ、いただきます」
「お食べお食べ」
 そう言い残して、金山は去って行った。

 美味くはなかったが不味くもないお好み焼きを平らげて店を出た。確かに金山が言ったとお
り、腹は膨れた。三百円でこの満腹感ならお釣りがくるだろう。
 しかし、お好み焼きが予想以上に早く出てきたため、十分ほど時間が空いてしまった。俺は少
し考えてパンフレットを開き、製菓部の名前を探した。
 朝のミーティングでの佐野のフォローは、効果こそなかったがありがたいものだった。心の中
のメモ帳に従って、クッキーくらい買っていってやっても罰はあたるまい。
 俺は製菓部が店を出している南校舎の一階へ足を伸ばした。
 クラスメイトの高橋が店番をしているかは全くの未知数だったが、近寄ってみると異様に悪目
立ちしていた。がたいの良い男が一人、女子の隣で三角巾にエプロンをつけて廊下で売り子を
していたため、二クラスほど先からでも区別がついた。
「おお、早川じゃないか。買っていけ、買っていけ」
 ある程度近づくと、高橋の方もこっちを発見したらしく、ぶんぶんと手を振って声をかけてきた。
「言われなくても買っていくから、大声出すな、恥ずかしい」
 高橋の隣で売り子をしていた、製菓部の部員らしい女の子が笑いを堪えていた。
「お前の作ったクッキーどれだ?」
 尋ねると、高橋はそれとそれだな、と袋を指で示してくれた。
「じゃあそれ以外のクッキーを」
「なんでやねん」
 堪えきれずにぷっ、と吹きだした女子の反応に満足して、俺は高橋の作ったクッキーを取った。
「冗談だよ、これ一つ……あー、やっぱ二つ貰っていくわ」
「おう、毎度あり。二袋で八百円な」
「高いな、野郎の手作りクッキーでその値段は詐欺じゃないのか」
 財布から千円札を抜き出して渡すと、女子部員がありがとうございました、と言いながら二百
円返してくれた。

18 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:52 ID:wp/f2a/6
「逆に考えるんだ、レア度が高いから値段もお高いんだと、そう考えるんだ」
 阿呆なことを言っている高橋に空いている方の手でチョップを食らわせて、俺は二年五組に向
かった。十時五分前、丁度良い時間だった。

 売り場の机に積み上げた部誌の山は、朝見たときとあまり高さが変わっていないように見えた。
 店番をしていた二人に問いかける。
「もしかして、全然売れなかったのか」
「漫研のが三部、うちのが七部売れましたよ。それなりに人通りは多いんですけど、買ってくれ
る人は少ないですね」
 合わせて十部、というのは滑り出しとしては順調なのだろうか。去年は午後からの当番だった
ので、いまいち良くわからなかった。
「ま、とにかく一時間ご苦労さん。坂本も追っ付け来ると思うし、もう行っても良いぞ」
 初めての文化祭だ、早く遊びに行きたいだろうと思ってそう言うと、佐野と村田は顔を見合わ
せた。村田が腕時計をちらりと見る。
「十時まであと二分ほどありますけど」
「細かいこと気にすんなって。ああ、そうだ。佐野にお土産」
 俺は持っていたクッキーを一袋、机の上に置いた。
「なんですか、これ」
「これはクッキーというものだな」
「見ればわかります」
 佐野が額に手をあてた。あまり面白くなかったらしい。
「ミーティングで部長に店番の時間かけあってくれたろう。そのお礼みたいなもんだ」
「え、そんな悪いですよ」
「それが嫌なら俺からの愛を込めたプレゼントということで一つ」
「……それはもっと嫌です」
 俺としては後輩ともう少し砕けた会話もしたいのだが、どうにも佐野からは苦手意識のようなも
のを持たれているらしかった。
「ええと、ではありがたくいただきます」
 佐野の言い方はむしろすまなそうで、逆に気を遣わせてしまったかもしれない。
 そんなことをしている間に二分は過ぎたので、佐野と席を交代する。
 立ち上がった村田は、廊下の左右を見渡した。
「坂本先輩、遅いですね。途中で見かけたら、声をかけておきますから」
「おう、頼む」
「じゃあ、失礼します」
 佐野は「甘いの得意じゃないから半分食ってくれない?」などと隣を歩く村田に言いながら離
れていった。後ろ姿を見送っていると、廊下の端で村田が振り返り、ぺこりと頭を下げていった。
 手持ち無沙汰だったので、積んである部誌の微妙なずれを直し、お釣りの入っている缶の中
身を整理した。どちらも一瞬で終わった。
 坂本はまだ来ない。
 電話をかけて呼び出せば良いのだと気付いて、俺は携帯電話を取り出した。
 電話帳の文芸部グループから坂本の番号を選び、プッシュ。十一桁の番号がダイヤルされ、
学校のどこかにいるであろう坂本の携帯電話を呼び出す。
 すると、すぐ隣の教室の中から聞き覚えのあるロッキーのテーマが聞こえてきた。顔をしかめ
て、一度通話終了ボタンを押した。ロッキーのテーマも止まった。リダイヤル。また同じ曲が流
れてくる。
 坂本は隣の教室にいるらしかった。通話終了ボタンを押して、携帯電話をしまう。
 少し遅れて、十時過ぎてるー! という叫び声が聞こえてきた。

「ごめん、ついパイ投げに夢中になっちゃって」
 坂本が手を合わせて謝っている。実害も特になかったので、気にしてないと言っておいた。
 それにしてもパイ投げとは、そんなものが高校の文化祭で許されて良いのだろうか。パンフレ
ットで確認してみると、確かに一年一組パイ投げ、という文字が並んでいた。
「えーと、教室の後ろの方がブルーシートで完全防御されててね。そこに体格の良い男の子が
半裸で立ってて、その子に思いっきりパイを投げつけるお店。一パイ百円っていうから、ちょっと
やってみたんだけど、意外と癖になるわよあれ。さすがに一年生は体張ってくるわね」
 その企画を立案した一年生もなかなか発想がぶっ飛んでいるが、それにゴーサインを出した
文化祭実行委員会はさらにおかしいと思った。祭りは人を狂わせるのだろうか。
「それはそれとして、今どれくらい売れてるの?」
「うちのが七部で、漫研のが三部」
 坂本が眉をひそめた。
 確か去年の坂本は、金山と組んで午前中に売り子をしていたはずだ。その坂本が表情を曇ら
せるということは、このペースは去年と比べて遅いということなのだろう。
 しかし、部長の話では損益分岐点は八十三部ということらしいから、一時間十部前後で売れ
続けてくれれば、初日の内に赤字を回避することが出来るのではないかと睨んでいた。
「ところでさ」
 坂本が話しかけてきた。
「それはなに」
 机の上に放置してあったもう一つのクッキーの袋を指差す坂本。
「これはクッキーというものだ」
「玉子とバターと小麦粉と砂糖を混ぜて焼き固めたものね」
「え、牛乳って使わないのか?」
「さあ、作ったことないから知らない」
 沈黙。
 結論、突っ込み不在の状況で、ボケにボケを返されると収拾がつかなくなる。
「さっき製菓部で買ってきたんだよ」
「食べても良い?」
 首を傾げられる。元から、長すぎる三時間の暇を持たせるために買ってきたものだった。是非
もない。
「おう、俺、甘いの苦手だから全部食っても良いぞ」
「じゃあなんで買うかな」
 坂本に苦笑を返された。
「いや、お前が食うかと思って」
 俺がそう答えると、坂本は少し顔を赤くした。気を遣われることに慣れていないのかもしれない。
「あ、ありがとう」
 そんな照れた表情で礼を言われると、こっちまで照れてしまう。
 坂本はもういつもの表情に戻っていた。いそいそとクッキーの包みを開け、一つつまんで、口
に放り込んだ。

19 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:53 ID:wp/f2a/6
「これ、美味しい」
「そりゃあ良かった」
「甘さ控えめだから、早川も食べられるんじゃない?」
 促されて、俺も一つ食べてみた。菓子と言えばスナック系のものばかり食べていたが、このク
ッキーはバターの味が濃く出ていて、美味しかった。
「ああ、これなら俺も食えるわ。あいつ、もしかして俺の好みに合わせたのか?」
 感想を呟くと、それを聞いた坂本が訝しげな顔をした。
「あいつ、って誰」
「ああ、同じクラスの高橋って奴」
 坂本は、自分で聞いてきたくせに、ふうん、と気のない返事をして、もう一つクッキーを口に放
り込んだ。がりがりと荒々しく噛み砕く。
「製菓部で唯一の男子部員だとよ。いっつもお菓子作りは腕力だ、って嘯いてるけど、そんなわ
けないよなあ」
 なんとなく気まずい雰囲気を感じて、高橋を笑いのネタに振ってみる。これは坂本の中で結構
なヒットだったようで「ああ、男か。男で製菓部っていうのは、珍しいね」と、機嫌よく笑っていた。
 そうやってクッキーをつまみながら雑談していたが、雑談の合間合間に、八人が部誌を買い
求めていった。意外なことに、部誌を買っていった客のうち、四人がこの学校の教師だった。し
かも、その内二人は他の教師の分も、ということで二冊買っていったのだった。
「なんで先生が買っていくんだろうね」
「さあな。結構頻繁に出てる部誌だから、ファンがいるんじゃないか?」
 実際、部誌である曙光は季刊ということで、年に四回出している。
 五月のはじめに、新入部員の腕試しということで、短編中心のものを。
 七月の半ばに、夏休み読書号と題して、少し長めの作品を。
 今の時期は文化祭ということで、それぞれが書きたいものを書く。部誌の中でお金を取って売
るのは、この文化祭の号だけだ。
 そして三月、卒業式前に、三年生追い出し号が作られる。新部長が編集して、三年生に安心
して卒業してもらうためのものだ。また、次の年の新入部員勧誘期間にばらまくのもこの追い出
し号だった。
 三年生の部長や白浜さんなら、既に十もの作品を部誌に載せていることになる。あの二人の
実力なら、それなりにファンを掴んでいる可能性も十分あった。
「ファンねえ。それならむしろ、コラムを書いてる西先生のファンもいそうだけど」
 それもまた、ありそうな話だ。文章の上手い下手以上に、人間としての魅力でファンを作って
いそうだった。教師の客は案外その線かもしれない。
「まあ、ファンでもリピーターでも、呼び方はなんでも良いけどさ。自分の作品にもそういう人がい
るかもって考えると、ちょっとどきどきするよね」
 坂本はそう言って笑った。
 だが、坂本の作品ならば、そういう人間は、かも、ではなく確実に存在している。まさに俺が、
坂本の作品をもっと読みたくて仕方のない人間だからだ。
 坂本の書くミステリは、トリックの面から見ても、読み物として見ても、十分に面白い作品ばか
りだった。
 俺は自分の作品をそれと比較する。面白さ以前に、ミステリとして成り立たない、自分の作品。
 暗鬱な気分に沈みそうになったが、坂本の声に引き戻された。
「うん、そうか。読めば、買ってくれる人がいるかもしれないね」
 どういう意味か、と尋ねる前に、坂本が視線を合わせてきた。
「ね、部員は部誌を一部貰って良いんだよね」
「ああ、部長はそう言ってた。てか、去年も一部は貰ったろう」
「じゃあこれは私の分ね」
 そう言って、坂本は積んである部誌の一番上にある一冊を手に取って、机の上によけた。さら
に机の後ろに置いてあった鞄から筆箱とルーズリーフを取り出した。四つ折りにしたルーズリー
フにマジックペンで大きく「立ち読み用」と書いた坂本は、同じく鞄から取り出したテープで、よけ
ておいた部誌にぺたり、と貼り付けた。
「完成、立ち読み用部誌ー」
「語呂が悪い」
 だが、発想は悪くない。いや、とても良いアイデアだと言えた。
 俺自身、本屋でなんとなく立ち読みしていた本を、そのまま購入してしまったことが何度もある。
 坂本は悪そうな笑みを浮かべながら、それを部誌の山に立てかけた。
「くっくっく、これで道行く人はふらふらとこの本を手にとってしまうじゃろうて」
「お前そういう顔似合うなあ」
「うわあ、失礼な」
 この立ち読み用部誌は成功だった。本当にふらふらと寄ってきては立ち読みをしていく人間が
何人も現れたのだ。そして、三人に一人くらいの割合で、部誌本体を買っていってくれる。
 積み上げてあった山が十五部を切った時点で、俺は一度教室に入り、新たな部誌を追加し
た。ちなみに、クッキーはこのあたりで食べ尽くしてしまった。
 そろそろもう一度補充が必要だろうかと思っていたところで、交代の時間がやってきた。

 先に到着したのは高崎だった。十二時五十分、きっかり十分前行動で、いかにも生真面目な
高崎らしい。
「あの、先輩方、交代に来ました」
 と言われても、当番の時間はあと十分残っているし、金山もまだ来ていない。前の交代のとき
に、村田が渋った理由が良くわかった。この状況で高崎一人を残していくのは、非常に心苦しい
ものがある。
 とりあえず、教室からもう一脚椅子を出して、そこに高崎を座らせて三人で店番をすることにした。
 金山が来たら改めて交代ということで、坂本と合意を得た。
「だああああらっしゃあ!」
 隣の教室から奇声が轟いた。しかも嫌なことに聞き覚えのある声だった。廊下を歩く人の視線
が、パイ投げ屋の入り口に集中する。
 予想通り、そこから現れたのはとても良い笑顔をした金山だった。どうやら割烹着を着たまま
でパイを投げてきたらしい。
「いやあ、パイ投げって初めてやったけど、楽しいもんねえ」
「だよね、楽しいよね」
 金山の発言に猛烈に食いついて意気投合する坂本。なんというか、今この廊下を歩いていた
人間は、たぶん部誌を買ってくれない。ただの勘だが、俺は強く確信した。
「ところで咲乃ちゃん、なんで割烹着なの?」
「料理といえば心、心といえばおふくろ、そしておふくろといえば割烹着だからよ」
 いきなりそんなことを力説されても、エスパーでない限り真実に辿り着くことはできないだろう。
「金山のクラス、お好み焼き屋やってるんだよ。そのユニフォーム」

20 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:53 ID:wp/f2a/6
「そういうこと。文子も食べにきてよね。明日の朝一なら私が接客やってるし」
 坂本と金山はお互いを下の名前で呼び合っている。同じ学年で同性という気安さからなのだ
ろう。しかし、高崎や村田が下の名前で呼び合っているところは見た覚えがないので、結局は性
格の問題なのかもしれない。
「食べには行きたいけど、一人だとちょっと」
 坂本が珍しく躊躇している。
「あー、お好み焼きは女の子一人だと確かにねえ」
 そして金山もそれに腕を組んでうなずいている。会話に参加していない高崎も、表情を見る限
りでは理解しているようだ。俺にはその感覚が上手く掴めない。
「女一人だとお好み焼き屋って入りづらいのか?」
 金山が額に手をあてて、やれやれと首を振った。
「わかんないかねえ。そう、男で例えるなら……一人でプリクラコーナー、くらいには入りづらい
わね」
 店員に通報されるレベルの入りづらさらしかった。いくらなんでも言いすぎではないだろうか。
それ以前に、プリクラコーナーで女一人というのも結構寂しい状況だと思う。
「ああ、丁度良いじゃない。こいつ連れてくれば良いよ。男連れの客なら今日も結構来てたしさ」
 金山が名案、という風に手を叩く。俺自身の都合はお構いなしのようだった。
「え、そりゃあ早川がいてくれれば入りやすいけど、用事とかあるでしょう?」
 坂本が俺に話を振ってきた。そして実際確認されてしまえば、特に用事もないのだった。
「いや、暇だから付き合っても良いぞ」
「よっし、決まりね。明日は席を空けて待ってるから」
 今日の状況を見る限りでは、わざわざ席を取っておくまでもないような気がしたが、口には出
さないでおいた。

 とにかくも、金山と高崎に店番を交代して、俺たちは一時間の自由を手に入れた。
 なんとなくその場で別れるという空気でもなかったので、坂本とそのまま一緒に歩いている。
「一時間、つっても、昼飯は食わないとだから、実質遊んでる時間なんかないよなあ」
「まあね、罰らしいから仕方ないよ」
 俺は顔をしかめたが、坂本はもう割り切っているのか、笑顔のままだ。
 昼食をどこでとったものか調べるために、俺はまたパンフレットを開いた。
 白浜さんのクラスも模擬店をしているはずだと思って確認してみたが、食べ物関係ではなく、
輪投げゲームをしているようだった。
「学食は開いてないんだっけか」
「文化祭の期間中は閉まってるはずだよ」
 それでは、安くて美味しいご飯は諦めるしかないということだ。まあ、隣で本職がご飯を作って
いたら、食べ物関係の出店は大打撃だろうから仕方ない。
「せっかくのお祭りだし、そこらへんのお店で食べ物買いこんで、休憩所で食べれば良いんじゃ
ない」
 坂本はそう言って、目の前にあるフランクフルトとポスターの貼ってある教室に入っていった。
それが妥当なところだろうと、俺も坂本の後ろについて、教室に入った。

 フランクフルトとイカ飯と、イチゴフラッペと中華まんとたこ焼きを無理やり両手に抱えて、俺た
ちは途方に暮れていた。
「休憩所、椅子空いてないね」
「階段に座ったら、三分で交通渋滞が発生するよな」
 食料を買ったは良いが、食べる場所がなかった。土曜日ということもあってか、学校近辺の住
人や卒業生などが、結構押しかけてきているらしい。明日の日曜日になったらもっと増えるのか
と気が重かったが、今はそれよりも場所の確保だった。
 どうしたものかと考えていると、坂本が提案してきた。
「確実に空いてるけど、気乗りしない場所思いついた」
「座って飯が食えるならどこでも良い」
「二年五組」
 二年五組は文化祭期間中文芸部が使用することになっているので、誰も入れない。人も来な
いし、椅子も机もある。しかし確かに、気乗りはしなかった。

「それで、帰ってきたんですか」
 高崎が不憫そうな目でこちらを見てきた。心からの同情がかえって痛い。金山が腹を抱えて
笑っているのには、正直な話少しいらっときた。
 二人へ適当に説明して、俺たちは二年五組の中に入った。
 手近な机の上に食料を置いて、椅子に腰を下ろす。
「あー、疲れた」
 人ごみにあてられたというよりは、長時間不自然な形で腕を保持していたことが辛かった。
 その後、イカ飯のイカの固さに文句をつけたり、たこ焼きのたこが特大サイズであることを賞
賛したりしながら、昼食を食べた。
 この調子では、ほとんど一日ずっと坂本と過ごすことになりそうだったが、別に構わないと思っ
た。坂本と話すのは、楽しい。
 もう半分以上とけてしまったイチゴフラッペの最後の汁を飲みながら、俺は教室の隅にある部
誌の山に目をやった。
 既に二袋目の中身も尽きかけている。俺たちが交代したあと、もう一度補充をかけたのだとす
ると、今のところの実績は四、五十部といったところだろう。
 黒板の上にある時計を見る。二時まであと二十分もなかった。今からもう一度外へ出て行くに
は、時間も体力も足りなかった。
 椅子から立ち上がり、山に近寄って部誌を一冊手に取った。
「もう時間ないし、俺はここで部誌読んで時間潰すわ。お前はどうする」
「私もそうする。って、私の部誌は立ち読み用に外出てるんじゃないのよ」
 言われてみれば、坂本の言うとおりだった。
「金山に言って、金山の部誌ってことで借りて読めば良いんじゃないか?」
「おお、名案。それいただき」
 坂本は教室の戸から首だけ出して、廊下へ二言、三言、声をかけて戻ってきた。
「オッケーもらった」
「そりゃめでたい」
 なんともだらけきった空間だった。
 客の相手をする必要もないし、祭りの喧騒も壁一枚隔てた向こうの世界のできごとだ。
 とりあえずはあとしばらく、何も考えずにぼーっと小説を読んでいるだけで良いのだ。しかし、
こうなってくると――。
「コーヒーが欲しいな」
「コーヒーが欲しいわね」
 お互いの独り言が被ってしまった。思わず顔を見合わせて、くっくっ、と笑いを零す。

「熱い奴な」
「とびきり濃く淹れた奴ね」

21 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:53 ID:wp/f2a/6
 残念ながら、二人の手元にはポットもコーヒーメーカーもなく、頼みの綱の自動販売機は遥か
遠く、学食前にしかない。
「ああああ、念じたらいつでも熱いコーヒーが出てくる超能力があれば良いのに」
「執事で良いわよ執事。鈴を鳴らしたら素早くコーヒーを持ってくるのよ」
 当然、どちらも実現は不可能だ。
 二人は同時に深いため息をついて、部誌に視線を戻したのだった。

「おらー、お前ら交代だ交代。尊い労働の時間だぜ」
 コーヒーさえあったならば満点をつけられる午後のひと時は、金山の大声で打ち破られた。
「ぶっ、無粋なことを」
「咲乃ちゃんあと五分ー」
 俺と坂本はそれぞれに抗議の声を上げながらも、部誌を置いて、のろのろと立ち上がった。な
んだかんだと言っても、責任感は人並みに持っているのだった。
 廊下に出てみると、山の高さは大体三十部といったところだった。漫研の部誌の方はという
と、朝の半分くらいの高さになっている。
「午後に入って、少し客足は鈍くなってきたみたいです。ご飯時だったからなのかもしれません
けど、今日買ってくれる人は、大体買った、ということかもしれません」
 高崎が訥々と状況を説明してくれた。
「あ、それからな。ここんとこ少し書き足しておいたから」
 金山が指差したのは、村田が作ってきた模造紙のポスターで「文芸部部誌『曙光』一部三百
円」の下に「漫研部誌委託販売中、同じく三百円」と書かれていた。
 村田の丁寧な字とは違い、とても味のある文字で書かれていて、一目で金山の筆によるもの
だとわかった。
「んじゃ、私ら行くから」
 と言って立ち去ろうとする金山たちに、俺は後ろから声をかけた。
「ちょっと待った」
「おっと、ここでちょっと待ったコールだ」
「坂本、黙ってろ」
「……了解」
 振り向いた金山たちに、明日の交代時間、少し早めに来てくれないか、と頼んだ。
「坂本たちのクラスが一時からステージあたってるから、こいつ十二時半には抜けると思うんだよ」
「ああ、了解了解。お昼ご飯食べたらすぐ代わりにくる」
「わかりました」
「よろしく頼む」
 金山と高崎は、今度こそ廊下を歩いていった。
「今の、私が頼まなきゃいけないことだと思うんだけど」
「だってお前忘れてたろう」
「う、忘れてた。ごめん」
 坂本は下を向いて、謝ってきた。気まずい。
 いや、気まずいというよりも、俺が一方的に、坂本に謝られるのを苦手としていた。
 謝るときの声音が、原稿を部長に提出した日の坂本の声音と重なるのだった。少し震えた、
小さい声。そんな声は、坂本には似合わない。

 そのあとは午前中とほとんど同じだった。基本的には雑談で暇を潰して、立ち読みの客が来
たら、ごゆっくりと声をかけて黙る。買うと言ってくれたら、ありがとうございますと言って清算す
る。買わずに去っていくときも、きっちり挨拶を忘れない。
 中でも印象的な客が何人かいた。
 例えば、黒井先輩はいますか、と名指しで訪ねてきた一年生らしい女子の集団。いない、と告
げると露骨に残念そうにしながら、全員が一部ずつ部誌を買っていった。午前中していた話で
はないが、あれこそファンと呼ぶべき存在だろう。
 他にも、弓道着姿でじっくり二十分立ち読みしていった男もいた。童顔だったから、たぶんあ
れも一年生だろう。誰か一人分の作品を読み終わったのか、はっと我に返った様子で、長々と
すみませんと謝りながら、一部買って帰っていった。
 客ではないが、特殊な衣装という線では、ごつい男がふりふりのドレスを着て店の宣伝をしな
がら通り過ぎていった。あれは確実にラグビー部の女装喫茶だ。体格の良い男が顔を真っ赤に
して、縮こまりながら宣伝している様子には、笑い以上に何か悲しいものが込み上げてきたもの
だった。
 交代要員である部長と白浜さんは、二人そろって五時十五分前に現れた。おそらく、一緒に
文化祭を見て回っていたのだろう。
「売れ行きはどうだ」
 部長が尋ねてきたが、実は午後に入ってからの売り上げはそこまで芳しくなかった。高崎の予
想したとおり、今日買ってくれる人間はみんな買ったということなのだろう。
 それでも一回は補充して、最後の袋を破っていた。漫画研究部に委託した四十部の売れ行き
がわからないので厳密には言えないが、とにかく赤字は回避できそうだと言っておく。
「漫研の売れ行きはさっき見てきた。大体二十部、といったところだな。こっちと合わせれば八
十三部は超えただろう」
 部長の返答に、思わず、良し、と声を上げていた。それならば、めでたく黒字達成だ。一日目
の戦果としては上々だろう。
「明日は一般のお客さん中心に狙わないといけないから、今日より売るのは難しそうだけどね」
 白浜さんの見立てはあくまで冷静だった。今日買ってくれた学生や教師は、明日は買ってくれ
ない。正しい推測だった。
「なにはともあれお疲れさん。もう僕たちが代わるから、お祭り楽しんできていいよ」
 白浜さんは笑顔を一つランクアップさせて続けた。
「僕のお勧めはそこのパイ投げかな。気持ちいいよ」
 坂本が声を上げて同調した。
 ストレスの溜まっている人間に受けるのか、単純にサド気質なだけなのかわからなかった。だ
が、楽しそうにパイ投げについて語る白浜さんと坂本を見る部長もまた、微妙な表情をしてい
た。
 パイ投げ談義に花を咲かせている坂本はそのままに、俺はありがたく店番を代わってもらうこ
とにした。去り際、部長が恨めしそうな目でこっちを見ていた気がしたが、クールでビューティー
な黒井部長がそんな表情をするわけがないと切り捨てた。ちょっとだけあとが怖かったが、気に
してはいけない。
 文化祭の日程自体は午後六時で一旦終了するので、そう時間も残っていない。食べ物関係
の店はすでに店じまいをはじめているところもある。けれど、それ以降も明日の準備や、今日の
後片付けをする人間が結構残るので、まだ当分の間、校内は賑やかなはずだった。
 パンフレットによると、五時からは観客参加型の○×クイズ大会が体育館で行われるらしかっ
た。豪華賞品あり、という文句には少し惹かれたが、ふと何か重要なことを忘れているような気
がして、足を止めた。

22 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:54 ID:wp/f2a/6
 店番は全て終わったし、坂本の舞台は明日の話だった。明日と言えば、朝は坂本とお好み焼
きを食べにいく約束をしたのだったが、これも今この時点ではそれほど重要とはいえなかった。
何かもっと、約束というよりは義務に近いものがあった気がしたのだが……。
「げ」
 思い出した。まだ担任教師に出欠確認をとってもらっていないのだった。
 六時になる前に思い出して良かったと、心持ち早足で職員室へ向かって歩き出した。

 文化祭一日目終了直前、俺は肩を落としてパイ投げ屋から出てきた。
 最初に向かった職員室に担任の姿はなく、次の目的地として、担任が顧問をしている囲碁部
の出店へ足を向けた。結局そこにも担任はおらず、目撃証言を頼りに学校中を駆けずり回るこ
とになった。もしかしてわざと俺から逃げ回っているんじゃないかと邪推したくなるほど担任は捕
まらず、最終的にパイ投げ屋で笑いながらパイを投げているところを発見することができた。祭
りを楽しむ時間など、完全になくなっていた。
「あれ、早川はパイ投げ気に入らなかった?」
 白浜さんに声をかけられた。担任探しに必死で忘れていたが、パイ投げ屋は文芸部の売り場
の隣にあるのだった。
「いえ、パイは一枚も投げてませんよ」
 俺は答えながら、売り場に近づいた。多少山は低くなっていたが、笑えるほどに売れた、という
わけではなさそうだった。
「丁度良いところに来た。早川、手伝っていけ」
「店番をですか? もう終わりますよ」
 言い終わらないうちに、ぴんぽんぱんぽんとチャイムが鳴った。
「ただいまを持ちまして、日名山高校文化祭、一日目の全日程を終了します。繰り返します。た
だいまを持ちまして、日名山高校文化祭、一日目の全日程を終了します」
 放送に続いて、スーパーマーケットなどでお馴染みの蛍の光が流れ出した。
「ほら、終わりました」
「終わったな。心置きなく後片付けを手伝っていってくれ」
 俺は軽い詐欺にでもあったような気分になった。
 実際のところ、片付けるといっても、大した仕事があるわけではなかった。部誌と机、それに
椅子を教室に運び込んで、戸に鍵をかけるだけで良かった。教室の鍵はあらかじめ部長が用
意してきていたし、片付けはものの十分で終わってしまった。
 俺が手伝わなくても作業時間はそこまで変わらなかっただろうから、つまりはさっき部長を見
捨ててパイ投げ談義から逃げたことに対する仕返しのようなものだったのだろうと納得した。
「助かった、ありがとう」
「早川のおかげですぐに終わったよね」
 それに、きっちりと礼を言ってくるあたり、もしかしたら本当に労働力が欲しかったのかもしれ
なかった。例えば、バスの時間が近いから一分でも早く帰り支度を終わらせたかった、とか。部
長や白浜さんがバス通学をしているのかどうかは知らないが。
「明日の朝はミーティングなしだ。気をつけて帰れよ」
「じゃあね」
 部長たちはそう言葉を残して、教室の鍵を返すために職員室の方へ歩いていった。

 その日の夜、俺はベッドに寝転がって小説を読んでいた。手暗がりになって目に悪いのはわ
かっているのだが、座って読むより格段に楽なので、どうしてもやめることができなかった。
 枕元に置いていた携帯電話が着信音を鳴らす。坂本からの電話だった。
「もしもし」
「もしもし、坂本だけど、早川?」
「いや、わざわざ言われなくてもわかってるよ」
 携帯電話なのだから、誰からの着信なのか、名前が表示される。
 電話の向こうで、坂本が笑ったのがわかった。
「そっか、携帯ってどうもメールばっかりで、あんまり電話しないから慣れてないんだよね」
 それは意外だった。女の子というものは、しょっちゅう友達と電話をしているものだというイメー
ジがあったからだ。それとも、坂本が特殊なだけなのだろうか。
「明日のことなんだけど……」
 坂本の用件は、朝の待ち合わせをどうするか、ということだった。
 坂本のクラスも俺のクラスと同じで、出欠確認は教師への顔見せだけで良いのだという。明日
は部のミーティングもないから、どこかで待ち合わせておかないと、俺の担任教師のときと同じ
ように、坂本を探してあてどもなく校内をさまようことになりかねなかった。
「店の前で良いんじゃないか?」
「咲乃ちゃんの言葉をかりるけど、あんたはプリクラコーナーの前に一人で立ち続けることがで
きるのかな」
「すまん、短慮だった」
「正門、は人が多そうだから、裏門に九時で良い?」
「おう、了解」
 そのあとは、適当に担任を追跡した話だとか、部誌を持って帰ってくるのを忘れたから読むこ
とができないだとかの話をして、電話を切った。
 そんなに長く話していたつもりはなかったが、時計を見てみると一時間以上も電話していたよ
うだった。
 枕元によけてあった小説を拾い上げる。今日中に読みきってしまうつもりだったが、どうもそれ
は無理そうだった。

 俺は学校まで自転車で通学している。信号に捕まらなければだいたい二十分というところだっ
た。バスも出ているのだが、自転車で通うことを条件に、小遣いに色をつけてもらっていた。
 いつもなら正門も自転車に乗ったまま通り抜けるのだが、今日ばかりは人通りが多かったの
で、仕方なく自転車を降りて駐輪場まで押していった。
 自転車を空いている場所に止めて、携帯電話の時計を見た。八時五十分。待ち合わせには
丁度良い時間だった。
 裏門まで歩いていったが、遠目には坂本らしい人影は見えない。まあ、今度は隣にパイ投げ
屋があるわけではないから、遅刻してくるということもないだろう。
「おはよ」
 裏門にいた、知らない女生徒に声をかけられた。
「おはよう」
 とりあえず挨拶を返しておいた。挨拶は人間関係を良くする油のようなものだ。
 裏門から道路に出て、左右を見回す。坂本の姿は見えなかった。背中を叩かれて振り向くと、
さっきの女生徒が立っていた。なんだかとても嫌な予感がした。
「たぶんわかってないから一応言うけど、私、坂本だからね」
 女生徒は坂本だった。
「たぶんお約束だと思うから一応聞くけど、お前、眼鏡と尻尾はどこにやった」

23 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:54 ID:wp/f2a/6
 坂本は眼鏡を外して、コンタクトレンズをいれているようだった。いつもきつく縛っているポニー
テールも今日はおろされていて、背中の方へ流してある。前髪が顔にかからないように、ピンで
とめてあった。
「今日、西先生の役やるでしょ。先生は髪しばってないし、眼鏡もかけてないから」
「そんなもん、直前の準備でやれば良いじゃないか」
 朝からそんな格好をする必要はない。何よりも、俺の心臓に悪かった。
「髪硬いんだから仕方ないじゃない。ほどいてもお湯に濡らさないとずっと癖が残るんだからね」
 ついでに言うと、コンタクトは普段つけなれていないから、今の内に慣らしておきたいのだそう
だ。
「だからってお前、それは……」
「何よ」
 何も言えなかった。俺は額に手をあてて首を振り、言葉にならない呻き声を漏らした。

 二人で並んで歩いて、お好み焼き屋に向かった。裏門でごたごたしている間に、開会の放送
は流れてしまったらしいが、俺は全く気付けなかった。
 教室に入ると、昨日と同じ、威勢の良い声に迎えられた。
「へい、らっしゃい! って、うおおおお、何、文子今日お洒落じゃない」
「お洒落っていうか、必要に迫られてなんだけど」
「いやあ、可愛い、可愛い。いつもそうしてれば良いのに」
 金山は普段と違う坂本の姿に食いついた。まるで俺などいないかのような扱いだが、今日の
俺はおまけのようなものだから、別に良い。
 聞き捨てならなかったのは、いつもそうしていれば良い、という言葉の方だった。いつもこんな
格好をされていたら、俺の精神衛生上、とてもよろしくなかった。
 席に案内されて、メニューを渡された。今日はどのトッピングにしようかとメニューを眺めてい
ると、謎の名前を見つけた。金山に聞いてみる。
「おい、この広島風世紀末焼きってのはなんなんだ。昨日はなかっただろう」
「ああ、それ。今日だけ限定のチャレンジメニューよ。普通の人にはお勧めしないわ」
 謎のメニューには注意書きが添えてあった。三十分以内完食でタダ。ただし食べ残したらお値
段倍。大食いチャレンジ系の料理のようだった。値段はなんと三千円、倍なら六千円。冗談でも
手を出す気にはなれなかった。
 結局、坂本はブタを中心に、俺は昨日と趣向を変えてイカを中心に、それぞれ無難なトッピン
グを頼んだ。付き合わせて悪いからと、坂本が俺の分まで払おうとしたが、そこはさすがに遠慮
しておいた。
 早くて安くて多い、という金山の言葉どおりのお好み焼きを、坂本は四分の三ほと食べてギブ
アップした。食べ残すくらいならとあとを引き継いだが、さすがに食べすぎだった。
「うう、胃が重い」
「ご、ごめんね」
「謝るな、頼むから謝るな」
 坂本がゆっくり食べたおかげで、そのまま店番の交代に向かって良い時間になっていた。

「うわ、坂本先輩が化けた」
 佐野の第一声は中々命知らずだったが、気持ちはわかる。俺も大いに同意したかった。佐野
がぐーでパンチされていたので、口には出さなかったが。
 佐野はすんませんびっくりしただけです、と謝りながら逃げていった。村田は、坂本に似合って
ますと言ってから、佐野の消えた方向へ歩いていった。
 さすがに店番もこの二日で三回目となると、慣れたものだった。俺としては、隣に座る坂本の
格好の方が、よほど慣れなかった。
 今日は昨日と比べると立ち読みの客が――それも男ばかりが――多くて、部誌の売れ行き
は良かったが、俺は気に入らなかった。立ち読みしている客が、部誌よりも坂本の方をちらちら
見ていたからだ。もちろんそれは、部誌を買うなら部誌を読んでくれる人に買って欲しいと俺が
考えているからであって、部員として当然の気持ちに違いなかった。
 結局店番をしている間に二回補充をかけた。さすがにそろそろ取りおきの十部を別によけて
おかなければならないほどに、在庫の数が減ってきていた。
 十二時半になったところで坂本は舞台の準備に向かわせた。本人は高崎か金山が来るまで
いると言っていたが、あまり遅くなって、坂本のクラスの人間に恨まれるのはごめんだった。
 坂本がいなくなると、ぱったりと客足が途絶えたので、俺はわけもなく腹が立った。いや、部誌
が売れないから腹を立てたのだった。
 高崎は十二時四十分頃にやってきたが、金山が中々現れなかった。金山は一時ぎりぎりにな
ってようやく、廊下の向こうから走ってきた。
「ごめん、早川。店の方が異様に繁盛してて、遅れた」
 金山が手を合わせて謝ってきた。
「いや、坂本はもう行ったし、高崎が来てくれたから大丈夫だったよ」
「だって、あんた見に行くんでしょ、その舞台。ほら、もう代わるからさっさと行けっ」
 俺は椅子から放り出されてしまった。確かに見に行くつもりだったが、それを金山に言った覚
えはなかった。理由を聞いてみようかと思ったが、金山は駆け足! と叫んでいたし、実際もう
舞台がはじまるまで時間がなかったので、追及はあとに回して、体育館へ向かって走り出した。

 体育館の中は、暗幕がしっかりと引かれていて、随分と暗い。俺は舞台からの明かりを頼り
に、ステージ前に並べてあるパイプ椅子へと歩いていった。
 客の入りは大体半分くらいというところだった。良い席から埋まっているということもなく、比較
的簡単に中央付近の席を取ることができた。
 すでにコントは始まっていたが、坂本と一緒に考えた台本では、西先生の出番はまだ先のは
ずであった。
 劇自体は、テンポが悪く、台詞も聞き取りやすいとは言えなかったが、笑って欲しいと思ってい
た部分では、ちゃんと客席に笑いが起こっていたので、まずまずといったところだろう。
 そこまで考えて、俺は苦笑した。客としてではなく、舞台袖で進行を窺っている気分で観ている
自分に気付いたからだった。半分くらいのネタは自分が考えたものだからそれも仕方ないのか
もしれなかったが、純粋に芝居を楽しむ心を忘れてしまったようで、少し寂しかった。
 舞台は順調に進んで、上手側から坂本が出てきた。誰かの私物なのか、ちゃんと西先生のよ
うに白衣を着ている。
 坂本は教卓に立って、西先生が話しはじめる前の癖のとおり、すっと視線を巡らせた。
 その仕草があまりにそっくりだったので、俺は思わず笑ってしまった。
 坂本の首が、止まる。俺と完全に目が合った。
 まずい、と思った。坂本の体が固まっている。
 台詞が飛んだのだ。
「あ、う……」
 坂本の顔が遠目にもわかるほど赤くなっていった。

24 名前: 三 黒くて熱くて苦いもの ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:54 ID:wp/f2a/6
 誰かが、ぶっ、と吹きだした。笑いが一気に伝染して、体育館中で爆笑が起こった。
 たぶん、舞台袖で誰かが呼んだのだろう。坂本は下を向いたまま、上手側へ引っ込んでいっ
た。笑いがさらに大きくなった。
 次の教師役が現れても、低い笑いがまだ客席全体に残っていた。
 俺は席を立って、体育館を出た。

 朝のお好み焼きが腹の中に残っていて、昼飯を食べる気も起きなかった。
 体育館を出て、適当にうろうろしている内に、店番の時間が近づいてきたので、そのまま二年
五組へ向かった。
 机の上の山はもう随分低くなっていて、漫研の部誌にいたっては、全て売り切れたのか、山そ
のものがなくなっていた。
 しかし高崎が言うには、三十分ほど前に漫研の部長がやってきて、在庫がなくなりそうだから
と引き取っていったらしかった。ちなみに、文芸部の部誌は、四十部をすでに売り切ってくれたと
いう話だった。
「そんなことよりさあ、文子なんかあったの?」
 金山が声をかけてきた。ついさっき戻ってきて、挨拶もそこそこに教室で休むと言って、中に
入ったまま出て来ないらしかった。
「いや、何かあったというか、何もできなかったというか」
「とにかく、あれじゃあ使いものになんないから、あんた励ましてきてよ」
 と言われて、俺は教室の中に押し込まれた。
 戸が開く音に反応したのか、教室に入るなり、坂本と目が合った。ぶんっと凄い勢いで顔を逸
らされた。坂本の頭で尻尾が揺れた。
 何か違和感がないと思ったら、坂本はいつも通りの格好に戻っていた。髪をひっつめたポ
ニーテールに、地味な黒縁の眼鏡。思わず、本音が口から漏れた。
「そっちの格好の方が安心するわ」
 ぴくり、とそっぽを向いて座っている坂本の肩が動いた。
 とりあえず、俺は坂本の隣の席に腰を下ろした。
「えーと、なんというか。別に良いんじゃねえ? 本職ってわけでもないし、結果的に笑いはとれてたわけだし」
 慰めの言葉として最悪だと、自分の台詞に零点をつけたが、坂本は逆に力が抜けたのか、く
っくっくと肩を震わせて笑い出した。
 振り返った坂本と、視線が合った。いつもどおりとは言わないが、そこまで落ち込んでいるよう
にも見えなかった。
「そうだね、私は文芸部員だもんね」
「そうそう」
「そもそも頭が真っ白になったのは早川がいきなり客席にいたせいだもんね」
「そうそう、って俺のせいかよ!」
「当たり前じゃないのよ、なんであんた見に来てるのよ、阿呆じゃないの」
「お前が舞台に立つなんて二度とないんだからそりゃ見に行くだろうがよ」
 しばらく責任の擦り付け合いをして、結論が出ないままに会話が途切れた。お互いに、ちょっ
と息が荒い。
 大声を出したらすっきりしたのか、坂本がまた笑い出した。俺も釣られて笑った。
「まあ、とにかく二度と舞台になんか立ちたくないわね」
 そう言って、坂本はぐっと伸びをした。
「というか、脚本も向いてないわ、私。小説だったらどんな場面もどのキャラも、私の思うとおりに
書けるけど、舞台だとどうしても私の考えたとおりに行かないもの。そこでそんな動きするんじゃ
ない、って思っても、演じる方は勝手に動いちゃうからね」
 坂本はけらけらと笑って言ったが、俺は衝撃を受けた。
 脚本ならば役者が、演出が、俺の考えた話を実現する手伝いをしてくれると思っていた。もち
ろん、そうやって様々な個性が協力して作り上げるからこそ、舞台劇は素晴らしいものになる。
 けれど、坂本はそうではなかった。自分の書きたいものをより忠実に再現するためには、脚本
は向いていないと言い切ったのだった。
 坂本の、物を書くということへ向き合う姿勢に、衝撃を受けたのだった。
「うわ、二時過ぎてるじゃない!」
 坂本は時計を確認して、叫び声を上げた。俺ものろのろと時計を見上げた。二時半を回って
いた。
 慌てて教室を飛び出ていった坂本が、金山たちに謝っている声が聞こえてきた。そうだ、金山
たちに迷惑をかけているのだった。自分の中に残るどろどろした感情をいったん忘れることにし
て、教室から出た。

 店番を交代したときには、部誌はもう十部程度しか残っていなかった。
 その部誌も、一部売れ、二部売れ、四時過ぎには最後の一部が売れた。最後の客は、漫研
の部長だった。売り子をしながら暇潰しに部誌を読んでいたら、面白かったということらしい。そ
の部誌を買わなかったのかと聞いたところ、それはすでに他の部員が買ったものだったのだそ
うだ。
 完売ということで、部長に連絡を入れた。少しして、部長が白浜さんと一緒にやってきた。
 四人で協力して机や椅子を片付けた。
 立ち読み用部誌は、部で保管するバックナンバーということになったので、坂本は金山の分、
ということで昨日読んでいた部誌を貰うことになった。俺もまた、昨日読んでいた部誌を貰い受
けて、鞄にしまった。
 残った取りおきの部誌は、部長が部室に持っていくということだった。
 帰ろうとした俺をを、坂本ともども白浜さんが引きとめた。てっきり部長と一緒に部室に行くの
だと思っていたので、少し驚いた。
「みのりちゃんがさ、たくさん店番した二人に何か奢ってやれってさ」
 そう言って、白浜さんは千円札を見せた。なんとも、人使いの上手い部長と副部長だった。
 俺は坂本と顔を見合わせた。千円も奢ってもらう必要はなかった。五百円玉でも、お釣りが来
るのだった。
「じゃあ、自販機でコーヒー奢ってください」
「とびきり熱くて、濃い奴でお願いします」

25 名前: 四 完全敗北 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:55 ID:wp/f2a/6
 
 
四 完全敗北
 
 

26 名前: 四 完全敗北 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:55 ID:wp/f2a/6
 決めるまではいろいろ悩んだが、一度決めてしまえば、あとはもう実行に移すだけだった。
 文化祭終了から四日。十一月八日の放課後に、俺は部長へ退部を申し出た。
「なんだこれは」
「見てのとおり、退部届です」
 一年生が見ている前では、嫌な影響を残してしまいそうだったので避けた。金山がいると、ご
ちゃごちゃうるさそうだったので、やはり避けた。部室には部長と白浜さん、そして俺しかいな
い。坂本がいなかったのは、偶然だ。
 部長の前に置いたのは、俺の氏名、部活動の名前、今日の日付、退部の動機まで完全に記
入した、退部届けだった。
「理由を聞いても良いか」
「書いてありますよ。自分に見切りをつけたんです」
 本当はもう少し言葉を選んで書いてあったが、俺はあえてきつい言葉を口にした。
 部長が、小さく息を吐いた。
「……そうか」
「みのりちゃん!」
「黙っていろ。部長に退部を止める権利はない」
 白浜さんが珍しく声を荒げたが、部長は冷たい声でそれを押しとどめた。
「では、これは預かっておく。暇ができたら西先生に判子を貰っておこう。それで退部は受領さ
れる」
「よろしくお願いします」
 俺は頭を下げて、文芸部室をあとにした。

 終わってみれば簡単なことだった。三日も悩んでいたくせに、部室にいた時間は五分にも満た
なかった。
 駐輪場へ向かって歩く。なんとなく体が軽くなったような気がしたが、張り合いも同時になくして
しまった気がした。
「バイトでも探すか」
 呟いて、自転車に跨った。アルバイトは校則違反だったが、ぽっかりと空いてしまう放課後を、
何もせずに過ごすことは難しそうだった。
 住宅地の中、ゆっくりと自転車を走らせる。流れる景色を見ながら、頭を捻ってネタを搾り出
す必要も、もうないのだった。
 遠くから、てーい、と変な声が聞こえた。気のせいかとも思ったが、今度はもっとしっかり、待
てー、という声が聞こえた。
 犬でも逃げたかと振り返ると、坂本がいた。
 坂本がスカートを翻しながら、立ち乗りの自転車を全力でこいでいた。みるみると距離が縮ま
る。
 俺は、反射的に立ち上がって、思い切り自転車をこいだ。
「逃ーげーるなああ!」
 はっきりと耳まで声が届く距離に坂本がいるのがわかった。別に逃げているつもりはなかっ
た。ただ追いつかれたくないだけだった。
 何度も曲がった児童公園横の角を、経験にものをいわせて最小限のブレーキで曲がりきっ
た。後ろで、ぎゃあ、という叫び声と、がしゃーん、という大きな音がした。思わず全力でブレーキ
をかけていた。自転車を止めて後ろを振り向く。
 角を曲がりきれなかった坂本が、電柱にぶつかった音だった。
 俺は慌てて、自転車を坂本の隣にまで走らせた。
「だ、大丈夫かっ!」
 助け起こそうと自転車から降りて手を差し出すと、体を起こした坂本に、腕ごとがしり、と力強く
掴まれた。
「捕まえた」
「きったねえ!」

 汚い、と叫びはしたものの、転んだのは演技でもなんでもなかったらしい。電柱にぶつかった
ときに擦りむいたのか、坂本の右膝からは血が流れていた。
 捕まえられてしまった以上、逃げる――立ち去るわけにもいかず、坂本を連れて、児童公園
の中に入った。
 公園の水飲み場で、軽く傷口を洗ってハンカチで水気をとった。俺は鞄の中から絆創膏を取り
出して、傷口に貼り付けてやった。
「早川って、変なもの常備してるのね」
 痛いのか、疑問からか、坂本が眉をひそめながら言った。
「便利なんだよ、悪いか」
「悪くはないけどね」
 坂本は苦笑した。
 まずどこかに落ち着こうと、俺たちは自転車をとめて、公園のベンチに腰掛けた。寒くなってき
たからなのか、それとも最近の子どもは公園でなんか遊ばないからなのか、人影はなく、閑散と
していた。
 短い沈黙にさえ耐えられず、俺はすぐに立ち上がった。坂本が勢いよく顔を上げて、視線を合
わせてきた。
「逃げねーよ。自販機で飲み物買って来る。コーヒーで良いだろ」
 そう言うと、坂本はこくりとうなずいた。
 自動販売機には残念ながら無糖のコーヒーがなかった。仕方ないので、ミルクも砂糖も入って
いる普通の缶コーヒーで妥協することにする。同じものを二本買って戻り、一本を坂本に渡し
た。
 ぱきり、と蓋を開けて、熱いコーヒーを啜った。隣からもずずず、とコーヒーを啜る音がした。
「その自転車、どうしたんだよ」
 坂本が自転車通学だという話は聞いたことがなかった。
「咲乃ちゃんの。たまたま一緒にいたから、鍵貸してくれた」
「そもそも、なんで追いかけて……」
 言いかけて、やめた。タイミングから考えても、俺が文芸部をやめたこと以外に理由が考えら
れなかったからだ。部長か白浜さんのどちらかが、俺の退部を部員に知らせるメールを打った
のだろう。
「早川、文芸部やめるの?」
 やはり、そのことだった。
「ああ」
 短くうなずきだけを返した。
「……なんで」
 当然、理由を聞かれた。俺は部室で答えたのと同じ台詞を返した。
「自分に見切りをつけたんだよ」
 そこで止めておけば良かったのに、口は勝手に続きをぽろぽろと喋ってしまった。

27 名前: 四 完全敗北 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:56 ID:wp/f2a/6
「面白い話が書けない。書きたい話があってもそれを上手く書くことができない。トリックも構成も
お粗末なもんだ。ごまかして、自分にいいわけして、お前と部長が気付かないふりをしてくれた
から、その優しさに甘えて、ミステリとも言えないような作品を部誌に載せた。これで良いやって
妥協したんだ」
 自分の作品のミスに、気付いていたくせに。
 だから、言葉を重ねるだけ無意味だった。俺がつけた見切りは、一言で説明できる。
「俺には小説を書く資格がない」
 沈黙が降りた。
 部長の前では、ここまで言葉は出てこなかった。ここまで言う必要はなかった。坂本の前だか
ら、言ってしまったのだった。
 結局、一年生を避けたというのも金山を避けたというのも、口実だ。俺は誰よりも坂本を避け
たかったのだ。
 直接的には、今言った理由が全てだ。俺は、自分に小説を書く資格がないと見切りをつけた。
 けれど、そう考えるに至った最大の理由は、坂本だった。
 文化祭から帰ってきたあと、自分の部屋で部誌を読んだ。掲載順番はそのまま原稿の提出順
になっていたので、坂本の作品は俺の作品の一つ前にあった。
 他の部員の話も面白かったし、それぞれに上手いところもあった。けれど、坂本の作品は別
格だった。
 これまで読んできた、どんなプロの作品よりも打ちのめされた。もちろん面白かったし、上手か
った。けれど、最も強く感じたのは、坂本の真剣さだった。
 文化祭前の数週間、そして文化祭当日も含めて、坂本が物を書くという行為へ込める想いに
何度も触れた。そして、坂本の書く作品は、それに応えるだけの完成度を持っていた。
 だから、このとき俺が感じたのは、以前から坂本に抱いていた劣等感ではない。妥協した自
分が、何より恥ずかしかった。
 俺は、もう一口コーヒーを啜った。随分冷めてしまっていた。
「何よそれ。小説を書く資格って何よ。どんな人間のことよ」
 坂本が、小さく呟いた。
「自分の中に書きたいものがあって、それを実現するために妥協せずにいられることだ。どこま
でも真剣に、小説を書ける、そういう奴だよ」
 お前のことだ、と心の中でつけくわえた。
「……かじゃないの」
 坂本の声は小さい。
「なんだって?」
 坂本が大きく息を吸い込んで、叫んだ。
「馬鹿じゃないの!」
「ば、馬鹿ってお前」
 がっ、と胸倉を掴まれた。ベンチに座ったまま、無理やり顔と顔を合わせられる。カ、カン、と
音がして、コーヒー缶が二つ地面に転がった。
「小説なんてねえ! 誰が書いたって良いじゃないの! 面白い本読んで、自分も書いてみたい
って、自分にも書けるかもって、そう思ったら書いて良いじゃないよ! 妥協だとか追及だとか、
面白いだとかくだらないだとか、真剣だとか遊びだとか、そんなのはプロが、プロになりたい人
間だけが考えてりゃ良いのよ!」
 坂本は、泣いていた。涙をぼろぼろ零しながら、一気にまくし立ててきた。
「だから、だからやめるなんて言わないでよ」
 坂本はうつむいた。そのまま、声を絞り出す。
「確かに、犯人はすぐにわかったわよ。タイトルを変えても、わかるわよ。でも、そんなの関係な
く、あんたの話は面白かったじゃない。井上が犯人だって気付いた間島が、南に弱音を吐くシー
ンも、稲葉を殺すまでに井上が感じた葛藤を話すシーンも、凄く人間くさくて好きだった。最後に
見つかった稲葉の手紙で、私、泣いたのよ。あんたの書く話、好きなのに、読めなくなるじゃな
いよ」
 鼻を啜る音がした。胸倉を掴んだままになっている坂本の手に、俺は手を添えた。坂本の手
は冷たかった。冷たくて、小さかった。
「すまん、離してもらっても良いか」
「離すわよっ!」
 がばっと体を起こして、坂本は胸倉から手を離した。俺の手も、坂本の手から離れた。
 坂本は眼鏡を外して、涙を拭っていた。さっき使ったせいで少し濡れているハンカチで、眼鏡
に落ちた涙も、綺麗に拭き取っている。
「ごめん、勝手に泣いて」
 眼鏡をかけ直した坂本は、もう泣いてはいなかった。目が少し赤い。
「だってあんた、マイペースなんだもの。電話もメールも、私からしかしたことなかったし、文芸部
やめちゃったら、クラスも違うし、咲乃ちゃんみたいに同じ中学校ってわけでもないし、接点なく
なりそうで、怖かったのよ。わがままな、だけなんだわ」
 少し震えた声でそう言って、坂本は立ち上がる。振り向いた顔と、目が合った。
「でも、早川の書く話、好きなのよ。登場人物にしっかり筋が通ってて、考え方とか、生き方と
か、すごく惹かれる。犯人の背景も読みたいから、サスペンス書け、なんてたきつけたりしてさ」
 放課後の図書室を思い出す。裏の意味なんて、なかった。ただ言葉どおりの意味だった。
「……もっと、読みたかったな」
 じゃあね、と言って自転車に乗った坂本の背中に、おい、と声をかけた。
「俺も、坂本の書く話好きだから、その、部誌以外でも何か書いたら、読ませてくれ、な」
 坂本は、笑った。
「うん、もちろん」
 自転車をこいで公園から出て行く坂本の後姿を見送って、完全に見えなくなってから、俺は大
きく息を吐いた。
 脱力して、ベンチの背もたれに体を預ける。
 低く呻いた。
「駄目だ、あれは反則だろう」

28 名前: 五 春、始まりのお話 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:56 ID:wp/f2a/6
 
 
五 春、始まりのお話
 
 

29 名前: 五 春、始まりのお話 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:57 ID:wp/f2a/6
 三月に入った最初の月曜日、坂本からメールが入った。
『卒業生追い出し号が完成したよ。
 早川にも読んで欲しいから、放課後にいつもの場所で』
 俺もいろいろ坂本に言いたいことがあったが、会って直接言えば良いかと考えて、了解、とだ
けメールを返した。

 いつもの場所、で通じるほど何度も通った児童公園。
 雪が積もっていた冬の間は結構子どもを見かけたのに、暖かくなってきて雪がなくなると、ま
たほとんど見かけなくなった。子どもは風の子、という言葉は聞くが、子どもは雪ん子、などとい
う言葉はあっただろうか。
 俺はすっかり指定席になってしまったベンチの前に自転車を止め、とりあえず缶コーヒーを二
本、自動販売機で買ってきた。コーヒーと言えばブラックが一番だという考えは変わっていない
が、やはり近いというアドバンテージは大きかった。学食の前にある自動販売機にはブラックも
売っているが、紙コップのタイプなので、自転車に乗ってここまで持ってくるのは辛い。
 最初は坂本が来るのを待つつもりだったが、ぼーっとしているのが手持ち無沙汰で、先にコー
ヒーを飲み始めてしまった。
 コーヒーが丁度尽きかけたところで、公園の入り口の方に坂本の乗る自転車が見えた。ベン
チの前で急ブレーキをかけて、止まる。
 坂本は元々徒歩で通学していたが、この公園まで歩くのが面倒くさいと、雪がなくなってからは
自転車で学校に通うようになっていた。
「ごめん、ちょっとミーティング長引いた」
 肩で息をしている坂本に、俺はコーヒーを渡した。ありがとう、と坂本が受け取る。
 坂本は文化祭の後に引退した黒井元部長から、次期部長を任されていたのだった。
 副部長は金山がやっているらしい。村田あたりにやらせた方が上手く回るのではないかと思う
のだが、そこは年功序列というもののようだ。
 ベンチに座った坂本が、じゃん、と言って鞄から本を取り出した。濃い緑色の表紙。文芸部
誌、曙光の卒業生追い出し号だった。
「今回のはねえ、高崎ちゃんの短編ホラーが珠玉よー。怖くて夜にトイレ行けなくなってもしらな
いから」
「それはあとでじっくり読ませてもらうとして、まずお前のからな」
「う、そうすか」
「当然」
 ここで度々坂本の小説を読ませてもらうようになってわかったことだが、坂本は結構恥ずかし
がり屋だった。坂本の目の前で俺が小説を読んで、笑ったり難しそうな顔をしたりするのに、ど
うしても慣れられないらしい。
 俺自身、坂本にだけは目の前で自分の作品を読んで欲しくないと思ったことがあった。たぶ
ん、今でもやっぱり読まれるのは苦手だと思うが、根底にある感情は、かなり坂本に近づいてい
るはずだ。
 今回の坂本の話は、図書館を舞台にしたミステリだった。書棚と書棚の間で殺されていた被
害者。遺体の発見時間を大幅に遅らせたそのトリック。
 俺は、トリックについては推理することができたが、結局犯人は当てられなかった。坂本は二
重に罠を仕掛けていたのだった。一つ目のトリックを解くと、あたかも別の人間が犯人であるか
のように見える、そういう罠だった。つまり、俺は完全に犯人の――坂本の手のひらの上だった
わけだ。
「だああ、なんなんだこの性格の悪い犯人は」
「二重のトリックはミステリの王道よ。そこで思考停止してたら、犯人には辿り着けないわよ」
 坂本も相当良い性格をしていた。
 しかし、いや、やはり、坂本の話は面白かった。面白いと、純粋に思うことができた。俺はも
う、劣等感を抱かない。
 そういえば、と俺はつぶやいた。図書館、というフレーズに関して、随分前に疑問を持ったこと
を思い出したのだった。
「なあ、お前って図書館嫌いだったよな」
「ああ、大っ嫌いね」
 大がつくほど嫌いらしかった。
「なんで?」
「言わなかったっけ。図書館にある本は」
「お前の本じゃないからだろ。だから、そういう思想を持つに至った理由が謎」
「あんまり面白い話じゃないけど、聞く?」
 坂本が顔をしかめて訪ねてきた。
「思い出したくない話なら、別に良いけど」
 重い理由があるのかと思って一歩引いてみたが、坂本は意外にあっさりと頷いた。
「良いわよ、大した話じゃないし。私ね、姉がいるのよ。一人」
 それは初耳だった。
「七つ離れてるからかなり年の差があるんだけど、お姉ちゃんも結構な読書家でね、家の本棚
にはかなりたくさん小説があったのよ。漫画もたくさんあったけど」
 七歳差というのは中々珍しいが、その後はありそうな話だった。両親が本を良く読んでいる家
庭では、子どもも読書家に育つことが多い。俺の親もかなりの読書家だった。それが年の離れ
た姉でも、同じだろう。
「それで、その本を私も読んで育ったんだけど、お姉ちゃんが、大学に入学して一人暮らしを始めたときに!」
「ときに?」
「全部売り払ったのよ、あの人は! もう読まないからって言って。私のお気に入りの本もあった
のに、一言の相談もなしに!」
「それは、気の毒に」
「文句言ったら、あたしが買った本だ、悔しかったら自分で買えって」
 坂本は当時を思い出したのか、頭を抱えて唸っている。
「いや、でも、それと図書館は関係ないだろ」
「本当に? ある日突然気に入ってた本が廃棄処分にされたり、他の図書館に移動されたり、
禁帯出に指定されたりしないって言える?」
「……あったのか」
 坂本は重々しくうなずいた。普通の人間なら気にもとめないことだが、坂本は嫌な思い出があ
った分だけ過剰に反応したのだろう。
「だから、私のものじゃない本がたくさんある図書館は嫌いなの」
 話しはじめる前に坂本が言ったとおり、あまり面白い話ではなかった。主に坂本にとって。
「すまん、というべきか、ありがとうというべきか。とりあえず、好奇心は満足した」
 俺は坂本に頭を下げた。
 しかし坂本は、俺の言葉が聞こえていないかのように、表情を固めていた。一度深呼吸した坂
本は、もうすっかり冷めたコーヒーを一気に飲み干して、ベンチに置いた。カン、と高い音が響く。

30 名前: 五 春、始まりのお話 ◆bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/06(木) 23:57 ID:wp/f2a/6
 何か勢いをつけたようだったが、足りなかったのか、坂本はがくりとうつむいた。
「私ねえ、早川が怖いのよ」
 俺は坂本の言葉に耳を疑った。
 いきなり怖いと言われても、俺は全く身に覚えがなかった。
「早川と話していると、とても楽しいの。でも、私はそれが不安なのよ。ここで話をしてるときはも
ちろんそうだし、電話とかメールとかで話していても、やっぱりどこかで不安なの。
 私は、あんたが私のものでないと安心できないのよ。だから本当は休日とかも二人で会いた
いし、コーヒーもお茶菓子も用意して、自分の部屋で誰にも邪魔されないようにしてから話した
いと思うときもあるの」
 うつむいている坂本の表情は、俺には見えない。声も小さく、少し震えているが、坂本の言葉
はしっかりと耳に届いていた。
「だから、私のものじゃないくせに、凄く楽しいあんたといる時間が、早川が、怖いのよ」
 坂本はそれきり黙ってしまった。顔もうつむいたままだ。ただ、耳が赤い。
 俺の顔も、たぶん赤いだろう。
 俺は、突然存在を主張しだした心臓を、ちょっと黙ってろと心の中で叱りつけて、息を吸い込
んだ。
「今から、かなり恥ずかしいこと言うから顔上げるなよ」
 坂本の肩がぴくりと揺れた。
「俺の心は、もう随分前から坂本のものだ」
 うつむいたままの坂本の耳が、真っ赤になった。
「あ、阿呆」
「こっちが言うタイミングはかってたのに、先に言ったのお前じゃねえか」
 俺は、手に持っていたコーヒーをあおった。すでに缶は空っぽだった。くそっ、誰だ、飲んだの
は。俺か。
「もう顔上げて良い?」
「あと五秒待ってくれ」
 顔が熱いままだ。心臓だって、早鐘を打っている。もう少しだけで良いから、落ち着く時間がほ
しかった。
 坂本は律儀に口に出して五つ数えたあと、顔を上げた。坂本は顔だけでなく、目も少し赤かっ
た。
「ねえ、私のものらしい早川に、お願いして良いかな」
「なんだよ」
「そろそろ、戻ってこない?」
 お願いではなく、問いかけだった。
 そしてまた、先に言われてしまった。
「本当は、締め切りに間に合わせるつもりだったんだよ」
 だが、二度と妥協はしないと自分に誓った以上、中途半端な真似だけはしたくなかった。何度
も書き直している間に、部誌の締め切りは過ぎてしまったが、残念だとは思わなかった。
 俺は鞄から、右上をホチキスでとめた原稿を取り出した。
「読んでくれ。あれからずっと書いてた。ミステリじゃなくて、サスペンスだけどな」
 原稿の一ページ目には、本文よりもタイトルよりも先に、入部届けが貼ってある。俺は、志望
動機に書いたのと同じ言葉を口にした。
「満足のいく作品が、書けたから」

        <了>

31 名前: bsoaZfzTPo 投稿日:2008/03/07(金) 00:04 ID:z4RdeSY6
<終わりに>
 校正、励まし、アドバイスなど、様々な形でお世話になったチャットの方々、
本当にありがとうございます。

 ここまで読んでくださった方にも、ありがとうございます。

 せっかくある長編板なんですし、一人でも多くの人が活用できると良いですよね。
 あああ、整形ミスが二、三箇所。あほー、あほー。
125KB
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