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ルインロッテ (Res:120)

1 名前: QIrxf/4SJM 投稿日:2007/09/18(火) 03:58 ID:X8Cs0z6E
わりと長めです。何レスになることやら・・・
黒歴史なので嬲るのはほどほどにしていただけると嬉しいw
zipでクレ!っていう奇異な方がいらっしゃったら、
http://bnskvip.jp.land.to/up/src/up0671.bin
でどうぞ。あ、拡張子をdocに変えてくださいね。ワードない人はゴメン。
では、はじまりますw

2 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 03:59 ID:X8Cs0z6E
 外は既に暗く、仰ぎ見る夜空には星一つ無い。
 月も無い闇夜に紛れて、古めかしい城が峙っていた。
 それは生きとし生けるものを拒み、死してなお動き続けるものばかりを招き入れている。
 外壁には隅から隅まで蔦が絡みつき、まるで生き物であるかのように風に煽られ蠢い
ている。窓から仄かに溢れた蝋燭の光が、赤く不気味に揺らいでいた。
 雷鳴が飛び交い、蝙蝠が騒ぎ出す。
 死者の砦のような印象を与え、生者の侵入を躊躇わせる要因の一つに、正面に構えた
門があった。頂に据えられた薄気味悪い蝙蝠が、ルビーの目で見下ろし、大きく開いた
口から牙を剥いて、通る者を恫喝している。把手に飾られた蝙蝠も同じように、触れる
ものを威圧していた。
 竜を殺した魔法使い、シャーロット・スウォープはこの城に住んでいた。
 黒い翅のような外套を翻し、美しい金の長髪を魔力で黒く染め上げては逆立てる、そ
のような戦う姿を人々は蝙蝠と形容した。
 蝙蝠の魔女と聞いて、知らぬと答える者はいない。
 伝承の中で、竜は自らの翼を休めるために魔力を以って世界を創造し、統べた。降り
注いだ魔力はやがて生命へと形を変えて営み始める。創造者を神と言い換えることがで
きるのならば、竜こそがまさに神であった。
 女はそれほどの存在である竜を殺した。
 かつて竜を殺したとされる者も、極めて稀であるが存在する。しかし、それはすべて
伝説の中の存在だ。その中に名を連ねるであろう者が、人々と同じに存在している。
 その事実にある者は畏怖し、またある者は畏敬した。
 そして棲む城もまた、同じように畏れられたのである。


 今、城から出てくる人影が二つある。
 長身に金髪を靡かせ、胸元の開いた黒い豪奢な衣装を身に纏った女と、まだまだ年端
のいかぬ少年の二人が歩いてくる。
 その女は邪悪にその口元を歪めては妖しい笑みを浮かべながら少年を見ている。蝙蝠
を連想させるような佇まいは、不吉で暗く重々しい古城の主に相応しい。
 一方、その少年はこの古城には全く以って不釣合いな様相であった。

3 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:00 ID:X8Cs0z6E
 緊張の為だろうか、強張ってはいるものの幼くも美しく整った顔立ちを有しており、
その睫毛はどの少女のそれよりも長く、黒曜石のように硝子じみて、潤んだ瞳を守って
いる。また、瞳と同色の髪の毛は歩くたびにさらさらと揺れていた。肌はくすみの欠片
もない真珠のようで、きめ細かく透き通るように白い。
 好事家の貴族ならば誰もがその美しさに目を惹かれ、少年を手に入れようとするに違
いない。
 そんな二人組が目指したのは、あの古城とは正反対に美しい、豪奢な城であった。
 古城から馬車で丸二日かけて北上した先にある、のどかで豊かな小国ミレイ。
 ミレイ城は、背後を険しい山に囲まれ、正面からでなければ攻めてこられないような
造りになっている。まるで要塞のような分厚い城壁が聳え、ところどころに見られる竜
の石像は、この城を護っているかのように外を睨み付けている。
 しかし二人はその城を横目に眺めていただけで素通りすると、少し離れたところにあ
る別の城へ向かった。その城は小さな湖の畔にあり、美しく整然とした庭をそばに侍ら
せて、優雅に聳え立っていた。いかにも貴族の住まいらしい造りである。
 女と少年の二人組は、特に長旅に疲れた様子も見せることなく、門をくぐった。
 恭しく小間使いに案内され、連れてこられた先に居たのは、髪の毛に少し白髪を混じ
らせた、いかにも政治家然とした格好の男であった。立派な口ひげを蓄えている。
 その男は二人の姿を見ると、途端に嬉しそうな顔をして駆け寄り、子供のような無邪
気な笑顔で、女に握手をした。
「ああ、チャーリー。本当に久しぶりだ。元気そうで何よりだよ」
「ハンスこそ、生意気に口ひげなど生やしおって。随分と立派になったじゃないか」
 戯れるように男の脇腹を突いた。
 ハンスと呼ばれた男の名はヘンゼル・グリンメルス。ミレイの宰相であり、グリンメ
ルス家の家長でもある。青年時代はその武勇や人柄で名を轟かせた、とは本人の談である。
 ヘンゼルは女の後ろに隠れている少年の姿を見て、怪訝そうに顔をしかめた。
「それで、その少年はどうしたんだい? 君が誰かを連れてくるなんて珍しい」
「これはな、私の弟子の一人だよ。名をルイと言う。ほれ、挨拶をせんか」
 少年はしぶしぶと現れて、体をよじらせている。
「あの、ぼ、ぼくの名前はルイです。えっと、えっと――」
 恥ずかしそうに俯いた少年は、女のスカートを強く握った。

4 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:00 ID:X8Cs0z6E
「もうよい。まったく、食われたりはしないのだから、隠れる必要は無いというのに」
 そうは言っても、その責任はこの女にあるといっていい。
 この世界でも最強と謳われる魔法使いの一人、シャーロット・スウォープは、この少
年をひどく可愛がっていた。女だけではない。古城に仕える者たちは皆、この小さな見
習い魔法使いを我が子のように可愛がっていたのである。決して甘やかしていたわけで
はない。厳しくするときは厳しく、優しくするときはうんと優しくした。それでも、城
の敷地から外へ出すということはしなかった。
 そして外の世界を全く知らない少年は、こんなにも人見知りをするようになってしまった
のである。それもそのはず、城には普通の人間など、一人も居ないのだ。
 少年は再び女の後ろに隠れると、ヘンゼルは吹き出した。
「どうせろくにお前の城から出たことが無いのだろう? 人見知りをするということは、
お前が頼られているという証拠じゃないか。よくもまあ、こんな魔女に懐いたものだ」
 何かを思いついたような顔をして続けた。
「そうだ、丁度良い。私にもルイ君と同じくらいの年の末娘がいてね」
 小間使いに連れてくるように合図すると、部屋の扉が開いて一人の少女が入ってきた。
淡い桃色の豪奢なドレスに身を包んだ、美しい少女である。唇はほんのりと紅を注した
ように赤く、きらきらと輝くような笑顔を見せている。
 ヘンゼルが少女に対し耳打ちをすると、少女は女の前に歩み寄ってきて、スカートを
持ち上げて恭しくお辞儀をした。
「どうも、はじめまして。ハルナと申します。シャーロットさまのご活躍は父から存分
に伺っておりますわ。――となると、あなたも魔法使いですのね?」
 少女はそういって、少年に向かってウィンクした。
 少年は顔を赤くして、さらに女の後ろへと隠れてしまった。
「これ、ルイよ。出てきて挨拶せんか」女が少年を引っ張り出す。
 気まずそうに俯きながら少年は口を開いた。「ぼ、ぼく、ルイです――」
 自分の名前を口に出しただけで、またも隠れてしまった。少女はそれに回りこんで言う。
「ルイさま、ですわね。私、ハルナと申します。お友達になって下さいませんか」
 しかし少年は顔を真っ赤にして俯いたまましゃべることが出来ない。
「すまんな、ハルナ。こいつ、女の子を見るのは初めてなのだよ。城には私のように、
大きく年の離れた女しかいなくてなあ。こいつの友達になってやってくれないか? 

5 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:00 ID:X8Cs0z6E
ほら、お前も頷かんか!」
 少年は慌てて首を縦に振り、心の中でつぶやいた。(かわいいな――)
 自己紹介も終わり、女とヘンゼルは話の本題に入った。少年は顔を真っ赤にして俯い
たまま、女の横に座っていて、少女はヘンゼルの隣でその様子をにこにこと眺めている。
「それで、話というのは何だね。お前の話はいつも私を荒事に巻き込む」
 ヘンゼルは吹き出しそうになりながら答えた。
「荒事にはならないことを保証しよう。実は、ハルナの護衛をお願いしたいのだ」
 少女は相変わらず少年の顔を見てはにこにこしていた。少年はちらりと少女の顔を見
ては、すぐに頬を赤らめて俯いてしまう。それを幾度となく繰り返していた。
「護衛ならば私なんかよりも、お前の国の騎士団でも使えばよいではないか。宰相とも
あろう御方が何故私に頼む?」
 皮肉ってはいるものの、嫌そうな顔はしていない。
「娘一人の為に軍隊を動かす事など出来るわけがないだろう。――というのが表向きの
理由なのだが、実は騎士団の実力が信用できなくてね。ただの親馬鹿だと言われればそ
れまでなのかもしれないが、ハルナを護衛させるには力不足のような気がするのだよ。
それに比べてお前は、かつて私と数々の戦場を生き抜いてきた仲だからね、その実力は
十二分に承知している」そして思い出したように付け加えた。「それに、なるべく少人
数で訪れるように書いてあったんだよ」
 女は昔の出来事を思い出し、笑いながら訂正した。
「戦場というよりは修羅場だな」
 国を守っているものに対して、愛娘を守ることは出来ないと言い放つヘンゼルには、
親馬鹿も甚だしいと心底呆れたものの、女は言い咎めても無駄であることを承知していた。
「仕方の無い奴だ。言っておくが、礼は弾んでもらうからな?」
 冗談交じりの女の言葉をヘンゼルは快諾した。
 二人が強く手を握り合うと、ヘンゼルは子供のような笑顔を見せた。
 交渉も無事に終わって、四人は食事の席へと移っていた。さすが一国の宰相というだ
けあって、出てくる食事の全てが豪華である。
「それで、出発はいつだ。余り長いこと城を空けておくわけにはいかなくてね」
「嘘を吐くなよ。年中暇人のくせに」ヘンゼルはにやりとした。「お前が快く受け入れ
てくれることを見越して、既に準備は出来ているよ。――なあ、ハルナ」

6 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:01 ID:X8Cs0z6E
「はい。私ならいつでも出発できますわ。それに、シャーロットさまやルイさまに守っ
ていただけるんですもの――」
「ぼ、ぼくも――?」自分の名前を呼ばれた少年は驚いている。
「旅路には話し相手も必要だろう。ここまで連れてきてしまったし、お前も道連れだよ」
「お、お館さま。だめです。ぼくでは足手まといになるばかりです」
「お嬢ちゃんと仲良くなれる絶好の機会だというのに。――一人で城まで帰るかい?」
「そ、そんなの無理です。道だってわからないし」
 そうなればついていくしかないのに、少年は迷っている。
「お嬢ちゃんのことが嫌いなのか? さっきから目もあわせようとしていないし」
 少年とて、少女のことを嫌っているわけではない。むしろ好意を抱いているといって
いい。だが、何故か目を合わせることができないのだ。ちょっと目線が合わさっただけ
でも体が熱くなる。一体この熱が何なのか、初めて女の子を見た少年にはわからなかった。
 少年はちらりと、少し不安げな少女の顔を見た。
 その顔を見ていると、何故か悪いことをしたような気分になる。そんな時は素直にな
りなさいと城の皆に言われていたことを思い出した。
 そして心を決めた。
「足手まといにならないように頑張ります。ぼくだって、きっとできるよね」
 少年は、一度決めたことは途中で投げ出さない、その程度の信念は持ち合わせていた。
「よく言った」女が褒めた。
 少女は嬉しくなって、可愛らしい笑顔を少年に向けた。が、見た本人は赤面して俯い
てしまった。
 顔を赤らめたまま、食の進まない少年をよそに、女たちは次々と運ばれてくる料理を
平らげていった。ヘンゼルはお礼の前払い分だと言ったが、そうだとしても豪華で品数
が多い。食後の果物を食べ終えてしばらくは立ち上がることが出来なかった。
 それからは雑談に興じ、腹も話も落ち着いた頃合に、女は立ち上がった。
「さて、晩餐も済んだところだ。私たちは休ませてもらうことにしよう」
「そうだな。今夜はもう休め。――チャーリーとルイ君は相部屋でもいいかい?」
 女はくすりと笑った。
「勿論だ。可愛い愛弟子を夜中に一人にしておくなど、出来るはずもない。それに一人
ぼっちにしてしまっては、夜が怖くて泣いてしまうかもしれん。――そうだろう?」

7 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:01 ID:X8Cs0z6E
 女の意地悪な物言いに、少年は慌てて言い返した。
「そ、そんなことないです。真っ暗闇の夜は怖いけど、決して泣くもんか。ぼくだって
魔法使いになるんだ!」
 女は少年の憤然たる様子に一瞬目を丸くしたものの、嬉しそうな顔をした。
「そういきり立つな。冗談だよ。――さて、案内してもらえるかな」
 女は少年を連れて、小間使いに案内を頼んだ。女は欠伸をしながら眠たそうに部屋か
ら出て行ったが、少年は胸の鼓動を高鳴らせていた。
 その後、少年はその体の熱を冷ますため、外の空気を吸いに出た。

 二人の客が休みに部屋を出て行った後、少女は父に話しかけた。
「とっても素敵な方々でしたわね、お父さま。安心して旅立つ事が出来そうですわ」
 ヘンゼルは優しく微笑みかけた。「旅立つとはまた仰々しい。ただ、ルーディアの城
まで行って、戻ってくるだけではないか」
「いいえ、国から出るんですもの。これは立派な旅ですわ」
「確かに旅かもしれないな。旅には危険は付き物だが――。たとえ一国の軍隊が襲おう
とも、シャーロット・スウォープを倒すことは出来ないだろう。」ヘンゼルは冷やかす
ように続けた。「――それで、ルイ君はどうだったかね?」
 少女は頬をほんのりと赤らめた。
「ええ。とっても素敵でした。それに、恥ずかしがる様子がとても可愛らしくて」
 ヘンゼルは笑顔で言い返した。
「気に入ったか。是非仲良くなっておきなさい」
 少女は部屋を出た。
 寝室に向かっている途中、窓から差し込む月の光が、廊下を薄く照らしていることに
気が付いた。興味を惹かれ、外を見上げると、夜空には星が一面に散りばめられていた。
 その中に大きく一つ、真ん丸く金色に輝いているものがあった。満月である。
「まあ! なんて素敵なお月さまなのでしょう」
 少女はいてもたってもいられなくなり、近くの出口から外へと出た。
 満天の星空を仰ぎ、大きく息を吸った。冷たい空気もどこか清々しい。
 少女はいつの間にか、舞うように駆け回っていた。
 すると、芝生の上に大の字を描いて寝転んで、月を見上げている人影が目に入った。

8 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:01 ID:X8Cs0z6E
 外の空気を吸いに出ていた少年である。
 少女は駆け寄った。
「何をしていらっしゃるの?」
 突然の少女の出現に驚いて、少年は顔を真っ赤に染め、慌てて座りなおした。
「つ、月を見ているんです。今日はとても綺麗な満月だから」
 少女は途端に嬉しくなった。その笑顔に気付かずに、少年は話し続ける。
「それに、月の光には魔力が宿っているらしいんです。――ぼくはまだ見習いで、魔法
も教えてもらえないけれど、それでもこうやって出来ることがあるんだ」
 月の光を浴びて、少しでも魔力を高める。ささやかな秘密の修行だった。
「――まだ、魔法を使ったことがないのですか?」
 少女にとっては意外だった。魔法使いの弟子ならば、誰もが始め魔法を習うはずだ。
「毎日毎日剣のお稽古ばかりしています。ぼくも、魔法を使ってみたいって少しは思う
んだけど、お館さまがまずは剣を扱えるようになれって言うんだ。だからきっと、これ
には意味があるんだと思います。それに、お館さまは剣も達者だから、ぼくも頑張らな
くちゃいけないんだ。なんせ、ぼくの夢はお館さまのような立派な魔法使いになること
ですから。――えっと、ハルナさまは魔法を使ったりはしないのですか?」
「ハルナ、でいいですわ」
 少年は首を振った。
「それならぼくもルイでいいよ」
 少女はくすりと笑って言った。
「私は魔法なんて使えません。それでも、剣術の嗜みはありますのよ。お父さまが教え
てくださるんです。――知り合いはみんな、剣術なんて淑女のする事ではないなんてお
っしゃるけれど、本当は体を動かすことが大好きなんですの。男の子のように元気よく
野原を駆け回って、木登りをして、魚釣りをして。そうやって存分に動き回ることがで
きたらどんなに素敵なことでしょう。それが、私の夢でもあるんです。」
 少女が少年の横に仰向けになって寝転ぶと、少年はにっこりと微笑んで月を見上げた。
「どんな夢だって、いつかきっと叶うってお館さまが言ってた」
 少年も少女と同じように寝転んだ。真横では月明かりに照らされた少女の顔が、少年
をにこにこと見つめている。少年はそれに気付くと、顔を真っ赤に染めて慌てて月を仰いだ。
 それから二人はしばらく、夜空の月を見上げていた。

9 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:01 ID:X8Cs0z6E
 翌朝、カーテンの隙間から差し込む光に気付き、少年は目を覚ました。隣ではまだ女
がすうすうと安らかな寝息をたてて眠っている。
 少年は女を起こさないようにベッドから出て、女に毛布をかけなおしてやると、大き
く伸びをした。清々しい朝の薫りが少年を包み込む。そして、荷物を入れた鞄の中から
服を取り出すと、徐に着替え始めた。女を起さぬように、そっと。
 寝巻きから着替え終わると、女の寝顔を覗き込んでは微笑んで、部屋を出た。
 少年が顔を洗おうと廊下を進んでいると、寝癖で跳ねた金髪を揺らして歩きながら、
眠たそうに目を擦っている少女の姿を見つけた。
 少年は一瞬どうするべきか悩んだが、歩み寄って言うことにした。
「おはよう、ハルナ。きみも朝は早いんだね」
 少女は恥ずかしそうによろめいて、頬を赤らめた。
「おはようございます、ルイくん。――今日はとても朝の光が眩しくて、お日様に起こ
されてしまいましたわ」
 少年は嬉しくなって言い返す。
「偶然だなあ。ぼくもお日さまに起されたんだよ。お館さまなんて、まだ布団のなかで
すうすう言ってるのにね」
 くすくすと笑みをこぼした少女を見て、少年は思わず微笑んだ。昨日までの恥ずかし
さはどこへいったのだろう。
 洗面を済ませ、少女と別れ、少年は部屋に戻った。女はまだ、ベッドの中で眠ったま
まだ。起さないようにそっとベッドに腰掛け、しばらく天井を見上げていた。
 拳をぐっと握り締め、大きく息を吐き出した。
「ぼくに護衛なんてできるのかなあ。――でも、やるって決めたんだから!」
 ふと、後ろからくすりと笑う声が聞こえたような気がした。少年は不審に思って女の
方を振り向き、じっと寝顔を観察する。
(お館さまのことだから、寝たふりをしてぼくを驚かそうとしてるんだ)
 女が本当に寝ているのか確認するために頬を突こうとしてそっと指を伸ばしたところ、
突然、女の姿が消えた。
 少年が驚いた次の瞬間には、女の腕が少年の首をしっかりと捕らえていた。
 女は意地の悪そうに笑みをこぼしながら、少年の耳元で囁いた。

10 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:01 ID:X8Cs0z6E
「朝早くからどこへ行っていた? それと昨日の夜はどこへ行っていたのだ?」
 少年は本当に窒息するかと思った。
「お、お館さま。苦しいです。離してくださいってば!」
 女はさらに口元を歪めて言う。
「ほらほら、どうした? まさか、もうハルナに手を出したのではあるまいな?」
 ハルナという言葉に反応して、少年の顔は真っ赤に染まった。
「お話をしていただけです!」
「それではどうしてそんなにも慌てているのかな?」
 これまた意地の悪そうに囁きかける女である。少年は息が苦しいから慌てているんだ
と言おうとしたが、声にはならなかった。
 少年が必死にもがいていると、ドアを叩く音がした。小間使いが朝食の準備が出来た
と伝えに来たのである。小間使いはこの光景を見て一瞬驚いた様子だったが、すぐさま
嬉しそうな笑顔をして部屋を出て行った。
「お、お館さま、朝ごはんを食べに行きましょうよ」
 少年の首に抱きついている女は、少年の耳元に息を吹きかけて、甘えた声で言った。
「今朝と昨晩はどこで何をしていたのかな?」

 朝食の席もまた、昨晩に負けず劣らず豪華だった。しかし、漂う空気はどこかひんや
りとして張りつめている。
「そういえば、何の為にハルナをルーディアまで連れて行くのだ? よりにもよって、
ルーディアという国に」
 ヘンゼルに尋ねた女の言葉が、場の空気をよりいっそう冷やしていく。
「ああ。そのことはまだ話していなかったな。お見合いだよ、ハルナの」
 少年はどきりとした。ハルナという単語を聞く度に胸を高鳴らせていた少年ではある
が、この時の動悸は並ではなかった。
 少年は少女を見た。目と目が合うと、少女は唇を噛んで俯いてしまった。
 食べ終えた頃、ヘンゼルは急に笑顔を取り繕って言った。
「それはそうと、ハルナ、ルイ君。旅支度は済んでいるかな? 隣の部屋を使うといい。
もし済んでいるのなら、二人で話でもしてはどうだろう。紅茶と果物でも出させよう」
 ヘンゼルは小間使いを促して二人を部屋から追い出した。二人が居なくなったことを

11 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:02 ID:X8Cs0z6E
確認すると、また顔をしかめて話し始めた。
「私は、自分の子どもには自由に生きて欲しいと思っているんだ。私だって、身分の差
があるにもかかわらず、親父にはメルシーとの結婚を承諾してもらったんだよ。だから、
ハルナにも、自由に恋に落ちて好きな人のところへ嫁いで欲しかった。――だが、それ
も叶わぬものとなってしまったようだ」
 それから見合いの相手がルーディア国の王子であるということを打ち明けた。
 女は静かに口を開いた。その顔には同情の色が浮かんでいるものの、目つきは厳しい。
「正気か? あのルーディアだぞ。――たとえどんなにお前の血統が高貴であろうとも、
王族でないハルナがどのような仕打ちを受けるのか、分かっているか?」
 王族であれば王妃として嫁ぐことも出来るだろうが、ハルナは単に小国の公爵家の娘
でしかない。愛妾となって王子の慰み者にされてしまうのが関の山だ。
「仕方が無いのだよ。我が国のような小国ではルーディアのように強大な軍事国を相手
に争うことなど出来はしない」
 女は不快感に顔を歪めた。
「――本当にいけ好かん、ルーディアという国は。どうせハルナを人質にとる気だろう。
そんなことをせずとも、単純に軍事力で脅しをかければいいだけであろうに」
 ルーディアの軍事力は強大である。またその軍事力によって近隣諸国へと圧力をかけ、
好き勝手してきた国でもある。理不尽な要求を突きつけられ、泣き寝入りするしかなかっ
た国も少なくない。そうやって搾取し、今でも着実に力を伸ばしているのである。
 故に近隣諸国からルーディアは嫌われていた。未だ直接的な圧力を受けたことは無い
ものの、ミレイもそんな国の一つだった。
 女もまた、ルーディアに対して好ましい感情は持ち合わせていなかった。女の住む古
城は、ミレイを南に大きく下った先の国境付近にあり、ルーディアとの直接の関わり合
いは全く無いのだが、ルーディアの行いというものは、女の最も嫌いとするところだった。
「今回は単に王子と顔を合わせるだけだが、私はいつかまた自分の娘の悲しみにあふれ
た笑顔を見送らねばならない。私は何もしてやれないんだ。なんて無力なのだろう――」
 頭を抱え込んで悲しみにくれるヘンゼルに対し、女は優しい表情を向けた。
「そう憂うな。お前が悪いのではないだろう。ハンス、お前は国のために行動すると同時
に、常に家族の為に尽力してきたはずだ。現に、お前の行いで不幸になった者が居るか?」
「確かにそうかもしれない。でも、それは結果論でしかないんだよ――」

12 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:02 ID:X8Cs0z6E
 ヘンゼルの悲痛な声色に、ただ黙り込むしかなかった。女も、相手がルーディアの王
子であることを考慮して、その可能性を否定できないでいる。
「――無駄話はこれくらいにしておこう」
 ヘンゼルは、悲しみを心の中に押し込んだ。女もこれ以上は何も言わなかった。
「そうだな。そろそろ出発せねば」
 女はそう言うと、颯爽と部屋を出て行った。その心に小さな怒りをたぎらせて。

 女たちが話をしていたころ、隣の部屋ではルイとハルナが紅茶を片手に雑談に興じて
いた。重苦しい雰囲気を避けるため、あえてお見合いについては話さなかった
「朝ね、お館さまったら寝たふりをしていたみたいなんだ。いきなりぼくの首に飛びつ
いてくるんだから、本当にびっくりしちゃったよ」
 少女の表情が笑顔に変わる。
「まあ。シャーロットさまったら! 本当にルイくんの事がお好きなんですのね」
 上品に手で口元を隠して静かに笑う。
「違うよ。ぼくをからかって遊んでるんだ。すぐ抱きつくし、ほっぺたつねるし。お館
さまってね、すぐそういうことするんだよ。本当に困っちゃうよね」
 やれやれといった顔をする少年が、少女にとってはおかしくてたまらないらしい。少
女の口元からはくすくす可愛らしい笑い声が溢れ出ていた。
「本当に困った奴だな。お館さまという奴は」
 この声に、心臓の止まる思いをした少年だった。目の前に女が現れたのである。わざ
わざ魔法を使い、姿を消してから壁をすり抜けて部屋に入ってきたのだ。
「お、お館さま、ここ、これは違いますっ。えっと、えっと――」
 女は、自分の失言にうろたえる少年を楽しそうに眺め、意地の悪そうな顔つきをした。
「困り者のお館さまはお邪魔だったかな? お二人さん」
 少年と少女は互いに目を合わせたかと思うと、二人とも顔を真っ赤に染めて俯いてし
まった。その様子に、女はため息を吐きながら肩を竦めた。
「あらら、余計なことを言ってしまったかな。――そろそろ出発なんだが、いつまでそ
うやって赤くなっているつもりだい?」
 すると我にかえった少年は、ぜんまい仕掛けの玩具のような動きで立ち上がった。
「は、はいっ。ぼくも、準備は出来ています。いつでも出発できます」

13 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:02 ID:X8Cs0z6E
「そうか、それならルイは私と来なさい。ハルナは馬車で待っていてくれ」
 少年たちは荷物を取りに来ていた。
「さて、今回は護衛だということをわかっておるな?」
「はい、お館さま。足手まといにならないように頑張ります!」
「だが、武器も何も無くては護衛など務まらん。そこで、私からお前に渡すものがある」
 そういって女が鞄から取り出したのは、一本の短剣だった。それも只の剣ではないと
いうことが一目で分かるほど、異様な形状をしていた。
 鞘には銀の龍が巻きついており、鍔に填められた真っ赤な宝石がその残酷そうな銀龍
の眼球を為している。柄を持った者の手を喰らわんとばかりに大きく顎を開いて、真っ
赤な眼を不吉に輝かせていた。
 少年はその姿に圧倒されながらも受け取り、ゆっくりと鞘から刀身を抜いてみた。
 鞘の中から姿を現したのは、少年には見たことも無い不思議な色の刃だった。
 透き通るようであって、それでいて濃厚な白である。太陽にかざしてみると、青白く
きらきらと光がすり抜ける。少年はとても不思議に感じた。
「お館さま、これは一体――」
 女は含みのある笑い方をして言った。「それは竜の牙で出来ている短剣でな。名前は
無いが、なかなか洒落たつくりになっているだろう。おそらく世に二つと無い」
「本当に、こんな素晴らしいものをぼくにくれるんですか?」
「私には必要のないものだからな。それをベルトにさして常に装備しておきなさい。お
前の剣の腕ならば自在に使いこなせるはずだよ。そのための剣の訓練だろう?」
 少年は短剣を丁寧に鞘にしまうと、それを左の腰にさした。
「ありがとうございますっ、お館さま。見事に使いこなして見せます!」
 少年は少しはしゃいでいた。
「さて、そろそろ行こうか。あまりハルナを待たせてはいけない」
 馬車は既にハルナとともに二人を待ち構えていた。繋がれた二頭の馬は、今にも手綱
を引きちぎって走り出しそうなほどに若々しく猛々しい。
 馬の背中を軽くたたきながら、ヘンゼルが言った。
「どうだ、中々の駿馬だとは思わないか」
「旅路で馬に死なれては困るからな。これだけ威勢がよければ文句はない」
「あとは侍女を一人つけよう。まだ若いがよく働く。その上美味い飯を作る。ハルナと

14 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:02 ID:X8Cs0z6E
の仲もいいしな。――ユリア、ここへ」
 ヘンゼルが呼ぶと、そこへ小間使いの少女が現れた。
 少年は頬を赤らめた。朝食について伝えに来た小間使いだったからだ。
 彼女はさらさらと線の細い小麦色の髪をきちんと結い上げて、ふわりとした小間使い
の帽子を被っていた。少年たちよりも少しばかり年上のようだが、その顔つきは少年た
ちと殆ど変わらぬほどに幼さが残っている。少しふくらみのある頬にくりくりと大きい
目、物腰柔らかなように見えて実は落ち着きの無さそうな仕草など、まるでリスのよう
で可愛らしい。きょろきょろしていて、ふわふわしているのだ。
 その小間使いは丁寧に頭を下げた。
「ユリアと申します。シャーロットさま、ルイさま。ご活躍の噂は重々伺っております。
でも、どんなに偉大な魔法使いさまであろうと、私が居るからには粗末なご飯は食べさ
せませんのでご覚悟を。たとえ筋だらけの兎肉でも、極上にしてご覧にいれますわ」
 堂々と語った後、スカートを少し持ち上げて丁寧に頭を下げた。挨拶を受けた二人も
同時にお辞儀をする。その様子を見ては、さすがにヘンゼルも苦笑いを浮かべてしまった。
「こらこら、口を慎みなさい。私には構わぬが、相手が違うのだよ、ユリア」
 しかし、女は満足そうに笑い飛ばしたものだ。
「いいや、このくらいが丁度よい。どうやら、食事の心配はしなくてよさそうだしな。
どうだ、ユリア。ルイのお友達になってはくれぬかな?」
 ユリアは、お友達とは私めなどには勿体無うございます、と恭しく女に礼を述べたも
のだが、一方で少年はユリアと目線を合わせて顔を真っ赤に染めていた。いまだに女の
子には慣れないらしく、この調子では少年の人見知りは治りそうにない。
「お父さま、それでは行って参ります。どうか、ご心配なさらずに」
「わかっているとも。かの大魔女がついているのだ。心配するだけ無駄というものだ」
 そう言ったヘンゼルの顔には冷や汗が浮かんでいる。女がその様子を見るや、とんだ
親馬鹿であると小声で口走ったことを少年は聞き逃さなかった。
「これはお守りだ」
 ヘンゼルが少女に渡したものは、黒い宝石のついたネックレスだった。
「これは――」
 少女はすぐにこのネックレスがいつも母親の首にかかっていたものであるとわかった。
その吸い込まれるように黒い宝石は、少女に触ってはいけないものであるとの印象を与

15 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:03 ID:X8Cs0z6E
えていた。同時に非常に良く似合っていて羨ましく思ったものだった。
「ありがとう。お父さま」
 ヘンゼルを残して馬車へと乗り込むと、彼の不安げな表情が、女には滑稽に映った。
「どうした、馭者でもやりたいのかな?」
 ヘンゼルは、是非私にやらせてくれ、という言葉を一所懸命飲み込んだ。
「明日には公務に戻らなくてはならんのでな。――ハルナ、本当に大丈夫か?」
「お父さま、くどいですわよ。シャーロットさまが信用出来ないのですか?」
 これには何も言い返せないヘンゼルである。さらに追い討ちをかけるハルナであった。
「私が心配でご公務に手のつかないような事があったのならば、お母さまがなんと仰る
か、わかっておりますわね?」
 身震いし、背筋の凍る思いのしたヘンゼルだった。女はその様子を傍目で笑っていた。
 娘に対する未練を振り切って、ようやくヘンゼルが別れを口にする。
「ハルナをよろしく頼む。ユリアも体に気をつけて。それと、くれぐれも内密にな」
 ヘンゼルは馬車が見えなくなるまで、その姿を見守っていた。
 ゆっくりと進む馬車の乗り心地は申し分なかった。この調子ならばルーディアに着く
まで約四日だ。お見合いの予定が七日後であるから、時間にはたっぷりと余裕がある。
 空はからっと晴れ上がり、心地のよいそよ風が吹いている。絶好の遠足日和だ。
 のんびりと馬車で足を伸ばしている少年たちはピクニック気分だった。馭者席にいる
ユリアも鼻歌交じりに馬を歩かせている。
「ハンスはいつもああなのか?」
 女の質問に、ハルナはさもおかしそうに笑った。馭者席でユリアも人知れず笑っていた。
「そうですの。心配してもらえるのは嬉しいのですけど、それも過ぎると――。その上、
お母様には頭が上がらないんですのよ。情け無い話ですわ、まったく」
 ユリアが馭者席から顔を出して付け加えた。
「口げんかでは常に奥さまが勝ちますし、奥さまの平手は一瞬で旦那さまを黙らせてし
まいます。旦那さまったら、奥さまがご機嫌を崩された時なんて、日が沈むたびに贈り
物をして何とかしようと必死なんですよ。こんなに素敵なご夫婦は他に二組とありません」
 ユリアの夫になる男性も苦労しそうである。
「昔から変わらんようだな、あの二人は」
 女は昔を懐かしむような遠い目で笑った。

16 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:03 ID:X8Cs0z6E
「女の人はみんな、男の人のことを食い物にしようと目論んでいるんですか?」
 控えめに質問を投げかけた少年に対して、大きく笑った女性陣だった。
 ヘンゼルの話題も尽きた頃には、太陽は真上に登り、四人の小腹もすいてきた。
 道沿いに丁度いい広さの原っぱを見つけると、馬車をそこに停めた。
「そろそろご飯にいたしましょう。私が朝作ったサンドイッチがあるはずです」
 ユリアはそう言って、馬車に積んである大きなバスケットの中から、布で包んである
箱を取り出した。大事そうに抱えて馬車から降りると、芝生の上に大きな布を敷いた。
 皆それぞれ馬車から降りては大きく伸びをした。見下ろす太陽の光は少し強くて、片
目を瞑って手をかざした。大きく息を吸い込みたくなるほどに、清々しい空の薫りがする。
 ユリアがそれを敷物の真ん中に置くと、四人はそれを囲うようにして座った。
「さて、お弁当にしましょう。私が朝、腕によりをかけて作ったサンドイッチですよ。
沢山作ってきましたから、しっかり食べてくださいね」
 ゆっくりと包みをほどき、箱の蓋を開けた。たくさんのサンドイッチが整然と詰め込
まれている。目に入るや否や、少年たちは思わず驚嘆の声を上げた。これだけの量を短
い朝のうちに作ったのだから、ユリアの手際のよさには驚かざるを得ないのだ。
「さすがユリアだわ。こんなに美味しそうなものをたくさん作るんですもの」
 それぞれ手を綺麗に拭いた後、食前の挨拶をしてサンドイッチに手を伸ばした。
 味も非常に好評で、少年は目をきらきらさせながら食べていたし、女は素直に感想を
述べ、少女は頬に両手を当ててうっとりとしていた。ユリアは、えっへん、と胸を張っ
て機嫌の良さそうに自分の作品を食していた。
 沢山あったサンドイッチも、しばらくするとすっかり無くなってしまった。
 少女は満足げに顔をほころばせた。
「これで食後の紅茶でもあれば文句は何一つ無いのですけれど」
 この言葉にユリアの耳はひくひくと反応し、即座に体を動かした。人知れず馬車へと
駆け込んで、茶葉や水を入れた水筒、それから直火用のティーポットを持ち出したのである。
 しかし、足りないものに気づき、ユリアは首をかしげた。
「火を焚くには、薪を取ってこないといけませんね」
 それを傍で聞いた女は、気を利かせてユリアに提案した。
「なに、火なら私がおこそう。――そこの石で段を作ってポットを置いてみなさい」
 魔法を使って火をおこそうというのだ。女にとっては造作無いことなのであるが、

17 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:03 ID:X8Cs0z6E
ユリアにはどうやって火をつけるのか想像も出来なかった。
 ユリアは言われたとおりに石を積み上げてコの字型に段を作り、ティーポットに水を
入れてその上に置いた。
 少女と少年はその異変に気づき、ティーポットの周りへとやってきた。
「よしよし。それではお湯を沸かすとしよう」
 魔法に興味津々である三人は、女を凝視していた。女はこれといって緊張する様子も
なく、くつろいだ様子で詠唱を始めた。ただ火をおこすだけの小さな魔法である。その
詠唱はとても短く、その長さは僅か六音節だった。
 少年にとってその詠唱は聞きなれたものだった。城にいるときも、女がちょくちょく
と使っていた魔法であり、何度も聞いているうちに覚えてしまっていたのだ。
 人間が使う魔法というものは、どんなに小さなものであれ詠唱が必要である。米粒一
つ動かすだけの魔法にも、天地をひっくり返すような大きな魔法にも、例外なく詠唱は
必要なのだ。しかし、扱う魔法の規模によって、詠唱の長さは変わってしまう。中には
詠唱に三日かかるような、とんでもない魔法も存在するらしい。
 詠唱が終わるとともに、女がティーポットに向かって指を振った。
 すると、ティーポットを置いた段の下から火が出た。
 魔法を初めて目の前で見たハルナとユリアは、驚きの表情を隠せずにいた。
 しかし女は何事もなかったかのように平然と言ってのける。
「さて、沸騰するまで少し時間がある。その間に馬に水でも飲ませてやったらどうだね」
 三人が言われたとおりに馬を世話していると、丁度湯が沸いた。魔法で淹れた紅茶は
いつもよりも美味しく感じたらしく、四人とも上機嫌でその場を去ることができた。
 ぽかぽかと暖かい陽の光に、心地よい馬車の揺れ、そして気持ちのよい満腹感。これ
らが少年たちに誘うものは眠気だった。馬車に乗っている少年たちを襲う睡魔はまるで
天国からの使者のようである。
 既に眠ってしまった少年と少女を気遣って、女は馭者席へと移った。
 ユリアは頭をこくりこくりと上下させていた。
「ユリア、お前も眠たかったら眠ってもよいのだぞ。馬車は私が走らせよう」
 眠たそうだったユリアも、これには慌てて言い返した。
「い、いけません、シャーロットさま。これは私が任された仕事です。お手を煩わすよ
うなことがあっては――」

18 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:04 ID:X8Cs0z6E
「大丈夫だ。ルイだって護衛を任されてはいるが、あの通りぐっすりだぞ」
 女の指差した先を目で追うユリア。そこでは、少年と少女が仲良く壁にもたれかかっ
て眠っていた。その寝顔はとても安らかである。
「まあ――本当に幸せそうに眠っていらっしゃいますね」
 ユリアは口元を隠し、小さく欠伸をして続けた。
「本当に任せてしまってもよろしいのですか?」
 眠りたいという欲求と、馬車を走らせ続けなければならないという使命感の葛藤に、
ユリアはまだ迷っている。
「ああ、良い子はお昼寝の時間さ。お前たちはまだ若い。いや、幼い。眠たいときに眠
らなければ体がもたぬだろう」女は強引にユリアを馬車の中へと押し込んだ。
 仕方なく、ユリアは少年の隣へと腰掛けた。少年の向こう側では、少女がすやすやと
眠っている。少女の寝顔も可愛らしいが、それ以上に少年の寝顔に心惹かれた。
 ユリアは幸せそうな少年の寝顔をしばらく眺めて、目を閉じた。
 馭者席から覗き見ていた女は、意地の悪そうに笑っては言ったものだ。
「両手に花とはこの事だな。それにしても、ルイの寝顔はいつ見ても飽きない」
 
 少年が目を覚ましたとき、空は既に赤く染まっていた。少年は寝惚け眼をこすりなが
ら辺りを見回した。両脇で寝ていた少女たちの姿は無く、馬車の揺れも感じない。皆は
どうやら、馬車を停めて外へ出ているらしい。
 少年が馬車を出て最初に見たものといえば、たくさんの枝をその小さな腕と胸で抱き
かかえて、のしのしと歩いてくるユリアの姿だった。
 馬車の裏には川が流れ、役馬はその川沿いの木に繋がれていた。
 少年はユリアの向かう先へと目をやり、芝生の上に足を伸ばして座っている少女と女
の姿を見つけた。二人の前には、落ちている石を組んで作った竈があり、その上には大
きな鍋が置いてある。どうやら談笑しながら、薪をくべているようだ。
 少年は大きく伸びをした後、女の方へと駆け寄った。
「ようやくお目覚めでございますかな、王子様」女は笑顔で皮肉った。
 少女は少年の起床を待ち侘びていたらしく、溢れんばかりの笑顔で言う。
「おはよう。さ、早くご飯にしましょう。私たち、ルイくんが起きるのをずっと待って
いたんですのよ。本当は起そうと思ったんですけど――」

19 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:04 ID:X8Cs0z6E
 女が寝かせてやれと言った為、空腹を我慢して待っていたのだ。
「ぼくのことなんてほっといて、先に食べてくれればよかったのになあ。本当にごめんね」
 そこへ、枯れ枝をたくさん抱えたユリアが戻ってきた。それを鍋の近くに置くと、
そのままぺたんと芝生に座り込んだ。
「これだけあれば、一晩もちますよね」
「たくさん持ってきたな。これだけあれば十分だ。足りなければ魔法で燃やしてもいい」
「きっと大丈夫ですわよ。それより、ユリア。ルイくんもいますし、晩御飯にしましょう」
 ユリアは疲れも忘れて引き受けた。
 鍋の中ではシチューがぐつぐつと音を立てて煮えている。シチューの美味しそうな匂
いの中には、ほんのりと山の香りが混じっている。グリンメルス邸から持参した材料に
加え、ここまで来る途中で摘んだ山菜なども入っているのだ。
 ユリアはそれを三人に分けると、自分の分を最後に掬い上げて、恐る恐る少年たちの
輪に加わった。「私も、一緒に食べさせていただいても宜しいでしょうか――」
「どうしてそんなこと聞くの?」少年は屈託のかけらも無く口走った。
 少年にとって、皆揃って晩餐することは当たり前のことなのである。
「私のような者が、外で皆さまとご一緒するなんて、差し出がましいにも程があると思
うのです。旦那さまは、機会があれば私たちのような召使いともご一緒してくれますけれど」
 ユリアの説明を聞いても、少年の顔には疑問符が浮かんでいた。
「昼も一緒に食べたろう。気にすることは無い」女が言った。
 早速、女は美味しそうに食べ始めた。少年たちも続いて食べ始める。
 しばらく四人は無言で食べていた。ユリアは気まずそうに、上目がちに三人の様子を
伺っている。一足先に呼吸を整えた少年が、率直に感想を述べた。
「本当においしいよ! ――えっと、ユリアさん」
 ユリアは途端に嬉しくなった。彼女にとっておいしいという言葉は至上の褒め言葉だ。
 料理の腕では誰にも負けないと自負しているユリアも、外で料理をするというのは初
めてだということもあり、この時ばかりは不安になっていたので尚更だった。
「頑張った甲斐があったというものですわ」ユリアは幸せそうに言った。
 素直な言葉は最もよく心に響くものだ。
「それと、ユリアとお呼びくださいませ」
「そっか。それじゃあ、ぼくもルイでいいよ」

20 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:04 ID:X8Cs0z6E
「とんでもございません。私のような小間使いが、そう気安く呼ぶ事など許されませんわ」
 どうして許されないのか理解できずに首を傾げた少年だったが、深く考えても仕方が
無いと思ったのだろう、理由を尋ねることも無く、シチューの賞賛を続けた。
 いつのまにか空には星が浮かび、夜の虫が鳴き始めていた。
 少年たちは、シチューが空になって初めてそのことに気づいた。それほど楽しい夕食
になったのである。
 ユリアは夕食で使った食器を川の水できれいに洗い、水気をよくふき取ってから、馬
車に積んである大きなバスケットの中にしまった。
 一仕事終えたユリアは、焚き火の前の女の横に座って、のんびりとくつろぎ始める。
 そして火の中に薪を投げ込みながら女に尋ねた。
「持ってきた食材を全て使ってしまいましたけれど、よろしいのですか?」
「朝食にパンはまだ残っているだろう? だから問題ない。遅くとも明日の晩にはノド
ルカの町に着くだろうからな」
 ユリアはそれで納得した。
 翌日の昼食は一体どうするのか、誰も疑問には思わなかった。
 一方、二人から少し離れたところでは、少年と少女が駆け回って遊んでいた。
 木の後ろに隠れながら、相手の様子を見て逃げ回り、捕まってしまったらそこで交代
する。それには終わりが無く、お互いの体力が尽きるまで続けられた。
「もう、走れませんわ。そろそろ戻りましょうよ」
 汗でびっしょりになりながら、息も絶え絶えに提案した少女に対して、少年はそこま
で息をきらせてはいなかった。まだ少し余裕があるように見える。
「あーあ、楽しかった。それにしても、たくさん走ったなぁ。何だかぼくも疲れちゃった」
 二人が女たちと合流すると、個々に水浴びを済ませた。
 今はそれぞれ寝巻きに着替え、焚火の前に集まって談笑している。
 少年はユリアと楽しそうに話をしていた。
 話し相手をユリアに取られてしまった少女は、先日からひっかかっていたことをこの
場で切り出すことにした。
「シャーロットさまは、どうしてルイくんに魔法を教えてあげないのですか?」
 少女には未だにその事が理解できない。少年は特に気にしていない様子だが、魔法を
教えてあげないのは酷いのではないかと思っていた。そもそも魔法使いに剣術が必要な

21 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:04 ID:X8Cs0z6E
のかどうかさえわからない。
「別に教えないわけではない。今は剣の稽古が大事だからな。魔法まで教えてしまうと、
ルイの負担になると思ったのだよ」
 確かに少年の剣の修行は大変なものだ。
 少年は毎日のように左手で短剣を振るい、相手の剣を受け流す稽古ばかりしていた。
 剣の師はとても厳つい顔つきの老人なのだが、少年は彼のことが大好きである。言う
ことの全てが、少年にとって興味深いことばかりなのだ。剣は人や自分を守るものであ
るということ、信念は貫かなくてはならないということ、忠誠を誓った者には命を捧げ
てでもお仕えしなくてはならないということ。そんな在り方を悠然と少年に語る老師の
姿は、いつしか女の存在と並ぶほどの少年の憧れとなっていた。
「剣のお稽古が終わりましたら、ちゃんと魔法を教えてくださるのでしょうか――」
 少女はまるで自分のことであるかのように尋ねた。それほどまでに少年のことが心配
だった。少年はあんなにも女のような魔法使いになりたがっているのに、女がそれを許
してはくれないのだ。魔法使いが魔法を教えず、剣を勧めるとはどういうことだろう?
 しかし、少女は少しばかり思い違いをしている。
 実際、魔法使いに何らかの戦闘術は必須なのである。魔法使いが前線で戦う場合、相
手の攻撃を受け、躱しながら詠唱をしなくてはならないからだ。
 事実、女自身も相当な剣術使いである。それは受け流すことばかりに特化した守りの
剣なのであるが、それは単に時間を稼ぐためのものでしかない。もし、女との打ち合い
で隙を見せれば、そこに魔法を叩き込まれてしまうだろう。
「もちろん教えるさ。ルイは立派な魔法使いになるんだからね」女は付け加えた。「そ
ういえば、剣の稽古もしばらくは無いのだから、この機会を利用して魔法の一つでも教
えてやるのもいいかもしれないな。――ルイの事を心配してくれてありがとうよ」
 少女は途端に嬉しくなった。これで少年も立派な魔法使いの見習いであると、我が事
のように嬉しく思った少女であった。同時に夢に一歩近づいた少年の事を羨ましく思った。
「いいえ、差し出がましいことを申しました。シャーロットさまは本当にお優しいですわ」
「なに、そんなことはないさ。これもいい機会だ」女は照れくさそうに笑った。
 女は焚火に薪を投げ込みながら、少年を呼んだ。
 少年は、これから魔法を教えると言われてびっくり仰天していた。
 今まで魔法のことは一切教えてもらえなかったのにどういう風の吹き回しだろうか、

22 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:05 ID:X8Cs0z6E
明日は天変地異でも起こるのではないか、とさえ思ってしまったほどだ。
 目を丸くしている少年を傍目に、女は意地の悪そうな顔つきで言った。
「ハルナとユリアは少し離れたところで見ていなさい。――爆発するかも知れん」
 これは冗談である。
 女がこれから教えようとする魔法は単なる灯りだ。魔力を注ぎ込み過ぎて目が眩むほ
どに光ってしまうことはあっても、爆破することなどまずありえない。
 しかし、少年を緊張させるには十分な言葉だった。体を強張らせている少年に構わず、
女は説明し続ける。
「よいか、ルイ。これからお前に教えるのは灯火魔法だ。まずは私が手本を見せる」
 そして女は人差し指を突き出すと、詠唱を始めた。その詠唱の長さはわずか三音節。
一瞬の詠唱で、女の指先にはぼんやりと灯りが点った。
 横で見ていた少女たちは感心していた。魔法は何度見ても興味深いものだ。
 ちょっとした詠唱をするだけで奇跡が起こる。それは魔法使いと竜だけに許された奇
跡だ。もし、自分たちに魔法を使えたら、どれほど素敵な体験ができるだろう。
「さて、次はお前の番だ。よいか、魔法には詠唱も大切だが、それ以上に想像すること
も大切だぞ。注ぎ込む魔力を調節しなくてはならないからな」
 少年は魔法なんて詠唱さえできればなんとかなるものだと思っていた。実際に、女は
いつも軽々と魔法を使う。だが、いざ挑戦するとなると、返事をするのにも少年の声は
震えて、その手も汗で濡れていた。
 心を決めた少年は手の平を差し出して、その上に明かりが点く様子を想像した。そし
て、恐る恐る例の三音節を口にする。
 すると、手のひらの上が仄かに光を帯びた。少年が想像した明かりよりも幾分弱々し
い光であるが、失敗ではない。爆発しなくてよかったと、少年は安堵の声を漏らした。
「ふむ。初めてにしては上出来だよ。ただ、少し魔法を怖がっているようだな。少しば
かり光が淡い」
 少女たちも少年が魔法に成功したことを嬉しく思った。
「お館さま、これだけの魔法なのにすごく疲れるんですね」
「力みすぎなのだよ。初めてなのだから仕方が無いさ。初めから上手な奴などいないし、
私にだって見習いの時期はあったものだ」
 女は少年の頭を優しく撫でてやり、まだまだこれからだと諭した。

23 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:07 ID:X8Cs0z6E
 練習を何度か繰り返しているうちに、少しずつ明かりは逞しくなっていく。
 そんな様子を見守っている少女二人も、真似をして詠唱してみた。
「やっぱり、私に魔法は無理なのですわね」少女が嘆く。
「魔法で火をおこせたら、どこでも極上のシチューを作って差し上げますのに」
 ユリアはもう一度詠唱して、何も起こらない手のひらを見て肩を落とした。
「魔法が使えないからといって、何が劣るわけでもないのだよ。魔法が使えるからといっ
て、意中の男を手に入れることもできなければ、旨い料理を作れるようになるわけでもな
い。だから、そんなに気を落とさないでおくれよ。必要ならば私が代わりに火を熾したり
何でもしてやるからね」女は二人の頭を撫でてやった。
「どう頑張っても、私たちが魔法を使うことは出来ないのでしょうか」
 どこか必死さを帯びた声色に、女は諭すように説明してやった。
「いいや、そんなことはないぞ。魔力というものは、持って生まれてくる者と、後から芽
生える者がいてね。本当に稀だが、大量の魔力を体に浴びたり、取り込んだりすると、体
に魔力が定着して芽生え始めることがある。だが、元々体に無かったものが発生するとい
うのだから、当然体に異変が起こるだろうし、場合によっては死んでしまうこともあるだ
ろう。とても危険なのだよ。あとから魔法使いになろうというのはな」
「なんだか、ルイくんがとても遠い存在のように感じます」
「なに、気にすることはないよ。ハルナもユリアも、ルイの友達で居てくれようとするな
ら、ルイは絶対に離れたりはしないからね。そのための魔法なのだから」
 女はすっかり寂しそうな表情になってしまった少女たちの肩を軽く叩いて励ました。
「さて、ハルナの要望通りに魔法を教授してやったし、今日はそろそろ休むとしよう」
 女の提案を他の三人は素直に受け入れて、馬車の中へと入っていった。
 若い衆三人は体が小さいので馬車でも十分に寝転がることが出来たのだが、女はそうも
いかない。代わりにハンモックを作り、そこに寝ることにした。
 女は目を瞑りながら少年のことを考えていた。
 遠い存在だと言ったハルナの言葉はこの上なく的確だ。
 自分ですら、灯火魔法を発動できるようになるまで、一日かかったのである。それで
も桁違いに早い習得だった。命の危険が迫った時などに、今まで出来なかった魔法が使
えたりすることはあるが、少年はそのような状況でもないのに瞬時に魔法を使えてしま
った。初めてだというのに、呪文と手本だけで即刻に習得してしまうなど、才能の次元

24 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:08 ID:X8Cs0z6E
が違う。
 これからも、少年は恐ろしい速さで数々の魔法を覚えていくだろう。それを正しく使
えるように、少年を導いていかなくてはならない。
 それは女に課せられた使命であり、幸福だった。
(時間はたっぷりとあるのだから、焦らず慌てず、ゆっくり教えていこう)
 
 少年の朝は早かった。昨日、十分に睡眠をとっていたということもあり、まだ空の赤
いうちに目が覚めたのである。
 両手で寝ている少女とユリアにどぎまぎしながら、起さぬようそっと馬車を出た。
 両目を擦って、大きく伸びをして、そして川の水で顔を洗った。濡れた頬を撫でる朝
の冷たい風が気持ちよい。顔を拭うと心も体もさっぱりとして、目も冴えてきた。
 朝の風に煽られていると、無性に体を動かしたくなってくる。よく考えてみれば、こ
こ数日は剣の稽古をしていない。
 馬車の中から先日受け取った短剣を取ってくると、鞘を腰に差して刀身を抜いた。
「相変わらず不思議な剣だなあ」少年は一人ごちた。
 短剣を左手に持ち、相手を想定して身構えた。少年の剣は、敵の攻撃を受け流すため
に存在しているのである。攻撃を受け流し、そこへ魔法を叩き込むのだ。
 少年が全身に汗でびっしょりかいて一息ついたころには、既に空は青くなっていた。
「そろそろみんな起きる頃かなあ」少年は水浴びを済ませて馬車へと戻った。
 朝食の準備をしていたユリアは、戻ってきた少年の姿を見た。
「あ、おはようございます。今朝はお早いのですね。丁度よかった。朝ごはんの準備が
出来ましたので、お二方を起してきますね」
「あ、だったらぼくがお館さまをおこしてくるよ」
 小間使いとして、少年の手を煩わすのは好ましくないとは思ったが、早く自分が作っ
た朝食を食べてほしいので少年の好意に甘えることにした。
「助かります。お願いできますか」
「うん、任せといて。早く朝ごはん食べたいしね」
「楽しみにしておいてください。ただの朝食ですけれどね」ユリアはくすりと笑った。
 少年が馬車の近くの雑木林へと入っていくと、二つの木の間に蜘蛛の巣のように綱を
張って、その中に包まって寝ている女の姿が見えてきた。

25 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:08 ID:X8Cs0z6E
 ハンモックは、少年ではとても手の届かないところにあった。
 少年は数秒悩んだ挙句、ハンモックに乗り込むことにした。
 木登りなどはお手のものである。難なくハンモックの中に乗り込んだ。
 その瞬間、少年に悲劇が起こった。
 女の腕が少年をつかんで、そのまま抱き込んでしまったのである。
 少年はしまったと思ったが、それも後の祭りだった。いつものように、女は少年を待
ち伏せていたのだ。いつまでたってもそれを見破れない少年も少年だが、毎日同じよう
なことを繰り返す女も女である。
「私の寝込みを襲うなんて、なかなか度胸があるよ。ほら、どうした、何か言ってみろ」
 女にきつく抱き締められ、むぐむぐと苦悶の声を漏らしている少年に対して、女は満
面の笑みを浮かべていた。女の一日は、これをしないと始まらないのだ。
 女が好き放題にじゃれついた後、やっとのことで少年は解放されたのである。
 一方、少女はユリアに襲いかかることも無く、至って平穏に目覚めた。
 少年たちが戻ったころには、既に着替えも済ませており、まさにこれから朝食にあり
つこうかというところだった。
 戻ってきた女と少年を見て、少女たちが首を傾げたのは言うまでも無い。
 肌をつやつやさせ、さも機嫌の良さそうにしている女と、髪の毛をくしゃくしゃにして、
げっそりとうなだれている少年がそこに立っているのだ。
 事態を察したユリアは、少年を気の毒に思うと同時に、少年が自ら名乗り出て身代わ
りになってくれた事に心から感謝した。
 少年にとってこんなことは日常茶飯事である。朝食の席に着いたころには、いつもの
少年に戻っていた。ユリアはますます少年に感心していた。
 朝食はパンにジャムという簡単なものだった。
 しかし、少年たちはユリアが配膳したというだけでより美味しく感じていた。
 上機嫌で仲良く朝食を済ませ、しばらくして馬車に乗り込み、旅の二日目が始まった。
 馬車の乗り心地は相変わらず好い。しかし、それでも不満はあった。
 馬車の中ですることといえば、カードに興じるか、雑談に花を咲かせるか、寝るか、
くらいのものだ。遊び盛りの少年たちにとっては暇で暇で仕方が無いのである。
 はじめは朝の事や、他愛の無い話で時間を潰していたのだが、それも段々と難しくな
ってくる。ついには話すことも思いつかなくなってしまった。

26 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:08 ID:X8Cs0z6E
 少年は退屈そうに口を開いた。「することが無いのって、辛いなあ」
 女は少年の言葉を聞くや否や、不気味なほどに嬉しそうな顔をして、いきなり少年に
のしかかった。そのまま押さえ込みながら、少女たちも加わるように促した。
「ここに退屈にはもってこいの玩具があるじゃないか。――ほら、ハルナも!」
 少女は顔を赤くして首を横に振った。ユリアはというと、馭者席から顔を覗かせて、
口元を隠して静かに笑っていた。
 助けを求めて足をばたつかせていた少年だったが、ただ微笑んでいるだけの少女たち
を見て逃げることは叶わないと悟り、攻撃に転じることにした。
 しかし女は少年が反撃してきたことが嬉しくてたまらないらしく、にこにこしながら
少年を巻き込んで転がった。そして素早い身のこなしで仰向けになった少年にまたがった。
 そのまま女は少年の脇腹をくすぐりはじめた。
 少年はくすぐったくてたまらないといった表情をしてじたばたしている。その表情は
泣き笑いへと変わり、喘ぐような笑い声を発した。苦しそうなのに幸せそうに見える。
 なんとも不思議な光景だと、少女たちは微笑ましく思った。
 そんな女の戯れは、彼女の腹の虫が鳴くまで続けられたのだった。
「さて、ここらで一休みしようか。準備していれば昼も頃合になるさ」
 女はユリアに馬車を停めさせると、食事の用意をするように言った。
「そうは仰られても、もう食べるものがありません。昨日の晩御飯に全部使ってしまい
ましたもの。山菜ならすぐに調達できますけど」
「そうだった。食べるものが無いというなら、ちょっくら猪でも捕まえてくるかな」
 そう言い残しては、すぐさまどこかへ消えて行ってしまった。
 女の行動に目を丸くしたユリアだったが、聞くところによると相当に腕の立つ魔法使
いであるらしい。どうやって猪をここまで運んでくるのかは分からないが、きっと造作
も無いことに違いない。
 ユリアはすぐに猪をどう調理するのかを考え、好適と思われる山菜を摘んだ。
 少年たちはユリアを手伝うために薪を拾い集めた。
 少年は持ちきれないほど沢山集めた薪を一箇所にまとめて置いた。
「後はお館さまが戻ってくるのを待つだけだね」
 そう言って手についた砂を払い、ふうと溜息を吐いて敷物に腰掛けた。
 ユリアも籠に集めた山菜を洗いながら少年に答える。

27 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:08 ID:X8Cs0z6E
「ええ、後の準備は私がいたしますから、ルイさまは楽にしていてくださいな」
「手伝うことは無い?」
「大丈夫です。お嬢さまと昼食を楽しみにしながらくつろいでいてくだされば、私も仕
事に精が出るというものですよ」
「そっか、ありがとう。ユリアのご飯、すっごく楽しみにしてるから!」
 ユリアは優しく微笑んで返事をした。
(本当に働くことが大好きなんだなあ)と少年は感心した。
 少年はユリアの邪魔にならないよう、馬車に戻って待つことにした。
 その途中のことである。突然、少女の呼ぶ声がした。
 少女の足元には、二本の真っ直ぐな枝が落ちていた。
「ルイくん。こっちへ来てくださいな」
 少年は何だろうかと疑問に思ったが、躊躇う事も無く少女の前まで駆け寄った。
 少女は何か悪戯を思いついたような笑顔を浮かべていた。
「剣のお稽古をいたしませんか。足元を見てください。なんと、偶然にも丁度良い枝が
二本落ちているんです」
 偶然が本当かどうかは疑問である。
 この提案には少年も困ってしまった。護衛をする対象に、ただの枝だとはいえ斬りつ
けることには抵抗がある。まして、相手は女の子だ。
 反して少女は少年を誘うだけに乗り気である。機嫌良さそうに笑みを浮かべながら、
枝を一本手に持って言った。「さあ、早く早く! ずっと馬車の中でしたもの、運動不
足で体がどうにかなってしまいそうですわ。それに今なら、お稽古を言い咎めてくる人
はいませんもの。人の目を盗んで、ユリアと木剣で遊んだものですけれど」
 ヘンゼルに稽古をつけてもらうには誰も咎めたりはしなかったが、さすがに小間使い
と斬り合いを演じるとなると、邪魔者も現れてきた。
 少女は枝先を少年の方に向けて、かかってこいと言わんばかりに挑発している。
 少年はしぶしぶと枝を拾うと、互いに五歩ほどの距離を取った。そして腕よりも長い
その枝を両手に持って構えをとった。
「互いに手加減は無しですわ!」
 少女がそう叫び、少年に向かって踏み込んだ。そして初めの一撃を振り下ろす。
 少年はそれを受け流し、一歩下がった。しかし、少女はここぞとばかりに踏み込んで

28 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:09 ID:X8Cs0z6E
きては、枝を振り上げてくる。脇腹を狙う閃影に、左手は咄嗟に反応するが、両手で持
った枝は扱いにくく右手が追いつかない。無理やり半歩飛び退き、枝を握りなおした。
 少女の振り上げた枝は空を斬った。外したことを感覚で悟った瞬間には、くるりと回
って滑らかに攻撃に転じていた。そのまま全身を使って枝を振り下ろしたのである。
 少年も反撃の準備はできている。額めがけて飛んでくる閃影を自分の枝で弾き返した。
 弾き返された少女はそのまま一歩飛び退き、すぐさま少年を叩き割らんと踏み出た。
 少年は少女の動きを一瞬観察すると、受け止めるべく腕を振る。
 その調子で、少女の閃影は絶え間なく少年を襲った。少年が弾き返そうとしても、少
女は衝撃をうまく吸収して、次の瞬間には攻撃に転じてしまっている。これでは反撃の
しようが無い。受け止めては半歩下がることで精一杯だった。
 少年は守ることに関しては、それなりに自信があった。今では師の猛攻にだって耐え
ることができる。だが、この少女の剣戟には戸惑った。
 攻撃的過ぎるのである。
 少年の師ですら、攻撃には緩急がある。だのに、少女の剣戟は全てに渾身の力が加わ
っているようだ。一撃一撃が等しく重いのである。
 どう受け止めようと、次の瞬間には閃影が飛んでくる。それも単調ではない。無規則
で確実だ。予想のできない閃影を、目で追って反応しなくてはならない。
 振り下ろし、弾き返し、飛び退いて、飛び掛る。まだ年端のいかぬ子どもたちの打ち
合いだとは到底思えない光景である。手にした武器が刃物であったならば立派な殺し合いだ。
 少年は勝ちたいとは思わなかったが、押されっぱなしでは癪に障るというものだ。
 攻撃に転じるには、少女を大きく飛び退かせる必要がある。
 だが、目で追って反応していたのでは、大きく弾き飛ばすほどの力がこもらない。ゆ
えに、次の攻撃を読む必要があった。それは始めから努力しているものの、考える暇を
少女は与えてはくれない。ならば誘えばいい。少年は真上からの攻撃を誘うことにした。
 攻撃を受け止め機会を伺いつつ、弾いては少女の枝先が地面に向かうよう仕向けた。
 少女は地面を向いた枝先を振り上げた。
 少年は一歩飛び退いて避けた。これで、そのまま振り下ろして攻撃してくるはずだ。
 案の定、少女は脳天を叩き斬ろうと振りかぶってきた。
 予想通りの太刀筋である。少年は両の腕に渾身の力を込めて弾き返した。
 少女はその閃影を弾かれ、そのまま飛び退いた。

29 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:09 ID:X8Cs0z6E
 少年は少女よりも先に踏み込むことに成功した。そして一瞬の隙を見逃さなかった。
一気に攻撃に転じようと腕を振ったのである。
 先に踏み込んだとはいえ、事実上は少女の動きにただ追いついただけのことだ。
 必然的に、互いの閃影は重なり合った。鍔迫り合いである。
 双方の枝が悲鳴をあげる。少年も少女も必死に押し返していた。ここで押し負ければ
そのまま敗北が決まってしまう。負けたくない、そう思った二人だった。
 少年は少女の顔を睨みつけようとして、目線を剣先から少女の方へと移した。
 目に移ったのは、汗でびっしょりになりながら、楽しそうな笑顔を浮かべている少女
の姿だった。その笑顔を見るや、なんだか胸のあたりがむず痒くなって、思わず力を緩
めてしまった。全身が更に熱を帯びた。
 少女はその隙を見逃さない。
 一気に力を込め、少年の枝を弾き飛ばした。
 少年の腕から枝がこぼれる。
 そのまま一歩たじろいだ少年に枝を突きつけ、嬉しそうに少女は言った。
「勝負ありましたわ。――私の勝ちです!」
 しばらく目を丸くしていた少年であった。
「驚いたなあ、ハルナは強いね。ぼくなんかじゃ足元にも及ばない」
 少女は頬を桃色に染め上げた。
「いいえ。そんなことはありませんわ。私も必死でした。攻撃を休めた時が負ける時だと、
お父さまが仰っていましたもの。それに、何度打っても打っても受け止められてしまうん
です。ユリアが相手ならすぐに決着がつきますのに。――でも、少し納得がいきませんわ。
だって、本気を出していないでしょう?」
 どうしてかと聞こうとした少年の声は、別の声にかき消された。
 突然、猪を抱えた女が姿を現したのである。実は影から二人の戦いを見ていたのだ。
「そんなことはない。ルイは本気だった。いや、必死だったというべきかな。そうだろう?」
「はい。絶え間なくて、受け止めることで精一杯でした。いつもなら受け流すんだけど、
それも出来なかったよ。両手持ちで打ち合うのは初めてだったし――」
 少年は本気だったが、長物を振り回すことには慣れていなかったのだ。
「いやはや、それでも見事な剣戟だったよ、二人とも。特にハルナ、お前の剣戟はハン
スにそっくりだ。奴に教えを乞うていたのだろう?」

30 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:09 ID:X8Cs0z6E
 ヘンゼル・グリンメルスといえば、宰相であると同時にミレイ一の剣豪としても名高い。
「まだまだお父さまには及びません。いつも軽くあしらわれてしまうんです。この前な
んて、鼻歌交じりでしたのよ!」
 くすりと笑って、女は言った。「私とてハンスに剣で勝てるとは思えないよ」
 女は、ヘンゼルの戦う姿と少女の姿を重ねては苦笑を噛み殺していた。
「お館さま。さっきから気になっていたんですけど、その猪はもしかして?」
「おお、これか。――昼食だよ」
 自分たちの体よりも大きな猪を抱えている女の姿を見て、少年と少女は顔を見合わせ
てくすくすと笑いあった。
 昼食は猪の肉をふんだんに使ったものばかりになった。四人分の昼食とは思えないほ
ど沢山作ったというのに、まだ肉が山ほど残っている。
 ユリアは初め、その猪の大きさに目を白黒させていたが、すぐさま袖をまくっては意
気込んで包丁を手にした。その細い腕で猪を真っ二つに割り、手際よく捌いた。
 少年たちはただ感心して見守るのみだった。
 女は完成した猪肉料理を見て、感心したように低く唸ったものだ。
「ユリアよ、ハンスの小間使いなんてやめて、私の城で働いてみないか?」
「お館さまが、ハルナのお城に住めればいいんじゃないかな」
「馬鹿を言うな。それではお前と離れ離れになってしまうではないか」
 もっと別の問題があるはずなのだが、女にはそれが一番重要であるらしい。
「ぼくは頑張ってお留守番できますから心配しないでください。お館さまはいっつもお
城で遊んでるだけなんだから、きっといなくっても大丈夫です」少年が軽く突き放した。
 図星を突かれて何も言い返せない女だったが、代わりに少女が答えてやった。
「ルイくんも一緒に来ればいいのですわ。そうすれば、一石二鳥です」
 何が一石二鳥なのか少年は分からなかったが、なるほどそれは名案であるとも思った。
 昼食を終え、再び馬車でルーディアを目指すシャーロット一行。
 このまま進めば、空が赤くなるころにノドルカに着くはずである。
 そこは海に臨んでおり、たくさんの運河の合流点でもある。いわゆる貿易、交通の要
所である。また、屈強な海の男たちや、長旅で疲れた商人たちの寝床としても栄えている。
 ノドルカからルーディアの国境までは一日ほどで、国境からルーディア城までが半日
ほどの距離である。女はノドルカで少し時間を潰そうと考えていた。

31 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:10 ID:X8Cs0z6E
 これというのも、ノドルカは女の生まれ育った町なのである。
 女は馬車の小刻みな揺れを心地よいと感じながら、郷愁をおぼえていた。
 何年ぶりに訪れるのだろうかと考えては、子供のころの自分を思い出す。
 女自身が後悔するほどに、随分と悪戯をしたものである。
 いつのまにやら苦笑していた女だったが、その顔は突然驚きの表情に変わった。
 金属音にも似た、人の叫び声がした。馭者席のユリアが突然悲鳴をあげたのである。
 カードに興じていた少年たちも、はっと顔を見合わせた。
 馬車の歩みが止まる。
 女は何事かと馬車を飛び出した。それに少年たちも続く。
 ユリアは既に気絶していた。
 馬車の前に立ちはだかったのは、見るもおぞましい巨大な生物だった。
 管状のその生物は、口と思われる部分の先から無数の触手を蠢かせている。その巨大
で湿り気のある胴体は、縦波のように節々を動かして、ヒクめいている。
 少女は吐き気を催した。少年も驚きを隠せない。二人ともかろうじて気絶しなかった
のが奇跡のように思われた。それほどまでに生理的な嫌悪感を放つ生物だった。
 それは、こんなところに居るはずのない存在だった。普段は赤子の小指にも満たぬよ
うな大きさで、生物の屍骸に張り付き、その骨を喰らっているだけの管虫である。
 しかし目の前の生物は大きさが尋常ではない。通常の数千倍、いや、数万倍もの大き
さがある。何者かによって、魔力を施されていることは明らかだった。
「骨喰らい、だと?」
 骨喰らいと呼ばれたその怪物は、触手をうねらせながら触手を役馬の方へと伸ばした。
喰らおうとしているのだろう。触手の先端からはまるで涎を垂らしているかのように、
澱んだ緑色の液体が滴っている。
 役馬が台無しになったのでは旅が続けられない。女はすぐに反応し、短い詠唱の後そ
の触手を吹き飛ばした。
 ぼとり、と地面に落ちた触手は、しばらく蠢いて止まった。
 触手は吹き飛ばした断面から目に見える速さで再生していく。女が本体を叩こうと体
を向けたが、再び襲い掛かり追撃を許さなかった。
「面倒な」女は舌打ちをした。
 何度吹き飛ばしても、触手はすぐに再生してしまう。数え切れぬほどの触手が、まる

32 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:10 ID:X8Cs0z6E
で意思を持っているかのように女に襲い掛かった。
 きりが無いと悟った女は、そのまま本体を叩き潰しに出た。
 再生する隙をつき、飛翔の呪文を唱える。そのまま大きく飛び上がり、怪物の胴体の
真ん中あたりに着地すると、そのまま腹部を吹き飛ばしたのである。
 体を真っ二つに吹き飛ばされたのでは、いかに魔力を与えられた生物であろうと効か
ないはずがなかった。
 腹部と切り離され支えを失った怪物の頭部は、鈍い音を立てて地面に横たわった。
 口腔から伸びる触手がしばらく痙攣していたが、やがてそれも止まった。
 光景にショックを受け、まともに動くことすら出来なかった少年と少女であったが、
もはやその生物が襲う力の無いことを悟ると、急いで馭者席のユリアの介抱に向かった。
「私は魔力を辿ってこれを操っていた者を倒す。ユリアを頼むぞ」
 女はそう言い残し、茂みの中へと消えていった。
 少年はユリアを抱きかかえ、馭者席から下ろした。上着を広げ、そこにユリアを横に
すると、上半身だけ抱きかかえ、揺さぶって呼びかけた。
「ユリア! しっかりして!」
 ユリアの瞼が開かれるまで、そう時間は要さなかった。
「気がついたんだね」
 少女はすぐに馬車の中に戻り、水筒を持ってきた。
「さあ、ユリア。とりあえずこれを」
 少女から水を受け取り、ゆっくりと飲み干した。
「申し訳ございません。迷惑をかけてしまって――」
「ううん、無事でよかったよ。あの気持ち悪いのに食べられてなくてよかった」
「そうですわ。私たちこそ、すぐに駆け寄れなくて」
「あの怪物はどうなったのでしょうか――」ユリアは恐る恐る尋ねた。
「大丈夫。シャーロットさまが退治なされましたわ」
「お館さまはあの怪物を操っていたやつを懲らしめに行ったよ」少年が付け加えた。
 ユリアはほっとため息をついた。
「あんなおぞましい怪物がこの世に居るなんて」肩を抱いて、身震いした。
「そうね。怯まずに戦うなんて、やっぱりシャーロットさまは凄いですわ」
 少女は女の武勇伝を語り、少年もそれを受けて身振り手振り真似をした。そして三人、

33 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:10 ID:X8Cs0z6E
くすくすと笑いあった。少年たちの後ろには怪物が倒れているというのに、もうそれは
恐ろしくないらしい。
 突然、少年の腕を何かが掴んだ。
「ん?」
 それはするすると腕に巻きつき、さらには体にも巻きついてきた。そのまま少年の体
は宙へと浮き上がった。
 少女とユリアが悲鳴をあげた。
 少年には何が起こっているのかわからなかった。地面と体が離れていく。そのまま体
は真っ暗闇の中へと放り投げられてしまっていた。
 少女たちは、目の前に再び現れた怪物以上に、少年が飲み込まれてしまったことに驚
いていた。次はどう考えても自分たちの番である。身を守らなくてはならない。
 ユリアの反応の方が早かった。咄嗟に馭者席から愛用の包丁を取り出し、少女の前に
かばうように立った。そして包丁を構え、膝を震わせながら言った。
「お、おお嬢さまは、わわ、私がお守りします!」侍女として、少女を守らなくてはな
らない。包丁をもって戦えば、自分の身も守ることができるはずだ。
 ハルナは分かっていた。ここで身を守るという事は戦うという事ではない。逃げると
いう事だ。「ユリア、変な気を起こしちゃだめよ! 一緒に逃げましょう!」
 ユリアは伸びてきた触手を切り払った。幸い触手は柔らかい。
「いいえ、お嬢さま。私が時間を稼いでいる間に、早くお逃げください!」
 ユリアは逃げようとはしなかった。だが声は震え、足もがくがくと揺れている。
 そんなユリアを放って逃げ出すことなど出来るはずがない。少女がユリアの手を取っ
て、一緒に走り出そうとしたその時だった。
 触手を払いきれなかったユリアが、怪物に捕まってしまったのである。
 ユリアの右手から包丁がこぼれ落ちた。みるみるうちに、体が触手に囚われていく。
 それは、今までに体験したことが無いほどの気持ち悪さだった。恐怖と吐き気が一気
に襲ってくる。小さな毛虫でさえ、ユリアにとっては嫌悪の対象だったが、この生物は
その比ではない。巨大な上に、得体の知れない触手が無数に生えている。自分がそんな
ものに弄繰り回されている。悪い夢だと思いたかった。
 触手はユリアを犯そうと動き回り、その上少女まで襲おうとしている。
 だが、ユリアは屈しなかった。自分が抗えば、その分少女の逃げる隙ができるはずだ。

34 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:10 ID:X8Cs0z6E
 少女を助ける、逃がす。それだけがユリアの意識を繋ぎとめた。
 尚も触手はユリアの腕や胸へと絡みつき、ぎりぎりと締め付ける。それが緩んだと思
えば体の上を這いずり回り、服の中へと進入してくる。湿って滑ついた触手が、ユリア
の肌を直に動き回った。その先端から染み出る液体が、ユリアの服を肌を濡らしていく。
 このような行動は全てこの虫自体に内蔵された本能であり、決して操っているわけで
はない。ただ、魔力を送り込まれているだけなのだ。本能であるがゆえに、触手は留ま
ることを知らない。
 ある触手はユリアの服を引き裂き、またある触手は口の中へと入り込もうとする。体
内に卵を産みつけようというのだろう。ユリアは羞恥心に苛まれながらも、それだけは
させまいと歯を食いしばり、股をきつく締め、必死に抗った。
「ユリア!」少女は包丁を拾い上げ、助け出さんと飛び掛かった。
 無数の触手が邪魔をする。ユリアを弄びながら少女までも餌食にしようとしている。
 少女はただ、それを振り払うことしか出来なかった。
 ユリアはその様子を見て必死に唸っていた。こんな状況におかれてすら、少女に逃げ
ろと必死に訴えている。
 それは少女に痛いほど伝わっていた。だからこそ自分だけ逃げることはできない。
 また一本、触手を切り払った。

 少年は少しの間だが気を失っていた。気がついたとき、目の前は真っ暗だった。何か
に圧迫されているのか、体が思うように動かせない。
 これはあの怪物の腹の中なのだと悟った。同時に少女たちが危ないのではないかとも
思った。しかし女はここにはいない。自分が助けなくてはならない。
 だが、どうやってここから抜け出せばいいのか分からなかった。
 生き物の腹の中にいるという事は、そのままドロドロに溶かされて、吸収されてしま
うという事だ。早く抜け出さなくては――。
 ふと、腰に何か熱いものが当たっていることに気がついた。確かめようと右手を腰に
回してみる。それくらいの動きが出来たのは幸いなことだった。
 腰にあったのは女からもらった例の短剣だ。それが今は何故か熱を帯びている。
 少年は短剣を引き抜き、そのまま腰の横へと突きたてた。
 ぐさり、と何かに刺さるのが感覚で分かった。

35 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:10 ID:X8Cs0z6E
 そのまま自分の体の上まで短剣でなぞっていった。
 大して力は必要なかった。この短剣の切れ味が恐ろしくいいのか、それとも怪物の体
が柔らかいのか、どちらかは不明だが、簡単に切り裂くことができたのである。
 自分の目の前まで短剣がやってきて異変に気づいた。鍔に填められた赤い宝石が静か
に光っている。熱の正体はこれだったのだ。
 少年は何故か心強く感じた。そのまま勢いに乗せて、短剣を突き上げたのである。

 女は茂みの中を走っていた。
 敵は、何度切っても再生できるほど、元の生物から数万倍もの大きさに変えるほど、
大量の魔力を与えているのである。遠ければ遠いほど、魔力を送り込むことは難しくな
ってくる。そんなに遠くに居るはずがなかった。
 一体何の目的で襲ってきたのだろう。狙いはハルナの殺害か? 何故、殺さねばなら
ないのか? この見合いは誰かにとって不都合なものなのか?
 あれこれと考えをめぐらせながら走っているうちに、魔力の元へとたどり着いた。
 女は敵と対峙した。

「ユリアから離れなさい!」
 少女は必死に包丁を振るった。しかし、どんなに頑張ってもユリアに巻きついている
触手には届かない。たとえ切り払ったとしてもしばらくすれば再生してしまう。包丁も
いつまで持つかわからない。せめてこれが剣であったならば――。
 少女に勝ち目なんてものは初めからなかった。自身、そんなことはわかっている。
これだけ奮戦できているのは、父親譲りのセンスの賜物なのだ。
 目の前にくる触手は切り払えたが、それも長くは続かなかった。少女の腕が二本であ
るのに対し、触手の数は無数である。少しずつ、追い詰められていく。
 切り損ねた触手が、少女の右手を奪った。左手で解こうとしたが、堅くてどうにもな
らない。目の前には別の触手が迫ってくる。
 強く目を瞑り、胸元に据えた黒い宝石を握り締めた。――どうか、お守りください。
「二人を離せ!」
 それは少年の声だった。
 ほぼ同時である。突然、右手を締め付ける力が弱まったのだ。

36 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:11 ID:X8Cs0z6E
 少女は一気に振りほどいた。
 そして飛び退きざまに声の方へと目を遣ると、怪物の上で少年が短剣を突き刺していた。
 怪物は鈍い唸り声を上げ力を緩めたが、ユリアを離すことはなかった。
 少年はそこから飛び降りると、怪物と対峙した。
 少年も少女も自分に襲いくる触手を薙ぎ払った。
 抗う腕は四本になった。数は少なかろうとも倍は倍である。心強さも倍になった。
 左手に持った短剣は、相変わらず切れ味がよい。空を切るかのように触手を切断できる。
 勢いに任せ、切って切って切りまくった。もともと受け流す稽古ばかりしていた少年
である。鈍い触手の動きを目で捉えてから切り払うことなど、造作も無いことだった。
 不思議なことに、触手の再生が追いついていない。ついには少女を襲うことをやめ、
動かせる全ての触手を少年へと向けてきた。
 十数本の触手が少年に向かって飛んでくる。
「ルイくん! 危ない!」少女が叫んだ。
 同時に少年が踏み込んだ。怪物との間合いを一気に詰め、触手を根元から断ちにかか
ったのだ。捕らえ損ねて地面にぶつかった触手は、すぐに方向を変え少年の姿を追った。
 少年は襲い来る触手を断ち、さらに勢いづいて目の前の無数の触手を刈りあげた。
 半分以上もの触手を根元から切り落とされた怪物は、たまらず体を仰け反らせる。同
時にユリアの体が大きく宙へと舞い上がった。
 少年は怪物の口に飛び乗り、ユリアに絡みついた触手の根元を切り落とした。
 自由になったユリアの体が落ちる。少年がそれをしっかりと抱きとめて地面に着地した。
 ユリアを少し離れた所で寝かせてやると、再び怪物の方へと向きなおした。
 あの怪物がこの程度で死ぬはずがない。とどめを刺さなくては!
 その怪物が突然、低く、それでいて鈍い雄叫びを上げた。腹の底に響くような、内臓
を舐め回すような、不快感に満ちた音だった。
 しかも、少年が飲み込まれた口の上、人でいうなれば額というべき部分が光っている。
 よく目を凝らすと、なにか白く、靄のようなものがその光に集まっていた。その白い
靄は線となって茂みの中へと続いている。
 すると、怪物の形状が変化し始めた。口は小さくなり、円柱状だった躯は円錐状へと
変化した。気味の悪い音をたて、無数にあった触手の根元から、四本の新たな触手が生え始めた。
 その触手は、さっきまでのものとは全く異なる形状をしている。

37 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:11 ID:X8Cs0z6E
 それは触手と呼べるようなものではなかった。言うなれば鎌だろう。無機質に光るそ
れは、みるみるうちに大きくなった。いつの間にか白い靄は消え、光だけが残っていた。
 少年は直感する。――あれが弱点だ。
 
 敵の男は、低めの背に丸い体付きをしていた。それをさらに丸く見せるほどに上着を
着込んでおり、穿いているものは大きすぎて体型にあっていない。いや、長さはぴった
りなのだから、わざとそうしているのかもしれなかった。右手に持った大きな杖から魔
力が溢れ出ている。それを媒体に、虫へと魔力を放出しているのだろう。
「これはこれは。まさか蝙蝠の魔女のお出ましとは」男が驚いたように言った。
「私が護衛していると分かっての所業か?」女が不機嫌そうに言う。「雇い主は誰だ?」
「私たちの意志です。もはや我々は飼われてなどいないのですよ」
「ああ、そうかい」女は興味なさそうに言って、詠唱を始めた。
「私を殺さないほうがいいと思いますよ。すんなり殺されてやろうとは思っていませんし」
 女の足が止まる。「何が言いたい?」
「あなたは私の送った骨喰らいを完全に殺していない。杖がまだ反応している。――な
るほど、あなたの使い魔が抑えているようですね」
「使い魔? お前たちと一緒にしてくれるな。私たちは何も使役しない」
 男は楽しそうに笑うと、杖をかざした。
 杖からより濃い魔力があふれ出し、茂みの外へと流れていった。
「これで、お連れさんも終わりでしょう。さっきの倍は魔力を送り込んでおきました」
「すぐにお前を殺せばいいだけの話だ。私にそれが出来ないとでも?」
 脅しをかけたつもりだったが、虫使いは嘲るように言い返してきた。
「私を殺したところで、しばらくは動き続けますよ」
「そんなブラフに騙されるとでも思っているのか?」
「やれやれ」男は肩を竦めた。
 殺すべきか、引き返すべきか、女は考えた。男の余裕が気にかかる。
 虫使いを殺すことと、ハルナを確実に守ることを秤にかけてみる。
 当然、重いのは後者だった。
 女は折れることにした。

38 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:11 ID:X8Cs0z6E
 怪物の変化が止まると、光も少しずつ弱くなって、ついには消えてしまった。
 少年は少女にユリアを託すと、怪物めがけて突っ込んで行った。
 形状が変わろうが関係ない。むしろ四本に減ってよかったとさえ思った。
 狙うは額の光っていた部分だ。きっと他を切ったところで再生してしまうだろう。
 だが、そこを一突きすれば怪物を倒せるかもしれない。
 踏み込んだ少年に対して容赦なく鎌のような触手が振り下ろされた。
 ほぼ同時に右から、左からと少年を狙ってくる。
 飛び退き、受け止め、受け流す。それでも雨のように斬撃は降り注いだ。
 右からの斬撃が腕を掠める。そこは切り傷となって血が滲み出た。
 確実に速くなっている。数は減っているのに、少年を狙う手数は増えているような気
さえした。しかし、ついていけないわけではないのだ。
(必ず隙を見つけて、額を突いてやる!)
 左からの斬撃を短剣で受け止め、そのまま飛び込んで根元に短剣を叩き込んだ。
 激しい金属音と手に伝わる衝撃。振りきって叩き落そうと試みる。
「ルイくん! 後ろ!」少女が叫んだ。
 はっとして振り返るや否や、目の前に刃が飛び込んできた。触手を断ち切ることは断
念し、短剣を抜き咄嗟に受け止める。そのまま飛び退いた。着地ざまの足を狙い、容赦
なく斬りつける刃が二本ある。無理矢理真上に飛び、やり過ごそうとした。しかし、無
理な体勢だったことが祟ってしまい、バランスを崩して転倒してしまった。
 怪物がその隙を見逃すはずがなかった。
 真上から四本の刃が降り注ぐ。体を右に転がして避けるも、左手までは避けきれず刃
の餌食となってしまった。深く切り込まれてはいなかったことは幸いだった。
 左手はまだ使える。まだ短剣を握っていられる。
 しかし、ぱっくりと開いた斬り傷からは、どくどくと血が流れ出していた。短剣を握
る手にまで血は流れ、その刀身を、赤い宝石を、少年の血が濡らしている。
 ハルナとユリアは、その傷を見て顔を青くしていた。このままでは、少年が死んでし
まうのではないか、そんな悪い予感がする。もうやめて、と叫びたかった。
 しかし、少年はまだ戦う意志を捨ててはいない。一心不乱だった。あの弱点さえ、あ
の弱点さえ突くことが出来れば。

39 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:11 ID:X8Cs0z6E
 傷のことも省みず、また同じように踏み込んだ。そのまま向かって右の触手の根元に
切りかかる。血のこぼれている左手に右手を沿え、一気に切り落とした。
 一本切り落としてからの決着は早かった。四本あってこそ、怪物は少年と対等、ある
いはそれ以上に渡り合っていたのである。一本の差は大きかった。
 少年は降りかかる三本の刃を難なく避けると、その刃の根元を踏み台にして、飛んだ。
 そのまま怪物の頭に手をかけ、勢いに任せて飛び乗ることに成功したのである。
 ここだ。光っていた部分はここだ!
 ぽたり、と振り上げた短剣から血が滴った。
 少年は残っているだけの力を込めて、短剣を振り下ろした。

 女が虫使いに背を向け、走り出そうとした時だった。
 ぱりんという音とともに、杖の先のが砕け散ったのだ。
 それが意味するものは一目瞭然である。怪物は死んだ。
 今度は女が不敵な笑みを浮かべる番だった。対して虫使いの表情はみるみる曇っていく。
 女は嘲るような笑みを浮かべながら、詠唱を始めた。呪文が完成する前から、体の回
りにはドス黒い魔力の靄が溢れ始めている。
 死を予感し、虫使いは後ずさった。
 女は眉一つ動かさない。そして詠唱が完成する。
 女の表情はさぞ恐ろしく見えたことだろう。
 悲鳴をあげる間もなく、虫使いは絶命した。

 鈍い呻き声を上げ、少年を乗せたまま怪物は倒れた。動く気配は無い。
 少年は短剣を突き刺したまま、荒げた呼吸を整えた。
 少しずつ、怪物の体は崩れ、消えていく。
 ゆっくりと短剣を引き抜くと、そのまま少女たちの元へと駆け寄った。
「ハルナ、ユリア! 大丈夫だった? 怪我はなかった?」
 少女たちは二人して少年に抱きついた。二人とも、しくしくと泣いているようだ。
「どうしたの? 怪我したの?」
 少女が咽ながら言葉を返した。「ううん。大丈夫です。ルイくんが守ってくれました
もの。でも――」

40 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:12 ID:X8Cs0z6E
 ユリアが続けた。「私のせいです。私が変な気を起こしたせいです。そのせいでルイ
さまはこんなに酷い傷を負ってしまって」
 二人とも顔を両手で覆って本格的に泣き出してしまった。
 知らなかったふりをするため、少年はわざと不思議そうな顔をして左腕を見た。真ん
中辺りがぱっくりと切られ、血が流れている。右腕にも同じように傷があった。
 あまり痛みはない。ただ、溢れ出る血のせいで、酷い傷のように思えるだけだ。こん
な傷のために少女たちが泣く必要なんてないのだ。
「泣かないで。全然気づかなかったよ。たいしたことないって、こんな傷」
 少しの間、ごめんなさいと繰り返して泣いていた少女たちだったが、何かを思い立っ
たのか、ふとハルナが顔を上げた。
 そして左腕の傷口をぺろりと舐めたのである。
 痛みは無く、ただ、くすぐったかった。
「一体何を?」驚いて左手を引っ込めようとしたが、少女はしっかりと掴んで離さない。
 傷口の血を綺麗に舐め取ると、自分の服の袖を千切って傷口をきつく縛った。
「お父さまは仰っていました。戦場では傷は舐めて直すものだって」
 するとユリアも同じように顔を上げて、右腕の傷をぺろりと舐めた。
「ユリアまで!」両手を引っ込めようとしたが、やはりどちらも離してはくれない。
「いいえ、そんなことはありません。私を助けてくれた、素敵な腕ですもの」
 処置が終わると、二人は両手を離した。
「あ、ありがとう」少年は素直に感謝した。
 そのとき、茂みの奥のほうで大きな爆発音がした。
「ひぁっ!」ユリアが頓狂な声をあげる。怪物に襲われたせいで敏感になっているのだ。
 ユリアが少年に抱きついた。腕に、柔らかなぬくもりが広がった。
「大丈夫だよ。あれはお館さまの魔法じゃないかな。きっと敵を懲らしめたんだよ」
 そういってユリアの肩に両手を置き、距離を取った。慰めるときは、顔を見つめて微
笑んでやればいい。目元に浮かんだ雫を拭ってやった。
 だが、少年は重大なことに気づいた。いや、気づいてしまった。
「ユ、ユリア――」
 少年はそう言うと頬と真っ赤に染めて俯いた。しかし俯くと余計に目に飛び込んでくる。
 今度は飛び退いて後ろを向いた。

41 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:12 ID:X8Cs0z6E
 はっとしてユリアは下を向いた。服が裂け、胸からへそにかけて肌が露わになっている。
 ユリアは顔を真っ赤に染め上げ、腕で体を庇った。底知れぬ恥ずかしさがこみ上げて
くる。自分の体を男の子に見られてしまった。
「ごめんなさい。こんな見苦しいものを。でも、私、わたし、もうお嫁に――」
「ルイ! ハルナ! ユリア!」ユリアの言葉を遮って、茂みの中から女が飛び出して
きた。「三人とも、怪我は無かったか」
 少年とユリアが何も言わないので、少女が答えた。
「ええ、私たちは大丈夫ですわ。――でも、ルイくんが」
 女は少年の方へと目を遣った。両腕には血の滲んだ布が巻かれている。
 表情が一変した。そのまま少年の下へと駆け寄り、抱きしめる。
「ごめんよ。私のせいでこんな目に遭わせてしまって」
 声は震えていた。何の考えも無しに深追いしてしまったことや、虫に対する自分の知識
の無さを後悔した。悔やんでも悔やみきれない。虫使いの相手などするべきではなかった。
もし少年が取り返しのつかないことになってしまっていたら、などと考えると、きつく
抱きしめずにはいられなかった。
 そんな女に対して、少年は優しく言葉をかけた。
「大げさだなあ、お館さまは。大丈夫だよ。ほら、ハルナたちが手当てだってしてくれ
たし、たいしたことないよ」
「ごめんよ。ごめんよ。私の可愛いルイ――」女は涙を流していた。
 どうして泣いているのか、少年には分からなかった。それに、女が泣いたところを見
たのはこれが初めてのことである。余計に混乱してしまった。
 少年はとりあえず、話をそらすことにした。
「ハルナ、ユリアにぼくの上着を着せてあげてよ。きっと寒いと思うんだ」
 ユリアをなだめるときと同じようにして、女の涙を拭ってやった。
「ごめんよ。私が」
 女が何か言おうとしている上から少年が言った。
「それより、ぼく、水浴びがしたいな。なんだか疲れちゃったし、汗でびしょびしょだし」
「――そうか、そうだな。ちょっと待っていなさい」
 女は少年から離れ、怪物のいたところに魔法で大穴を開けて、詠唱を始めた。
 女が腕を振り下ろす。

42 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:13 ID:X8Cs0z6E
 すると、大穴の中に水が湧き出した。こぽこぽと湧き出続け、ついには大穴いっぱい
にまで溜まって止まった。
「ここで水浴びが出来るんですね!」少年は少し興奮気味に言った。
「いや、ちょっと違う。ルイよ、馬車の中から私の鞄を取ってきてくれ」
 少年は言われたとおりに鞄を取ってくると、女に渡した。
 女は青く透き通る石のようなものを取り出し、大穴の中に投げ込んでは呪文を唱えた。
 すると、無数の小さな水泡が湧き出し、しゅわしゅわと音を立てたあと、湯気が昇り
始めた。水は湯へと変わり、そしてその色も真っ白に変わってしまった。
「お館さま?」少年が不思議そうに言った。
「傷も負っていることだし、薬湯にしたよ。服を脱いで浸かりなさい。ハルナたちもな」
 少年は早速服を脱いで湯の中に飛び込んだ。はじけるような水の音と、少年の笑い声
が響く。少女二人は顔を真っ赤にして、少年から目を逸らしていた。
「こらこら、あまりはしゃぐんじゃない。傷に障るだろう」
 少年を咎めながら、女も服を脱ぎ、そっと湯に浸かろうとする。
「わわっ」女を見ないように、少年は慌てて後ろを向いた。
 女がすかさず少年に抱きつく。捕まってしまっては、少年に抗うすべは無い。
くすぐられたり、息を吹きかけられたり、抱きしめられたりと、やられ放題である。
「はしゃぐんじゃないって、さっき言ってたのに!」少年の悲鳴は湯の音にかき消された。
 二人はしばらく、ばしゃばしゃと音を立てながらじゃれあって(?)いたが、少女た
ちはいつまでたっても湯に浸かろうとしなかった。
 気づいた女は、少女たちに向かって誘いの言葉を投げかけた。
「どうした? お前たちも浸かりなさい」
 しかし少女もユリアも体をもじもじと動かすだけで、その場から動こうとはしなかった。
「ルイ、どうやら嫌われてしまったようだな。彼女たちはお前と同じ湯には浸かりたく
ないらしい。ほらみろ、お前のことを見ようともしない」女は不気味に笑う。
「そんなぁ――」少年はぶくぶくと湯船に沈んだ。
「ち、違います! ルイくんのことを嫌いになんてなっていませんわ! むしろお慕い
申し――」少女は言いかけて口をつぐんだ。それから首を左右にふるふると振った。
 女のにやけ顔がより一層いやらしくなったのは言うまでもない。
「お母さまが仰っていましたわ。淑女たるもの、夫以外の殿方に裸を見せてはならない

43 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:13 ID:X8Cs0z6E
と。そうです、お父さまだって例外ではありません」
「ほう。そうなると私は淑女ではないということになる」女はわざとらしくうなだれて
みせた。「ああ、私は淑女では無いのか。淑女ではないのなら、私は一体何なのだ――」
 魔女である。
「――私、入ります!」
 女の言葉を受けて、奮い立ったのは少女ではなく、ユリアだった。
「私、既に先ほど見られてしまっているんです! ですから、ルイさまにはこれから何
度見られてしまおうと、関係ありません」
 服を脱ぎだすユリアに対し、少女が大慌てで止めに入った。
「ま、待ちなさい! ユリア」
 しかしユリアの決意は固い。聞く耳持つことなく、大丈夫です、と少女をなだめた。
 髪の毛は頭の上に結いなおし、少年の上着を綺麗にたたんで芝の上に置くと、破かれ
た服を脱ぎ捨て、ゆっくりと湯船に足を近づけた。
「うわあ。あったかい」とユリアは上ずった声を出した。
 それは少女の心をくすぐった。ついついユリアの姿を目で追ってしまう。
 あの真っ白な湯に、立ち込める湯気。入りたい。湯船に使って温まりたい。しかし淑
女であるという立場は譲れない。そもそも、これからお見合いに行くというのに、夫で
もない少年に裸を見せるなんて、あってはならないことだ。
 ここは我慢しなくてはならない。淑女として。
 さまざまな思いが少女の中を駆け巡った。
「ルイ、いつまで沈んでいる!」女が少年を引っ張り上げた。
 近づいたユリアと、無理矢理引き上げられた少年の目線がぴたりとあった。
 二人とも顔を紅潮させ、しばらく見つめあったあと、互いに顔を少し下に傾けた。
 少年の視線の先には、湯気からほのかに覗くユリアの鎖骨がある。襟元の後れ毛がし
っとりと濡れていて気にかかった。
「ゆ、ユリア、本当に怪我は無かったの?」
 少年の言葉に、ユリアはあの悪夢を思い出す。
 自分が出しゃばって、それで捕まってしまって、そのせいで少女までが危ない目に遭
いそうになって――それから少年が助けに現れた。自分も負けるものかと抗った。けれ
ども長くは続かなくて、もうだめだ、そう思ったとき、急に締め付けるものが無くなっ

44 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:14 ID:X8Cs0z6E
て、次に優しく抱きしめたのが、少年の腕だった。
 ほっと頬に火がついた。湯の温度と相まって上せそうになる。
「何ともありません。ほら、締め付けられていた腕もこの通り、痣一つ付いていないで
しょう。ルイさまが素早く助けてくださったお陰です」ユリアがはにかむように微笑んだ。
 少年も同じように頬を赤らめて、だらしのない笑い声を上げた。
 一方、少女は胸をやきもきさせてその様子を眺めていた。
 自分だけが蚊帳の外だ。淑女ゆえに、そんな枷がもどかしくて仕方が無い。
「ハルナ、こっちにおいで」女が少女を手招きした。
 近づいてきた少女に、女は魔法をかけた。
 ぽんと音を立て、少女の姿が煙の中に消える。中から現れたのは三毛猫だった。
「猫は水が嫌いらしいが――」と言って女は猫を抱いた。
「まあ、お嬢さま。猫になってしまわれたのね。可愛らしい」とユリアが呑気に言った。
「にゃ〜ん」と少女が言い返した。
 女が三毛猫になった少女を湯につけてやると、彼女は気持ちよさそうな顔をした。
「なんだか、とっても気持ちよさそうですね」とユリアが言った。
「当たり前だ。私特製の薬湯なのだからな。効能はすごいぞ。肌はつやつや、肩はふわ
ふわ、疲れなんて吹き飛んでしまう。さすがに、傷が塞がったりはしないがね」
 そう言って、女は少年を呼んだ。
 少年は三毛猫になった少女を見るや、気まずそうな顔をして口を開いた。
「――ハルナはぼくのこと嫌いなの?」
 悲しそうな声の響きが、少女にずっしりとのしかかった。
 にゃあと鳴いて必死に弁明するが少年は首を傾げている。
 口では伝わらないと悟った少女は、少年に抱きついて顔をぺろりと舐めた。
「よしよし」と言って、少年は頭を撫でてやった。誤解は解かれたのである。
 女は顔をにやつかせている。
「ルイよ。怪我をした腕を見せてみなさい。薬を塗る必要があるかもしれないからね」
 ご機嫌顔の少年は言われるがままに腕を上げ、巻かれていた両腕の布を解いた。
「あれ?」少年が裏返った。
 解いてみて驚いたのは少年だけではない。少女たちも同様に驚いていた。
「お館さま! 傷が無くなってます!」少年が立ち上がった。

45 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:14 ID:X8Cs0z6E
「まさか、私の薬湯にここまでの効能があったとは」女は不思議そうに言った。
 少年たちは女の薬湯に感心した後、しばらく湯の温度を楽しんでいた。

 掘った穴や、溜めた湯は全て魔法で元に戻し、少年たちが馬車に戻ったのはそれから
一時間ほど経ってからだった。誰もが肌をつやつやさせ、機嫌よく馬車に乗り込んだ。
少女は女に魔法を解いてもらうと、猫がいかに大変であるかを語った。
 心身ともに元気いっぱいになった少年たちの話題といえば、もちろん襲ってきた怪物
についてである。特に少年たちは、怪物を操っていた者に興味を持った。
「あれは虫使いだよ」女は吐き捨てるように言った。「ルーディアの半端者だ」
「そんなに気に食わない連中なんですか?」少年が言った。
「奴らはルーディアに飼われているのだ。本物の魔法使いというものはな、金で身を売
り渡したりはしないものだよ。自分の力を本当に必要としている者の手伝いをしたり、
後は自分自身の楽しみのために魔法を使ったりする。だから、仕事として魔法を使うに
しても、やるかやらないかの判断材料は金ではない。自分が満足するかどうかさ。まと
もな魔法使いならば、ルーディアなんて国に仕えようなんて考えないな。潰そうとは考
えてもね」
「へえ」分かっているのか分かっていないのか、少年が相槌を打つ。
「ルーディアって国は、ミレイとは正反対だよ。ミレイは三度の飯より酒を好み、戦よ
りも祭りを好むような連中ばかりの国だが、ルーディアは三度の飯よりも血を好み、祭
りよりも戦を好む連中の塊だ」女の顔が険しくなる。
「それにしても、なんでぼくたちはルーディアの虫使いに襲われたのかなあ」
 馭者席のユリアが興奮気味に顔を出した。
「お嬢さまを連れ去るために決まっています。触手は私を締め上げながら、お嬢さまの
方ばかり目指していましたもの! ああ、おぞましい!」
「それは私も気になっているところだ。ハルナを連れ去ろうと考えていたのだとしても、
ハルナがルーディアへ出向くことは決まっているのだし、ご親切に、わざわざこんなと
ころまで出迎えてくれなくてもな。――いや、ルーディアのイディオット王子はハルナ
に早く会いたくて仕方ないのかもしれん」
「もう、シャーロットさまったら! そんな淑女の扱いも知らないような方なのでした
ら、私からお断りいたしますわ!」

46 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:14 ID:X8Cs0z6E
 少女が頬をぷくぷくさせて憤ると、少年たちは吹き出した。
 そうして馬車は、夕日の沈みかけた頃にノドルカの門をくぐった。
 初めて外の町に足を踏み入れた少年は、居ても立っても居られない。
「お、お館さま、見てください! お家があんなにたくさんありますよ! ほら、ハルナ!」
 見るもの全てに過剰に反応する少年に対し、女は呆れ半分で受け答え、ユリアに道を
指示していた。
 この町はとりわけ都会であるというわけではないのだが、海が近く、その上重要な運
河が通っているということもあるので、たくさんの人が集まってくる。しかし、町の中
心から外れてしまえば、ただの長閑な町並みが広がっているだけだった。
 町の中を進み、宿の前で馬車は止まった。
 そこは石造りで、窓が縦に四つほど並んでいる。横にも大きく広がって、ちゃんと厩
舎まで備え付けてあった。
「随分と立派になったものだな、この宿は」
 女は馬車の中に少年たちを残し、宿の中へと入っていた。
 入るとすぐに小間使いが現れた。自分の名前を告げ、支配人に取り次ぐように言うと、
宮廷さながらの洗練された動きで、女を支配人の元へと案内した。
 支配人は既に応接間と表札のかかった部屋の前で待ち構えていた。どういう仕組みか、
情報の方が先回りしているらしい。
 どの従業員よりも立派な衣装を着た支配人は、女に愛想よく話しかけ、小間使いを持
ち場へと戻らせた。
「これはこれは。シャーロット様ではありませんか。よくぞおいでくださいました。ささ、
こちらへ」支配人は恭しく言った。
 二人は応接間に入った。ばたん、と扉が閉められる。
 一瞬の静寂が部屋の中を包み、噛み殺したような笑い声が溢れ始めた。だんだんと声
が大きくなり、しまいには笑い転げ、涙を浮かべながら体をじたばたと動かしていた。
「お前って奴は。何がシャーロット様ではありませんか、だ。あのお嬢ちゃんの前で吹
き出しそうになったぞ!」女が腹を抱えて言った。
「いや、悪い悪い。俺もなぁ。商売上、目の前で馴れ馴れしくするわけにもいかなくっ
てね。言ってる俺も気味が悪かったぜ」支配人が息苦しそうに言った。
 ようやく落ち着いてきたらしい。お互い気さくに言葉を交わした。

47 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:14 ID:X8Cs0z6E
「それにしても、立派な宿になったもんだ。私が居た頃はもっと貧相な宿だったってい
うのに」女は遠い目をした。
「ああ、昔から猫かぶるのだけは得意だったからな。親父が引退して、鍛冶に専念する
ようになってかだよ。ここ三年でここまで成長したんだからな!」 
「猫かぶりのコニーはまだまだ健在か」女が懐かしそうに言う。
「コニーって言うな! そういう、なまいきロッテも健在のようじゃないか」
 二人は再び大爆笑した。
「お茶をお持ちいたしました」
 突然ドアが開き、先程と同じ小間使いが現れた。余りに熱中してしまったので、ノッ
クの音に気が付かなかったのだ。
 二人はこほん、と咳払いをして、真面目な顔を取り繕った。
 怪訝な顔をした小間使いが出て行くのを確認してから、女は図々しくも無償で部屋を
提供するよう求めた。
「何とかしてやりてえのも山々なんだけどよ、今日は無理なんだ。謝竜祭の初日だから
なあ、どの部屋もお偉いさんで一杯なんだよ。まあ、厩舎は辛うじて貸してやれるけど
な。部屋ばっかりはいくら金を積まれたって無理ってもんだ。すまねえな」
「謝竜祭と言ったか?」
「ああ。狙って帰ってきたんじゃないのかよ?」
「まさか! 喜ぶべきか、嘆くべきか」女はやれやれと肩をすくめた。
 謝竜祭ならば仕方が無いと思ったが、町に来てまで野宿をするというのは避けたかっ
た。とりあえず、支配人にここまで来た経緯と事情を説明し、助言を求めることにした。
「ドルシラおばさんの家が丁度いいじゃないか。あの人、子ども大好きだし」
 その名を聞くや、女は苦々しげに顔を歪めた。構わず支配人は続ける。
「大体、何で始めにそこへ寄らなかったんだ。――お前の育ての親だろうが」
「だからこそだめなのだ!」女は鼻息を荒げて立ち上がった。
「どうであれ、子どもを三人も連れておいて、野宿なんてするわけにはいかねぇよなあ?」
「それを言われると弱い。だが! それだけは避けたいのだ」
「なんでよ?」支配人は面白そうに言った。
「何故って、それは決まっているだろう。その――」女は口ごもった
「ま、諦めることだな。馬車は預かっといてやるから、観念してドルシラおばさんの世

48 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:14 ID:X8Cs0z6E
話になっておけ。――まさか、蝙蝠の魔女ともあろうお方が、ママが怖いからといって
何の関係も無い純粋無垢な少年少女たちを野宿させたりはしねぇだろ?」
 支配人は小馬鹿にしたような顔で女を見た。
「わかった、わかった! 私の負けだ」
 こうして女たち四人は、町はずれのドルシラ宅に世話になることになった。
 支配人の憎たらしい笑顔を背中越しに感じながら、女は宿を出た。
 馬車を厩舎に預けた少年たちが宿の前で待っていたので、彼らに寝場所へ案内するか
らと、事情を詳しくは述べずに連れ出した。
 中心部から少し離れたところに、ドルシラ宅はあった。
 女がドルシラ宅の扉を叩くと、しばらくして本人が現れた。
 少年は反射的に女の陰に隠れ、スカートを強く握った。
 ドルシラは女以上に年齢不詳だった。おばさんと呼ぶには若すぎるが、お姉さんと呼
ぶ年には見えない。細身というよりは締まった体つきをしていて、へそを出している服
装に全く違和感が無かった。
 ドルシラは女の姿を見るや、表情を明るく変えて手厚く歓迎してくれた。
「あらまあ! ロッテじゃないの。帰ってくるなら手紙でもよこしてくれればよかった
のに。何年ぶりかしら。たいして大人びた様子もないし、相変わらずだねえ」さらに三
人の子どもたちを見て、頬を上気させた。「あんた、いつの間に三人も子どもをこしら
えたのさ。相手は誰だい? 何も言ってこないなんて、あんたも親不孝者だよ」
 女は慌てふためいてドルシラの言葉を否定し、少年たちの紹介を始めた。
「――いろいろと大変なようだねえ。さあお上がり」
 居間へと案内され、四人は適当にくつろいだ。
「あまり贅沢なものは無いけれど、我慢しておくれよ」
 ドルシラはテーブルに紅茶とケーキを出した。
 少女は安楽椅子に腰掛け、ユリアが側に控えた。女はドルシラと言葉を交わすべく、
隣の席に着いた。
 少年は、女のスカートを握り締めたまま、肩を強張らせている。
 ドルシラの姿を垣間見、目線が合うと顔を引っ込める。その際、ドルシラはにっこり
と微笑んでいるのだが、尚の事、小恥ずかしくなってしまい隠れてしまう。
「坊や、こっちへおいで」ドルシラが言った。

49 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:16 ID:X8Cs0z6E
 隠れてしまった少年を見、ドルシラは前掛けのポケットの中から一つの布を取り出した。
「竜に興味はあるかな?」
 竜という言葉に釣られて、少年はちょっとだけ顔を覗かせる。
 ドルシラは布を一度、少年に広げて見せてから折り始めた。慣れた手つきで布の形を
変えていく。それは三角になったり、四角になったり、様々に形を変えていく。
 ドルシラの狙い通り、少年は食い入るように布を見つめていた。
「ほら、できた。――竜に見えないかい?」
 掲げて見せた布は、見事に竜へと変貌していた。首、翼、手足に尻尾、そのシルエッ
トを見事に模っている。
 少年は肯定の意を、首を縦に振って示した。
「こっちへおいで。作り方を教えてあげるよ」ドルシラが手招きする。
 女のスカートから手を離し、少年は勇気を振り絞ってドルシラの側に寄った。
 ドルシラは少年の頭を撫で、優しく語りかけた。「いい子だね。先に紅茶とケーキを
召し上がれ。折り方は後で教えてあげるからね」
 少年は、どうして隠れてしまっていたのか分からなくなった。
 目の前の人はとても優しい人で、お館さまのようによくしてくれる。怖がったり、警
戒したり、隠れたりする必要なんてこれっぽっちもないじゃないか。
 ドルシラと女は、昔話に花を咲かせていた。自然と少女たちも話に割って入る。
 少年たちは、ドルシラが女の育ての親であると聞き驚いていた。
「ハルナちゃん。ハンスは元気かい?」ドルシラが言った。
「いつもお母さまの尻に敷かれていますけれど」
 ユリアは口元を隠して静かに笑い、ドルシラは大きく笑った。
「変わってないねえ。ノドルカの生んだ問題児の一人を娶ったんだ、そりゃあ仕方ない
ってもんだよ」
「問題児、ですって?」
「ああ、そうだよ。ここにいるロッテを始めとする――」
「や、やめい!」
 女は慌ててドルシラの口を塞ぎにかかったが、難なくかわされてしまった。
「ロッテ。お前が望まなくったって、もっと恥ずかしい話をしてやってもいいんだよ?」
 女は一瞬たじろぎ、これだからここには来たくなかったのだ、といった表情を顔に浮

50 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:17 ID:X8Cs0z6E
かべ、きまり悪そうに椅子に掛けなおした。
「よろしい。――それでね、なまいきロッテ、猫かぶりのコニー、そして、おしゃまのメルシー、」
「メルシー!」ハルナが立ち上がった。
「もしかして、本名はメルセデスではありませんか?」
「そうだよ。メルシーは昔っから気の強い女でねえ。ハンスのやつ、さぞや苦労してい
ることだろうね」
 ユリアは必死に笑いを噛み殺し、ハルナは腕を組んで首を縦に振った。
「こいつらの手口ったら悪辣でねえ。まず、ロッテが思いつきで悪戯をする。次にメル
シーが話をややこしくして、最後にコニーがうやむやにしてしまうんだ」
 女は顔を赤くして、じっと耐えている。
 ドルシラは三人の華々しい(?)伝説をいくつか語った。
「ところで、ハンスについて聞きたいことはあるかい?」
 話題が自分から離れたことを心底嬉しく思った女であった。
「お父さまはこの町の出身ではないはずなのですけど、どうしてお母さまと?」
「ああ、そんなことかい。ハンスはね、親の都合でしばらくこの町に滞在していたんだ
よ。ほら、ここは沢山の船が集まってくるだろう? だからミレイの要人たちがしばし
ばやってくるんだ」
「なるほど。そこでお母さまと出会われたわけですのね」
「最悪な出会い方だったと思うんだけど、人生ってやつは何が起こるかわからないねえ」
「最悪?」ハルナは興味深そうに尋ねた。その出会いが、今の父と母の関係に繋がってい
るのだとしたら、聞いておかねば損というものだ。
「ロッテたちがハンスの家に悪戯をしたことが出会いのきっかけだったんだよ。ハンスっ
たら、そのころは絵に描いたようなお坊ちゃんでねえ。格好の標的だったみたいだよ。
メルシーは出会い頭に平手を一発くれてやったと豪語していたものだから、二人が結ば
れたってことを考えれば考えるほど嘘のように思えてくるよ」
「今も昔も変わらず、頭が上がらなかったわけですのね。我が父ながら――」
 少女は肩を竦め、呆れた表情のまま言葉を飲み込んだ。
「一体何が、二人の愛情を育んだのだろうね」ドルシラは不思議そうに笑った。
「いろいろとあったのだ。――私が一つ、ハンスについて話してやろう」と女は言った。
「あいつは私のことを男だと信じていたのだ。髪の毛だって、ずっと伸ばしていたのに、

51 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:17 ID:X8Cs0z6E
私の胸が膨らんでくるまで気付かなかったというのだから、奴の鈍感さにはほとほと呆
れるよ。私が水浴びしているとき、事実を知ったハンスの顔といったら忘れられん。未
だにチャーリーと私を呼ぶのは、私のことを勘違いしていた名残だな」
「あんたの豪快さと生意気さは、女の子のそれとは思えないほどだったからねえ」
「余計なことは言わなくてよい!」女の顔が真っ赤になった。
 溜まらず吹き出した少年は、女に恐ろしい流し目で睨まれ、慌てて肩を引っ込めた。
「そういえば、ドルシラさまにはロッテと呼ばれていらっしゃいますわね」
「皆ロッテとか、ロッティとか呼ぶよ。チャーリーと呼ぶのはハンスだけだな」
 かいなしハンスの話は多いに盛り上がった。
 その甲斐なしが、今や剣の達人なのだから、人生何が起こるかわからない。人が大き
く変わったとき、そこにはそれ相応の出来事が存在するものだよ。とは女の談である。
「そんな甲斐なしが逞しくなったのは、あの時がきっかけだったな」
 女は遠い眼をした。ゆっくりと過去を掘り返すように口を開きかける。
「はいはい。辛気臭い話はやだよ。そろそろ夕食にしようじゃないか」ドルシラが遮った。
 待っていましたとばかりに、ユリアが立ち上がる。「それなら私もお手伝いします」
「いいのかい? 休んでいてくれて構わないんだよ。長旅で疲れているだろうからね」
「いえ!」ユリアは、胸の前で強く手を握った。「ドルシラさまばかりにお手を煩わせ
るわけには参りません。侍従として、いえ、一人の女として! お嬢さまに美味しい夕
餉をご馳走しなくてはならないのです!」
 目をきらきらと輝かせ、闘志を燃やすユリアに気圧されたのか、ドルシラは少しばか
り後ずさった。
「そ、そうかい。それなら手伝いをお願いしようかねえ」
 部屋の奥へと消えていったユリアたちの姿を見て、少女は吹き出した。
「ユリアったら、本当にお料理好きなんだから」
 残された少年たちは、テーブルに着いたままカードに興じ始めた。
 少年が女に負け続けている中、台所ではユリアとドルシラが腕を存分に振るっていた。
 残っていた猪をふんだんに使い、ノドルカ近海で獲れた海の幸も欠かさない。
 食欲をそそる、旨そうな香りが立ち込めた。
 少年のお腹がその香りに反応し、うなり声を上げた。その様子を三人で笑い合ってい
ると、ユリアとドルシラが両手に皿を持ってやってきたのである。

52 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:17 ID:X8Cs0z6E
「良い猪肉だったねえ。存分に使わせてもらったよ」
 会心の作なのか、二人の表情は自信に満ちている。笑顔と軽い手つきで配膳していった。
「それではいただきましょう」と少女が言った。
 皆が舌鼓を打ち、久々の食卓での晩餐を楽しんだ。
 脂身のさっぱりとした猪肉は特に臭みも無く、一緒に煮込まれた魚も悪くない。ユリ
アお得意のシチュー料理だった。
 女は、ちぎったパンにシチューを絡めて口に運んだ。
「ま! シャーロットさまったら」少女は行儀が悪いと控えめに非難した。
「行儀なんてものはな、お偉いさん方との大事なお食事会の時だけ気をつけていればい
いのだよ。普段は、いかに楽しく美味しく食べるかということが大事なのだ。――大丈
夫、ハルナが今、いくら行儀の悪い食べ方をしたからといって誰も非難しないし、淑女
になり損ねるということもないからな。ほら」
 やってみろと言わんばかりに、堂々とパンをシチューに突っ込んで口に運んだ。
 美味しそうに食べる女を見ていると、淑女としての誇りが揺らいでくる。少女はそれ
でも堪え、行儀よく振舞い続けることに徹した。
 だが、女は狡猾さを潤滑油に頭を働かせ、その淑女の誇りを打ち砕かんと動きはじめる。
 今度は、シチューに浸したパンを少年の口の中へ運んだのである。
 少年は瞳を中央に寄せ、口に運ばれたものを不思議そうに咀嚼していたが、弾けんば
かりの笑顔で言った。「おいしい!」
 人に素手で食べさせるなど、少女にとっては空前絶後の不行儀であり、思わず目を背
けたくなるほどの行いであったが、少年の笑顔は少女の誇りに止めを刺すには十分すぎた。
 少女は周りをきょろきょろと見回し、女が頷いたのを見てゆっくりと手を動かした。
 震える手で恐る恐るパンをシチューに突っ込み、口に運んだのである。
 口の中に、ふわりと柔らかい感触が広がった。舌の上でパンがとろける感覚は、個々
で食していては味わえない、初めての食感だった。
「まあ! おいしい!」
 予想外だった。まるで背徳感から生まれる一種のスパイスでも加わっているかのよう
に、美味しく感じられたのである。
 ユリアもつられてシチューに絡めて食してみたが、やはり少女と同じように感激した。
 女はパンを口に運びつつ、笑いながら言ったものである。

53 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:18 ID:X8Cs0z6E
「そうだろう、そうだろう。これぞ食事の醍醐味よ。行儀なんかに囚われず、あらゆる
味を追求しようじゃないか」
 ばしばしと少年の背中を叩きながら満足そうに笑っている女に、ドルシラの雷が落ちた。
「だからといって、物を口に入れたまま喋るんじゃないよ!」
 ドルシラに叱られ、塩をかけられたなめくじのように縮こまった女を見て、皆は堪ら
ずに吹き出してしまった。
 女はいじけるように低く唸った後、話題を逸らした。
「明日は寄るところがあるからな。それに、謝竜祭にも少し顔を出してみようじゃないか」
「それがいいよ。せっかくこの時期に来たんだから、参加しなきゃ損ってものさ。今日
は始まりの儀式だけだったからねえ。明日から本格的に賑わい始めるよ」
「楽しみだなあ。ぼく、お祭りなんて初めてです」
 少年と同じように、少女たちも祭りに出るのは初めてだった。
「それに、ノドルカの謝竜祭といえば、世界各国から著名人が集まるほどに有名なお祭
ですもの。きっと盛大で楽しいに違いありませんわ」
「私も、参加させていただいてよろしいのでしょうか――」ユリアが心配そうに言った。
「当たり前じゃないか。竜に感謝している限り、誰でも参加できるのが謝竜祭だよ」
 ユリアの表情は途端に明るくなった。
 手作りのご馳走を腹一杯に堪能した少年たちは、片付けの手伝いをした後、入浴を済
ませた。すると頃合もよく、幼い者たちは眠気を覚えた。
 ドルシラは、目を擦っている少年たちを見て言った。
「それじゃあ、坊やたち、そろそろお休みなさいな。長旅で疲れているだろうからね。
ロッテ、あんたも寝なさいよ。戸締りは私がやっておくからね」

 
 翌朝、いつものように誰よりも早起きをしたつもりの少年だったが、ドルシラに先を
越されてしまっていた。鶏よりも早起きをしても、ドルシラには敵わなかったのである。
「あら、早いんだねえ」ドルシラは嬉しそうに言った。
「おはようございます、ドルシラさん」
「あらやだ。おばあちゃんでいいんだよ。ロッテの息子のようなものなんだからね。こ
の歳で孫に恵まれるなんて、私ゃ幸せ者だよ」ドルシラは大いに笑った。

54 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:18 ID:X8Cs0z6E
 そんなこと言われても、違和感たっぷりの少年であった。
 おばあちゃんといえば、しわしわでなければおかしい。だのに目の前の女性はつやつ
やしているのである。どうしてもおばあちゃんという言葉とドルシラの姿を結びつける
ことはできなかった。
 それでも、言葉を口にすることは可能である。
「お、おばあちゃん。何かを手伝うことはありませんか」
 ドルシラは満足気に顔を綻ばせた。「そうだねえ。――グレーテルのミルクをとって
きてくれるかい?」
「グレーテルさん、ですか?」少年は人間の女性を想像した。人間からミルクなんてと
れるものなのだろうか? まさか、生き物からあんなに白くて甘いものが出てくるなんて考えられない。
「ああ。裏で飼っている山羊だよ」
 少年は山羊だと聞いて少し納得した。山羊の毛を煮込んでミルクを作るのかもしれな
い。それならばミルクの白い色についても説明がつく。
 ドルシラは棚の中から一ガロンほど入りそうな容器を取り出し少年に渡すと、裏への
道を指差した。
「ぼくにもできるのかなあ」少年が心配そうに言う。ミルクはよく飲むけれども、自分
で作ったことなど一度もないし、その様子を見たこともない。
 不安げに尋ねた少年の頭をドルシラは撫でてやった。「初めてなのかい?」
 少年は首を縦に振った。
「そうかい。なら一緒に行こう」
「それではお手伝いにならないです――」と少年は首を横に振った。
 ドルシラは再び少年の頭の上に手のひらを乗せた。
「なに、気にしないことだよ。元々私の仕事なんだし、一緒に持ってくれるだけでもあ
りがたいってもんさ」
 二人して裏へとまわり、山羊のグレーテルと対峙した。彼女はとても無愛想で、少年
とは目を合わせようともしない。
「可愛くない山羊だけどね、大丈夫だよ。――ほら、こうするんだ」
 まずドルシラが手本を見せた。
 少年は毛を毟り取るのかと思っていたが、その予想は大きく裏切られた。
 後ろ足の内側のあたりに腕を伸ばして突起物を掴むと、慣れた手つきで搾り始めた。

55 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:19 ID:X8Cs0z6E
 なんと、山羊の体内からミルクが出てくるのである。目線が釘付けになった。
 ドルシラは握り方や力の加え方、そして搾るリズムが大切だと、少年に解説した。
「ほら、やってごらんよ」
 お互いに立ち位置を交換した。
「いいかい。山羊とはいえ、淑女の胸に触れるのだから、優しくしなければいけないよ」
 少年は疑問符を顔に浮かべたが、ドルシラは意味深な笑みを浮かべて言うばかりだった。
「いずれわかるさ。案外、早いかもしれないねえ」
 少年の小さな手では、初めは上手く搾れなかったものの、繰り返しているうちに少し
ずつだが、容器にミルクが溜まっていった。
「上手いじゃないか。中々のやり手だねえ!」ドルシラが嬉しそうに言った。
 励まされつつも搾り続け、容器いっぱいにミルクが溜まったころには、リズミカルに
絞れるようになっていた。
 搾り終えた少年は、グレーテルに感謝の言葉を贈り、二人で台所まで運び込んだ。
「あのお腹の中に、こんなにもたくさんミルクが詰まっているなんて、ちょっと信じら
れないなあ」
「そうだろう。さすが、ハンスが誕生日に贈ってくれた山羊だよ。とても気前がいい」
 ヘンゼルとグレーテルはミレイのとある森で出会い、まるで兄妹であるかように大切
に想っていたが、ドルシラに世話になった礼として数年前に寄贈されたのである。
「そういえば、知っているかい? ミルクは血なんだよ」
 少年は信じられないといった表情をした。
 ドルシラは薀蓄を得意気に披露する。「私だって本当に不思議だと思っているよ。真
っ赤な血と、真っ白なミルクが同じものだなんてね。だけど本当のことなんだよ。母が
魔力を持っているとその子どもも魔力を持っている、これが何よりの証拠さ。ほら、母
は子どもにミルクを飲ませてやるじゃないか」
 そんなことを言われても少年には少しも理解できなかった。そして、分からないこと
は深く考えないのが少年である。
「そうなんですか。それじゃあ、ぼくはお館さまを起こしてきます」と素っ気無く言った。
「そうだね、私は残りの仕度を済ませなくっちゃ」
 少年は階段を上がり、女の寝ている部屋へと忍び込んだ。
 肩を揺さぶって起こすと、少年はいつものように朝の洗礼を受けてしまった。

56 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:19 ID:X8Cs0z6E
「く、苦しいです! お館さま」
 満面の笑みを浮かべ、少年のわき腹をくすぐった。
「これをしないと一日が始まらないのでな。悪く思うなよ」
 そう言っては少年の髪をくしゃくしゃに掻き乱したり、耳元に息を吹きかけたりする。
 久々のベッド故か、女は必要以上に疲れを癒してしまったらしい。そのせいで、今日
の少年はいつも以上に体力を消耗することを余儀なくされたのである。
 やっと開放された少年は、女のはだけた胸を見て先ほどの話を思い出した。
「ぼくも、お館さまのミルクを飲んだのですか?」
 女はひっくり返った。「いきなり何を言い出すのだ!」
 顔を真っ赤にして叫んだので、少年は慌てふためいて必死に弁明した。
 ようやく落ち着きを取り戻した女は、顎に折った指を乗せて言った。「そんなことを
言っていたのか。確かに、魔力持ちの母のミルクをその子が飲むと魔力が芽生えること
があると考えている者もいる。何故だか分かるかい?」
「わからないです。ミルクが血だからなのかなあ」
 女はドルシラのように得意気な表情で薀蓄を披露する。こういう表情はよく似ていた。
「ミルクが魔力を帯びているからさ。魔力のある物を体内に取り込むと、魔力が芽生え
ることがある。だが、それだけでは芽吹かない。魔力ともう一つ必要なものがあって、
例えば愛情だな。もし、わが子を憎たらしく思う母が授乳したら、どうなると思う?」
 わからないという少年の答えが嬉しくて堪らないらしく、さらに上機嫌になって続けた。
「呪われてしまうのだよ。愛情があれば魔力が芽生え、憎悪の念があれば呪われる。愛
情とまで行かなくても、敵意を抱いていなければ、呪われることはないし無害だ」
「それがミルクと血の繋がりを示しているんですか? さっぱりわからないよ」
「血でも同じようなことがあるからだろう。例えば、竜を殺して血を浴びたとする。そ
の竜は当然殺した者を憎んでいるだろうから、浴びたものは呪われてしまう。人間の血
なんかとは、帯びている魔力が違いすぎるからな。竜の血で呪われたりしたら、それは
生半可のことじゃないぞ。その生き証人がお前の良く知る人物に居るよ。ゴドフリーだ」
「まさか、お師匠さまが?」
 ゴドフリーは、少年に剣技を叩き込んだ死霊である。彼は自分自身のことを余り話さ
ないので、少年は何も知らなかった。
「ゴドフリーは竜を殺し、返り血を浴びて死ねなくなった。やがて肉体は滅び、今の状

57 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:19 ID:X8Cs0z6E
態になってしまった。死霊だけれど死霊ではない、よくわからん者になってしまったの
だよ。行く当ても無く彷徨っていたところを私が拾ってやったというわけさ」
 この伝説は、良識有るミレイの人々ならば誰でも知っているものだ。人々の口を伝う
うちに歪められ、竜の血を浴びれば不老不死になれるという伝説に変わったりもした。
しかし、不老不死を望む者が血を浴びたところでゴドフリーのように成れるはずもない。
ゴドフリーは死にたがっていたが故、不死にされてしまったのである。
「じゃあぼくも、誰かのミルクで魔力を授かったのかなあ」少年は女の胸を見つめた。
「いいや、私たちの魔力は生まれ持っていたものに決まっている。さっきまでの話は、
あくまでも仮定だ。人間のミルクごときで魔力が芽生えることなんて、まずありえない
のだよ。同じように血を与えたって芽生えやしない。裏を返せば人間の血やミルクで呪
われることもない。竜の魔力であるからこそ、血を浴びて呪われるのだ。人と竜の血で
は、帯びている魔力が桁違いなのだよ」
 竜と人の魔法に関する差は、詠唱においても同様である。人間は言霊の力を借りなけ
れば魔法を使うことは出来ないが、竜に詠唱は必要ない。
 まるで呼吸をするかのように火を操り、川の流れを変え、天地を反す。人間が同じこ
とをしようものなら、それ相応の詠唱が必要になってくる。
 そのような圧倒的な差があるにもかかわらず、女は竜を倒したのである。
「それにしても、竜のミルクなんて聞いたことが無いからな。竜のミルクを飲んだ生き
証人も居ないし、ミルクと血が同じであるかどうかは誰にも分からない。ミルクも血も
同じように体の中にあって、ほんの少しだが魔力を帯びている。確かな共通点はこれだ
けさ」
「さっぱりわからないなあ」と少年は肩を竦めた。
 色は全く違うけれど、他がミルクも血も良く似ているから同じ物なのだろう。少年は
適当に考えて納得したのであった。
 それから着替えを済ませ、すっかり散らかってしまった部屋を片付けると、食卓へと
向った。遅れてやってきた少女とユリアは、二人とも少しばかり頬が赤い。
 先に食卓に着いていた少年たちを見るや、ユリアはその赤い頬をさらに赤くして謝り
始めた。「侍従たるこの私が朝寝坊をするなんて、本当に申し訳ございません。朝食も
用意できないなんて、私、なんと謝ればよいか――」
「何言ってるんだい。子どもはぐっすり寝なくっちゃいけないよ。それより顔が赤いけ

58 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:19 ID:X8Cs0z6E
れど、大丈夫なのかい?」
「ええ、何だか体が火照ってしまって。でも、それだけです」と少女が言った。
 少女も同じように体が火照ってしまっているらしい。
「そんなにあったかい布団じゃあないと思うんだけどねえ」
 不思議なこともあるものだと呟いて、二人に椅子を出してやった。
 全員揃ったところで、朝食になった。
 しばらくすると二人の火照りもおさまって、いつもどおりの姿を見せた。
 食事を済ませてしまうと先日の予告どおり、女は少年ら三人を連れてドルシラ宅を出た。
「どこへ行くんですか?」
「コニーの親父さんの所だ」
 着いた先の建物には、剣と盾の描かれた看板が掲げられていた。
 武器屋、もしくは鍛冶屋であるということは分かったが、店の外観は酷く薄汚れ、所
々が板で継ぎ接ぎしていてどうにも汚らしい。本当に営業しているのか疑問だった。
 中はぼろぼろで、床も踏み抜きそうなほどに朽ち果てているのだろう。
「前来た時はもうちょっと綺麗だったんだが」
 女は呆れた表情を浮かべ、店の中へ入っていった。
 店内は外観と反して、綺麗に整えられていた。少年が想像していたような、蝙蝠も居
なければ、蜘蛛の巣も一つと無い。埃臭さもなかった。
 目の前には古めかしい木の勘定台があり、その後ろには一つの椅子と、沢山の剣や槍
などの武器が立てかけてある。右手には短剣ばかりを集めた棚があり、左手の棚には、
盾や変わった形をした指輪や腕輪のようなものがしまってある。
 女は少年たちを待たせると、勝手に勘定台の奥の扉を叩き始めた。
 その大きな音に店主が気付いたのか、扉の向こうから不整な足音がする。
 扉の向こうから、声がした。「大会用の武器は売らねえ、帰りな!」
 そして扉が開き、酒瓶を片手に持った毛むくじゃらの大男が現れた。
 彼こそがこの店の店主、モーガンである。
 モーガンは初め、不機嫌そうな顔をしていたが、女の顔を見るや、態度が一変した。
「おお! ロッテじゃねぇか!」
 少年は態度の変わりっぷりに驚いたが、同時に悪い人ではないと判断した。目の前の
大男は、髭は無精に生やしているのに、頭は禿げ上がって寒そうである。丸太のような

59 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:19 ID:X8Cs0z6E
手足に樽のような体つきをしているが、背はそれほど高くないので、ずんぐりむっくり
としていて卵に手足が生えているのような印象を受けた。
 モーガンは酒のせいで赤くなっている鼻を擦りながら言った。「またまたいい女にな
っちまってよ。聞いたところによれば、お前さんはまだ独り身らしいじゃねえか。生娘
にしておくには勿体無いってもんよ。うちの馬鹿息子とくっついてくれれば死んでもい
いや。それで男でも産んでくれりゃあ、何も思い残すことはねえ。気持ちよく逝けるっ
てもんさ。死んじまったら酒が飲めねえっていうのは辛いけどな」
「私とコニーがくっつくなど絶対に有り得ぬ話だからな。心配しなくても、あと百年は
酒を飲んでいられるんじゃないか?」
 女が言うと、モーガンは豪快に笑った。
「それで、何が欲しいんだ? うちのなまくらでよければ何でも持っていってくれ」
 女は少女とユリアを近くに寄せ、モーガンの前に差し出した。
「この二人にあう武器が欲しいのだ。これからの旅先、何が起こるかわからぬし、また
虫使いにでも襲われてみろ、少しでも武装をしておいたほうが身の為になる」
 モーガンは顔を顰めた。「おいおい。俺の剣は子どもの玩具なんかじゃねえぞ」
 少女は怒りを覚えたが、腹に力を込めてそれを堪えた。剣ならば目の前の大人にも決
して引けを取るつもりは無いが、淑女らしく振舞わなくてはならない。
「そう言うな。この子はハンスとメルシーの娘なのだぞ。先日、剣戟を見せてもらった
が、素晴らしい立ち回りだったよ。母の気性と父の才能をしっかりと受け継いでいるな」
 モーガンは感心したように唸った。「あの二人の娘ってことなら、俺の剣を存分に使
うこともできるかもしれないな。最近は俺のなまくらに負けず劣らずなまくらな連中が
多くてよ。売る気がしなくて商売上がったりだぜ。闘技大会の程度も下がりっぱなしで、
ちっとも面白くねえ」
「それだけ平和な世の中になったということだろう?」女が皮肉った。
「そりゃあ、ちょっと困るな。俺の店が潰れちまうじゃねえか」
「もう潰れてるだろう?」女が口元をつり上げた。
「そういえばそうだった」モーガンは豪快に笑ってから続けた。「実は、お嬢ちゃんに
ぴったりな小剣があるんだ。最近叩いたんだけどよ、これが傑作でなあ。野郎共は馬鹿
でかい剣ばかり使って、小剣なんかにゃ見向きもしねえから、ここには並べてねえんだ
けどよ。見る目の無い、なまくらな砂利共ばかりで困るぜ。満足顔で失敗作を買ってい

60 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:20 ID:X8Cs0z6E
ってくれるのは非常にありがたいことなんだがな」
 失敗作を平気で売るのだから、その面の皮の厚さは並ではないらしい。
「そこのお嬢ちゃんも、剣の嗜みがあるのかい?」
 ユリアは首を横に振った。「でも、包丁捌きなら、誰にも負けません!」
「この子は猪でも難なく捌いてしまうよ」と女が付け加えた。
 腕を捲くり、目を真っ赤に光らせて不気味に笑いながら猪を捌くユリアを想像して、
モーガンは苦笑を噛み殺した。
「そうかそうか。それならそこの棚の作品がいいだろうな。そこの坊主にはいらんのか?」
「こいつにはあの剣を持たせてある」
 モーガンは驚いて聞き返した。
「あの剣を? ――まあいいや、それじゃあ適当に見ていてくれよ。剣を取ってくる」
 そう言って、モーガンは扉の奥へと戻っていった。
 すっかり肩の荷が下りた少女たちは、店内に沢山展示してある武器を見て回った。
 ユリアは言われたとおりに右の棚の短剣を眺め、少年は腕輪などのアクセサリーが気
になっていた。あらゆる品物の傍には、文字の書かれた札が張ってある。
「お館さま、これはなんて書いてあるのですか?」
 女の代わりに少女が答えた。「アイナって書いてありますわね。この下の数字は値段
でしょう。――不思議。女の人の名前ばかり書いてあるのね」
 その問いには、女が答えた。「ここの商品には全て名前がつけてあるんだよ。それも
人の名前だ。装飾品なんかには女の名前が多いがね、剣なんかには男の名前も沢山あるぞ」
「へえ。じゃあ、これはなんて書いてあるの?」と少年が尋ねた。
「ダーナですわ。――もしかして、読めませんの?」
 少年はきまりの悪そうに頭を掻いて頷いた。
「それはいけませんわ! この旅が終わったら、私の通う女学院に遊びにいらしてくだ
さいな。私やお友達で力を合わせて、教えて差し上げます」
 女は手を叩いてその提案に賛同した。勉強嫌いな女は、文字を教えるという大切なこ
とを今まで怠っていたのである。いつかは教えなくてはならないとは思っていたのだが、
読み書きそろばんを教えることと、薀蓄を披露することは全く違った。少女が代わって
くれるのなら、面倒な仕事が一つ減ったというものである。
「素晴らしい。私からもお願いしよう。文字が読めなくては、魔法書も読めなくて困る

61 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:20 ID:X8Cs0z6E
だろうからな。――わかったな、ルイ」
 女の言葉に逆らうはずもなく、少年は頷いた。
 一人、別の棚の品を眺めていたユリアが、突然頓狂な声を上げた。
 「私と同じ名前です!」
 一同、ユリアの元へと駆け寄った。
 ユリアが手に取った剣は、片刃でダガーよりも少し長い直刀だった。柄頭に可愛らし
い桃色の宝石が嵌め込んであり、鍔から中央辺りまで刻まれた刀身の樋には、おしゃれ
な古代文字が刻まれている。
 名札を覗き込んだ少女は、がっかりしたように声を低くして言った。
「これはジュリアって読むのよ」
「まさか。私の名前もこう書きますけれど」
「もしや、ユリアはイーリスの出身かい?」
 ユリアは頷いた。
 イーリスはミレイの西にある隣国である。
「孤児だった私を、旦那さまが引き取ってくださったのです」
「なるほどな。イーリスだとユリアと読むが、ミレイだとこれはジュリアと読むのだよ。
少しばかり違うからな。面白いことに、私なんかシャルロッテとなってしまう」
 納得した少女二人だったが、少年には彼女らが何を言っているのかわからなかった。
「それにしても、なかなか良い剣じゃないか。気に入ったのなら買ってやるぞ。これも
護衛の一環なのだから、金はハンスに持たせるよ。心配するな」
 ユリアはより熱心にこの剣を眺めた。鞘も可愛らしく装飾してあり、なるほどジュリ
アと女性名がついたのにも納得が出来た。それなのに刀身はどこまでも鋭い。
 ユリアはハルナの母であるメルセデスを思い出し、その剣をとても気に入った。
「お嬢ちゃん、中々お目が高い。小手先の動きが得意なら、存分に使えると思うぜ」
 突然、後ろから太くて低い声がしたので、ユリアは棚に頭をぶつけてしまった。
「ほら、これがその小剣だよ。名前はグラミアだ」
 それは小剣というには余りに長く、少女の背丈より少し短いくらいの長さがある。
 少女は小剣を受け取り、鞘から刀身を抜いてみた。
 長さのわりには軽く、少女が使うのには丁度よい重さであった。少し細めの刀身に、
ユリアの気に入った剣と同じように樋に古代文字が刻まれている。そのほっそりとして

62 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:20 ID:X8Cs0z6E
すらりと流れる外観は、女性名を冠するのに相応しかった。
「素敵な剣ですわね。握りもしっかりしていますし」
「お気に召したかな? それは突くことばかりに特化せず、切り払うことも出来るよう
に工夫したもんだ。少し軽めに作ってあるから、お嬢ちゃんでも長時間振るうことがで
きるはずだぜ。どいつもこいつも、細いだの、軽いだのといって馬鹿にするだろうが、
重量と力任せに振り下ろされた剣閃なんざ、この剣の前じゃあ手も足も出ねえ。使い手
を選ぶ剣であることは確かだが、ハンスの戦い方が出来るなら、この剣はぴったりだ」
「ハルナ、どうだい? 他のも見てみるかい?」
「いえ、凄く気に入りました」少女は力強く頷いた。
「そうか。それならこれを貰って行くとしよう。――金はハンスに請求してくれ」
「あいわかった。闘技大会に出るんなら言ってくれよ。承認の札をやるから」
 女がモーガンに礼を言い、立ち去ろうとした時、少年の手がスカートを引っ張った。
「お館さま、ぼくもあれが欲しいです」
 頬を赤らめて落ち着かぬ様子の少年が指差したのは左の棚であった。
「ふむ。どれだい?」
「この腕輪です。格好いい竜が刻まれていて、それに、触ると白いもやもやに包まれて
とっても不思議なんです」
「白い靄が見えるのかい?」
「見えるも何も、ユリアのも、ハルナのも白いもやもやが出てるじゃないですか。だか
ら、ぼくもお揃いであれが欲しいです」
「――さて、どうしたものかな」女は腕を組んで俯き、人差し指を顎に添えた。
 一方、腕輪をねだる少年を見て、モーガンは感心していた。
「こりゃあ驚いた。べらぼうにいい目を持っているじゃねえか。その腕輪は誰の目にも
止まらず、この数年間ずっと棚の中で買われるのを待っていた腕輪なんだ。安くしとくぜ」
 つまりは売れ残りである。
 少年は心配そうに女の顔を覗きこんだ。「駄目、ですか?」
「まあ、いいだろう。その代わり、帰ったら私がいいと言うまで肩を揉むこと。いいな?」
「はい!」少年は実にいい笑顔をした。
 女は初めて自分の財布から金を取り出した。
 少年は早速棚から腕輪を取り出し、右手首に嵌めた。金属特有のひんやりとして少し

63 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:20 ID:X8Cs0z6E
ばかり重い感触が腕に伝わる。欲しい物が手に入るということが、これほどまでに嬉し
いとは思っていなかった。同時に大切にしようと心に誓った少年であった。
 四人は再びドルシラ宅へ戻り、買った物を置いてからドルシラと共に町の中心部へと
繰り出していった。
 中心に向かうにつれて人の群れは大きくなり、町の中央を通る大通りには溢れんばか
りに人が集まっていた。通り沿いには隙間無く露店が立ち並び、民芸品から食べ物まで、
豊富な種類の店が出揃っている。途中、ドルシラが居なくなったかと思うと、突然大通
りの中心の高台に現れ、自慢の喉を披露していた。
 少年がダーツに興じている最中にドルシラの歌声が聞こえてきたものだから、驚いて
明後日の方向へ投げてしまい、少女に贈ろうと狙った景品を取り逃がすという悲劇が起
こってしまった。ドルシラはそんなことを知る由も無かった。
 少女もユリアも初めて見る催しばかりで、興奮を隠せずにいた。少年と一緒に、見たこ
ともないような食べ物を食してみたり、景品を賭けて遊んだりしたのである。
 特に、お金を賭けて店主と戦うカードでは、女は恐るべき狡猾さを発揮し、少女とユリ
アは持ち前の勝負強さで少年の損失をもろともせず、遂には店じまいにまで追い込んでし
まった。半べそをかいて店をたたみ始める姿はあまりにも哀れだった。
「いやはや、賭け事っての恐ろしいねえ」傍観していたドルシラが言った。
 女はにやりとした。
 しっかりと食費を稼いだ一行は、昼食の時間ということもあって、それからは遊ぶこ
とよりも食べることに夢中になって、珍しい物をたくさん食べ歩いた。
 行儀が悪いと顔を顰めていた少女も、今ではすっかり食べ歩きに慣れてしまっている。
「うわ。これすっごくおいしいですよ! お館さま」少年が手に持った容器を差し出した。
 中には八つほどの丸い食べ物が中に入っており、不思議な香りを放っていた。それを
木製の針を使って口に運ぶのである。
「どれどれ」
 女がそれを口に運ぶと、続いて少年に勧められ、少女たちも食した。
「これは美味い」
 皆口々に賞賛の言葉を並べていると、店主が得意気に語り始めた。
「これは極東の島国から伝わってきたものでしてね。この辺りの海産物と、とても相性
がいいんですよ。中に入った蛸がまた絶品でしょう?」

64 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:20 ID:X8Cs0z6E
「全くだ」女は肯定しつつ、少年の容器からさらにもう一つ突いた。
「お館さま、蛸とは何ですか?」
「中に入っているものが蛸だ」
 蛸を知らないのは少女たちも同じであった。
「坊主、生きた現物があるから見るかい? そこのお嬢ちゃんたちにはちょいと刺激が
強いかもしれないですけどね」
「なんと。生で捌いてはくれぬのか?」
「いいねえ。私も久しぶりに生の蛸をいただきたいものだよ」
 ドルシラは大きく頷いて、少年の容器から中の蛸だけを抜き取り、口に運んだ。
「いいでしょう。それなりにお金を支払っていただけるんでしたら」
 女は胸を叩いた。「よかろう。奮発しようじゃないか」
 店主は屋台の下に隠してある水槽の中から、一匹の生きのよい蛸を取り出すと、少年
たちの目の前に置いた。
 醜悪な禿頭に、顔ともいうべき部分のすぐ下から、触手が数本生えている。その数な
んと八本。その一本一本に不気味にヒクついた円盤が無数についている。
 それを無作為に動かしては、つかまれた店主の手から逃れようとしていた。
 あまりのおぞましさに、まずユリアが卒倒した。それをドルシラが受け止める。
 ハルナは口を小刻みに動かして、食べてしまったことを後悔していた。
 少年は驚くことも無く「こいつ不細工ですね、お館さま」などと呑気に言って、蛸の
頭を指で突いたり、手に吸盤をくっつけたりして遊んでいる。
「こらこら、そんなにいじめたら蛸だって怒るかもしれないぞ」
 女の忠告は少しばかり遅かった。既に蛸の怒りは頂点に達していたのである。
 怒りに身をたぎらせた蛸は、持ち前の大砲で報復の攻撃を仕掛けた。砲撃は少年の腕
をとらえ、真っ黒に染め上げてしまった。
 少年は驚いて飛び退き、墨だらけになってしまった右手を振った。
「だから言っただろう」女は笑いながら少年の腕を拭ってやった。
 落ち着いた頃、店主は八本あるうちの一本を包丁で切り取り、蛸を水槽の中へ戻した。
 少年たちが卒倒したユリアを起こしている間に、蛸を一口の大きさに捌いたのである。
 生で蛸を食べるように勧められ、まずは少年が口に運んだ。
 すぐに目を丸くし、頓狂な声を上げてしまった。

65 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:21 ID:X8Cs0z6E
 この蛸の足は本体と切り離されて細切れにされてしまったはずなのに、吸盤はまだ元
気で少年の口の中に吸い付いた。初めての不思議な感覚に戸惑ったが、噛んでみると口
の中に何とも言えぬとろけるような味わいが広がった。
 続いて女が口に運ぶ。「んん。この感覚、たまらんねぇ」
 店主が得意気な顔をして言った。「そうでしょう。ここいらで獲れた海の幸ですから
ね。不味いわけがないってものです」
 女は自分の幼い頃に食べていたものを思い出した。
「もっと食べたいものだ。蛸ばかりでなく、魚も美味いものばかりだからな」
「今日の舞踏会に出てみてはどうです? 食事は豪華なものばかりと聞きましたよ。な
んでも王様はここいらで獲れた魚が大好物なんだそうで。舞踏会という形で沢山の人に
ノドルカの味を知ってもらおうとお考えになっているようでして、それなりの身なりの
出来る者ならば、誰でも参加していいって言うんですから、本当に気前のいい王様ですよ」
「舞踏会か、なるほど」
 店主の言うところによれば、町の中心から少し西へ行ったところにある公会堂で行わ
れるらしい。女は少年をパートナーに据えて、無理にでも参加することに決めた。
 存分に新鮮な蛸を堪能して、女たちはその屋台を後にした。
 美味しいものを食べられて満足顔な少年たちに比べ、ハルナとユリアは青ざめた顔を
していた。蛸というものが余りにも刺激的で、先日の怪物を連想させたのである。
 どうにも元気のない少女たちを引き連れて、ドルシラ宅に戻った。
 居間に入るや、ハルナとユリアは床にへたってしまった。蛸との邂逅が堪えたという
には過ぎるほど、体をぐったりとさせ、顔には汗を浮かべている。
「大丈夫? 休んだほうがいいんじゃないかな」
 少年が気遣うと、ドルシラがそれに続いた。
「そうだねえ。晩御飯が出来たら起こしてあげるから、横になっておいでよ」
 母性溢れる優しい顔を少女二人に向け、ベッドへと促した。
 彼女らは頬を上気させ、息を荒げている。ドルシラに言葉を返すことも出来なかった。
 少年は両肩で二人を支え、寝室まで連れて行ってやった。
 ベッドの上に寝かされて不服そうに顔を歪めたユリアが、紅潮させた頬で上ずった声
を出した。「ごめんなさい。体が熱くて、言うことを聞いてくれないんです。私が、お
食事の準備をしなくてはなりませんのに」

66 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:21 ID:X8Cs0z6E
 必死に言葉を絞り出しては自分の不甲斐なさを責めるので、少年は一つ言ってやるこ
とにした。「みんな心配してるんだから、ちゃんと休まなくちゃだめだよ。ハルナもじ
っとしていないと、ぼく、怒るからね」
 小さな声で頷いた二人に布団をかけてやり、安静に出来るように、その場を後にした。
 居間へと戻ってきた少年は、何かしてやれることは無いだろうかと尋ねた。
 ドルシラは水と布を差し出した。「これで二人の額を冷やしておやり」
 それから少年はせっせと看病した。
 少女たちはかなりの高熱に魘されており、何度も何度もぬるくなった水をかえては、
少しでも楽になるようにと働いた。それは女に呼ばれるまで、休まず続けられたのである。
「ルイ、二人の様子はどうだ?」
 少年は、綺麗に着飾っている女に目を丸くしたが、すぐに我に返った。
「今はぐっすり眠っています。大分落ち着いたみたい。二人いっぺんに風邪を引くんだ
から、本当に仲がいいんだなあ」
 女は深く頷いた。「長旅で疲れが出たんだろうよ。二人とも、大変だったろうからな」
 野宿をしたり、怪物に襲われたりしたのである。体調を崩してしまっても仕方の無い
ことだ。目の前にいる少年が元気なのが不思議なくらいだった。
 病人の症状が落ち着いたと聞いて胸を撫で下ろした女であったが、実は少年を呼び止
めたのには別の意図があった。「さて、私たちは舞踏会へ行くとしようか」
「え? だめですよ。二人の看病をしなくちゃ」と少年は言った。病魔に苦しんでいる
者が二人も同じ屋根の下にいるというのに、自分だけのこのこと出て行けるものか。一
緒になって苦しむことはできなくても、付き添うことはできる。それが今するべきこと
であり、置き去りにして出かけるなんてとんでもないことだ。
 それなのに、女は強引にでも引っ張って行こうとする。
 助けを乞う視線をドルシラに向けたが、彼女は味方になってくれなかった。
「それなら私に任せておきなさいな。二人で行ってくればいいよ。実を言うとね、晩御
飯は三人分しか作っていないんだよ」
 どうしてそんなことを言うのだろう。
「でも――」少年は俯いた。心配だ。
「じれったい! 私が行くと言ったら行くのだ!」
 渋る少年と比べても、駄々をこねているのは女の方に見えた。女は少年を隣の部屋へ

67 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:21 ID:X8Cs0z6E
と連れて行き、無理矢理服を引き剥がすと、ドルシラと用意しておいた正装を少年に着せた。
 ドルシラ宅を出ても、心配ばかりしている少年に対して、女は諭した。
「二人は大丈夫だから心配するな。明日には元気になると、この私が保証しよう」
「本当ですか?」少年が疑い深そうに女を見る。
「蝙蝠の魔女がそう言っているのだ。本当に決まっている」女は胸を叩いた。
 少年は、女が占いの魔法も予見の魔法も大の苦手であることを知っていたし、病気に
対する理解も皆無であるということも知っていたが、自信に満ち満ちた顔つきで言い聞
かせてくるので、いつの間にか女の言葉を信じてしまっていた。
 そうやっていつも言いくるめられていることに、少年自身は気付いていない。根拠も
なく堂々と言ってのけられると、どうしても信じてしまうのである。
 公会堂の前までやってくると、既に前庭には大勢の人物が集まっており、互いに手を
取り合って中へと入っていく老夫婦もいれば、外の空気を吸いながら、ワイン片手に歓
談している恋人たちもいる。舞踏会は始まっているようだ。
 女は少年と手を繋いで、門をくぐろうとした。
「待ちなさい」門番が二人を呼び止めた。「未成年は入れませんよ」
 そんなことは百も承知していた女は、くぐり抜ける術をちゃんと考えて来ていた。
 少年は、恐怖は人を支配するために最も都合のよいものだと女に言い聞かされたこと
があったので、この門番を魔法で脅したりするのではないかと心配していた。
「ふむ。そうであったか。出直そう」
 意外にも女は素直に引き下がり、少年を連れて物陰に隠れた。
「面倒ごとになるのはごめんだからな。――少しの間の我慢だ」
 喉の奥で笑い、詠唱を始めた。その長さ、二六音節。
 自分に何らかの魔法がかけられようとしていることに少年は気付いた。逃げようとす
るも、女は腕を掴んで離してはくれない。
 この時の意地悪そうな笑顔といったら、少年は忘れることができなかったほどである。
 少年の体に光が降り注ぎ、次の瞬間、音を立てて少年の姿が煙の中へ消えた。
 その煙も風の中に消えてしまうと、そこには黒いバンダナを首に巻き、同色の毛並み
を蓄えて可愛らしくうずくまっているものがあった。
 視点の著しく低くなった少年は、自分の両手を目で確認した。黒くふさふさした腕の
先には肉球のついた手の平があり、力を込めると鋭い爪が顔を出す。

68 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:22 ID:X8Cs0z6E
「にゃ〜ん」少年は驚愕のあまり、声を上げてしまった。
 自分の愛くるしい声を耳にして、ようやく少年は事実を飲み込んだ。
(ぼくは猫になってしまったんだ――)少年は絶望した。
「よし、行くぞ」
 女は黒猫になってしまった少年を胸の中に押し込み、再び門番の元へとやってきた。
 門番は流し目で、通り過ぎる女のことを見ていた。
 女は前庭に入るとすぐに物陰に隠れ、少年を解放した。
「戻ってみろ。服を脱ぐことと大差はない」
(服を脱ぐ?)少年は想像した。この黒い毛皮を脱ぎ捨てる――
 途端、魔法をかけられたときと同じように音を立て、視点が高くなった。不思議なこ
とに、服もちゃんと着込まれている。腕を見回しても、先ほどまでの艶やかな黒毛は見
当たらず、指もしっかりと五本ついていた。
 ほっと一息吐いた少年は、女に手を取られて公会堂へと歩き出した。
「ぼく、ちゃんと踊れるでしょうか」少年は自信なさそうに言った。
 少しは嗜んでいた少年であったが、剣のように毎日稽古していたわけではない。まし
て大勢の中で踊るというのは初めてのことである。覚えず、握った拳に汗が滲んだ。
「踊れるさ。私に任せなさい」女は少年の頭を撫でてやった。
 女と共に扉を抜けた少年は、その場の雰囲気というものに戸惑った。
 ミレイ中から集められた演奏家による生演奏に加え、蝋燭による優しい照明が、少年
の思うところの大人の雰囲気というものを醸し出している。
 豪奢なドレスに身を包んだ婦人たちが、上品な紳士たちに手を引かれて踊っている。
 ホールの壁際のテーブルには、たくさんの豪華な食事が並べられ、ある者はワイン片
手に歓談に興じ、またある者は踊りの相手を探して歩き回っていた。
 少年は緊張で体を強張らせていたが、女は構わずホールの真ん中へと引っ張った。
 そして曲が変わると同時に踊り始めたのである。
 二人の踊りは周囲の目を惹いてしまった。なんといっても身長差がありすぎる。それ
でもちゃんと踊れているのは、女の技量によるところなのだろう。
 少年は女の足を踏むこともなく踊ることが出来た。自然と肩の力も抜けてくる。
 いつのまにか楽しんでいた。自分に向けられている視線も気にならない。
 踊りながら言葉を交わすことが、こんなにも楽しいものだったなんて。

69 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:22 ID:X8Cs0z6E
 回りながら外へと視線を向けると、蝋燭の光がふわふわと伸び、恋人同士の歓談して
いる笑顔をたくさん見ることが出来た。音楽隊も互いに顔を見合わせては、体を揺らし
ながら楽しそうに演奏していた。
 三曲ほどで踊り終えた少年と女は、連れ立って壁際のテーブルまでやってきた。
 余裕の出てきた少年は、女の手をとって、テーブルまでエスコートした。初めは、気
が付かなかったが、女の歩き方はとても上品で、普段の姿からは想像も出来ないような
立ち振る舞いをしている。黒を基調としたドレスは、女のくびれた体をより浮き立たせ
て、少年の目の遣り場を困らせていた。
 しばらくの間はテーブルについて軽く食事を摂っていたが、上品に着飾った女を周囲
の男が見逃すはずもなく、すぐに踊りの誘いを受けることになった。
 見知らぬ男が女に誘いをかける様子を、少年はどきどきしながら見守っていたのでる。
「なんとお美しい方だろう。――よろしければ、わたくしめと踊ってはいただけません
でしょうか」
 女は気まずそうに俯き、少年を一瞥した。その様子があまりにしおらしいので、少年
は不覚にも顔を赤らめてしまった。まるで別人のようだ。
 男は目配せの意味を知り、腰をかがめて少年へと話しかけた。
「これは、失礼いたした。小さな同伴者さん、こちらのご淑女をお借りしてもよろしい
ですかな?」
 少年はぎこちない口調で答えた。「は、はいっ。ぼくはここで待っていますから――」
 女は満足げに頷くと、紳士に差し出された手をとった。
「それではいきましょうか」
 あまりに上品に微笑むので、少年は気味悪く思った。
 構わず、女は耳打ちした。「ルイ、お前も誘われたら踊ってよいからな?」
 少年はすばやく頷いて、女を送り出した。
 一人になってみると、案外寂しいものである。オレンジジュースを注いだグラスを片
手に、周りの大人たちの姿をぼんやりと眺めていた。
 大人の真似をして、ジュースをグラスの中で回して香りを探ってみた。そして一口飲む。
 退屈だと思った。
 ハルナとユリアの姿を探して辺りを見回してみたが見つからない。ドルシラの家に置
いてきたのだから当たり前である。しばらくして見つかったのは、楽しそうに踊ってい

70 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:22 ID:X8Cs0z6E
る女の姿だけだった。
 女は普段からは想像も出来ないほどに上品に振る舞い、踊っている。その楽しそうな
彼女の表情を見ていると、自分も踊りたくなってきた。
 さっきの男のように少年も他の婦人を誘ってみようと思ったが、さすがに気が引けた。
 さらにジュースを一口飲み、踊ることを今は諦めようとしたそのときである。
「あのう、一緒に踊っていただけませんか」
 後ろから鈴の音のような声がした。振り向くと、そこには一人の少女が立っている。
 少年は椅子から降り、その前に立ち尽くした。
 目の前に現れた少女は美しく、間近に見るや否や、少年の顔は真っ赤に染まった。
 女の子の方から男の子の方に声をかけるというのは、さぞ勇気の要ったことであろう。
その少女もまた、その頬を桃色に染めていた。
 ハルナやユリアも十分に可愛らしかったが、この少女も勝るとも劣らぬ可愛らしさで
ある。その上、二人のような幼さは残っておらず、どこか淑女の気品というものを持ち
合わせていた。
 控えめに宝石を嵌められた髪留めは、高い位置から縦に巻かれている金髪とよく調和
して、その気品をより一層ひきたてており、頭の頂に据えられた銀色のティアラはきら
きらと光って、少年に目映い印象を与えた。
 その少女は今、はにかむような笑顔を浮かべて少年のことを見つめている。
 白いドレスに身を包んだ少女を見て、少年はお姫さまのようだと心の底から思った。
 ここに女がいたならば、その後ろに隠れてしまいたかったが、そうもいかない。
「は、はいっ。ぼくでよろしければ、その、あの――ルイです。よろしくお願いします」
 一生懸命言葉を搾り出した少年に対し、次いでその少女も少し考えるような素振りを
見せて名乗りを上げた。
「ええと――うん、はい。リーナといいます。そのままリーナと呼んでください」
 少年も恥ずかしそうに返した。「えっと、ぼくもルイって呼んでください」
「それではルイと呼ばせてもらいますわ」リーナはくすくすと笑った。
「それにしても、まさか私と同じくらいの男の子がいるなんて思いもしなかったなあ。
今日はお父さまに特別の許可を頂いて参加したんですの」
「ぼくもお館さまの同伴者として特別に参加することを許されたんです」
 流石に無理矢理連れてこられた上、門番の目をかいくぐって参加したとは言えなかった。

71 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:22 ID:X8Cs0z6E
「まあ! 他にお友達は来ていないのかしら?」
「ええと、ハルナっていう子とそのお侍従さんが居るんですけど、風邪を引いちゃって
寝てるんです」
「ハルナ――、もしかしてグリンメルス公の?」
「そうです。本当はぼくも看病していたかったんだけど」
「大丈夫。きっとすぐに元気になるわ。――さ、いきましょうか。そろそろ曲も変わる
ころですわ」
 少年はリーナの手を取って歩き出した。
 女と一度踊っているだけあり、踊ること自体に難は無かった。だが、少女から漂って
くる香りや、触れている手や背中のことを思うと、どうしても全身に力が入ってしまう。
 ただ、手だけは握り締めないように気をつけた。
「上手なのね、ルイ」少女が微笑んで言った。
 しばらく踊っているうちに随分と打ち解けてはきたが、踊りながら顔を近づけてくる
ので、少年は赤くなった。
「実は、前にお館さまに特訓させられたことがあったんだ。剣のお稽古のためになるか
らって。――まさか、お館さまがあんなにダンスが上手かったなんて知らなかったよ」
「お館さま?」少女が首を傾げた。
「シャーロット・スウォープっていう魔法使いだよ。ぼくはそのお城に住んでるんだ」
「まあ。シャーロットの――。とても恐ろしいお城に住んでいると小耳に挟んだことが
あったけれど、ルイは大丈夫?」
 少年は滅相も無いといった顔をした。「みんなそう言うけど、全然怖いところなんか
じゃないよ。悪い幽霊なんて居ないし、そりゃ、ちょっとは脅かしたりするのが好きな
のもいるんだけど、みんな良くしてくれるんだ。だから、全然怖くなんかないんだよ」
「ゆ、幽霊が出るなんて――」リーナは少年の手を強く握り締めた。
 ふと、曲調が軽くなった。ダンスは音楽にあわせるものである。自然と少年たちの足
の運びも軽くなった。次第に緊張もほぐれ、音楽に合わせて飛んで、回って、時に顔を
見合わせ微笑みあった。
 リーナは踊りながら、少年の長い睫毛とさらさら揺れる黒髪に目を奪われていた。
 自分では星の数ほどの人を見てきたつもりであったが、黒い髪をしている者をこれま
でに見たことは無かった。こんなにも艶やかで、美しい髪をしている少年は初めてであ

72 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:23 ID:X8Cs0z6E
る。その上、どうにも同じ人間だとは思えないほどに整った顔立ちを有している。目も
とはまるで少女のようであるし、口を開くとのぞく糸切り歯は、上の二本だけ牙のよう
に少し発達していて、謎めいた魔性の気を帯びているようだ。つい、首筋に彼の歯をつ
きたてられるところを想像してしまう。それは女の子ならば誰もが憧れる、ふしだらな
伝説だった。
 その後二曲ほど踊り、少年の誘われたテーブルまで戻ってきた。
「私、非公式だけれど今日が初舞台なの。公式には、まだまだ先のことなんだけれど」
「へえ」少年は相槌を打った。
「それに、同年代の男の子と話すのも初めてのことなのよ。学院には女の子しかいない
し、他の機会にはあまり外に出してもらえないから」
「ぼくも、この旅で初めて城の外へ出たんだ」
 リーナは両手を合わせて感嘆した。「素敵な偶然ね。私も、ミレイ城下やノドルカば
かりでなくて、世界中を旅してみたいわ」
「すごく楽しいよ。道ってすごく不思議で、色んなところに繋がっているんだ。城の廊
下は部屋にしか繋がっていないのに。今はハルナの護衛としてルーディアに向かってい
るんだけど、それも道で繋がっているんだから、とっても不思議だよ」
 ルーディアと聞いて、リーナは口元に手を当てた。
「それは気をつけないといけないわ。ルーディアはとても酷い国だとお父さまが仰って
いたし――でも、どうして行かなくちゃならないの?」
「ハルナがルーディアの王子さまとお見合いをするんだよ」
「――イディオット王子には婚約者がいるというのに」リーナは暗い顔をした。
「本当に? 二人も奥さんを貰おうだなんて、その王子さまはとっても欲張りなんだね」
 リーナは静かに笑った。「王は子を残すため、正妻のほかにも女を抱え込むものよ」
 少年が非難混じりの声を上げる。「ぼく、友達は沢山欲しいけど、奥さんは一人でい
いなあ。だって、ハルナのお父さんは一人の奥さんにとても苦労しているみたいだからさ」
「グリンメルス夫妻の仲の良さは、この国でも有名だものね」リーナは上品に笑った。
 それから二人は少年の身の上話で盛り上がっていた。
 特に魔法の話には興味津々で、少年は持っている魔法の知識を思う存分披露した。
 盛り上がりが頂点に達し、いくらか下がってきた頃合に、リーナは別のテーブルを一
瞥して、何かを見つけて驚いたような顔をした。

73 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:23 ID:X8Cs0z6E
「あら、こんなにも話し込んでしまったわね。私はこれで失礼するわ」
「うん。ぼくもそろそろお館さまと踊らなくちゃ」
 リーナは名残惜しそうに少年を見つめ、スカートを持ち上げて会釈した。
「楽しかったわ。また会いましょう」リーナは少年にウィンクした。
「うん。ぼくもまた会いたいな」
 少年はリーナの後姿を見送って、グラスに残ったジュースを飲み干した。
 女を待つついでに豪華な料理にも手をつけていると、リーナが姿を消した方向とは反
対から、のしのしと歩いてくる人影があった。
 少年はその人影を特に気にとめず、美味しそうに料理を食べていたが、その人影は少
年の横に立つと話しかけてきた。
「君。そこの貧相な君だよ」
 話しかけられて気づいた少年は、食べるのをやめて振り向いた。
 目の前には、でっぷりとした体に、大げさなまでに装飾された衣装を纏った男の子が
立っている。彼は息を荒げて、浮かんだ汗を拭っていた。
「ぼくですか?」
 少年が言葉を発すると、お世辞にも整っているとは言えない顔をさらに歪め、無作為
に生えているかのような乱杭歯を剥き出しにした。
「貧相と言えば君しかいないじゃないか。君と僕とを見比べてみるがいいさ」
 言われて自分の姿と比べてみた。確かに贅肉の量で遙かに劣っている。背の高さはそ
れほど変わらないのに、横幅は少年の倍ほどあるのだ。そのせいか、彼は何をするのに
も息苦しそうだ。吐く息がとても荒いのは、本当に息苦しいからなのかもしれない。
 まるで、二足歩行をする金持ちの豚が、自分の容姿をわきまえずに煌びやかな宝石や
高価な衣服に身を包んで、人間を見下して鳴いているようだ。豚は美味しいけれど、
目の前の豚はユリアが調理しても不味そうだとも思った。そもそも、ユリアに触れさせ
ることを考えただけで嫌悪感を覚える。
「ところで聞きたいのだがね、その貧相な耳でよく聞きたまえよ」
 唱えるように言おうとも、少年には豚が食べ物を乞うているようにしか思えない。
「僕の愛すべき婚約者、ヘレナ王女を見なかったかね。小鳥のさえずりのような愛くる
しい声に、凛としたまなざし。照り輝くような金髪を揺らしながら、妖精のようにふわ
りと舞う。僕はその姿をもう一度見たくて、こんな小国まで忍んでやってきたというわけさ」

74 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:23 ID:X8Cs0z6E
 鼻を鳴らしたような語尾で言うので、少年は気味悪く思った。
「ヘレナ王女なんて知らないです」少年が素っ気無く答える。
「ふん。やっぱり節穴か。それに、顔や目だけでなく、運も人生も何もかもが穴だらけ
だと見える。まあ、こんな小国の庶民のことだ、せいぜいその詰まっていない脳味噌で、
このイディオット様と話せたことを大いに誇りに思うがいい」
 言い切っては高らかに笑い、のしのしと歩いて離れていった。
 呆然と後姿を眺めていた少年は、気を取り直して食事に専念し始めた。
 食べながら思い出すことといえば、リーナのことだ。ホールを眺めてみても、その姿
を再び見つけることは出来なかった。帰ってしまったのかもしれない。
(また、会えるといいな)少年は強く願って、戻ってきた女の下へと歩いた。
 それからの少年はなぜか婦人たちに人気が高く、たくさんの人とのダンスを楽しんだ。
女もひっきりなしに誘われて踊り続けていた。最後に同伴者同士、二人で踊ってから公
会堂をあとにしたのである。
 少年たちは、上機嫌でドルシラ宅へと戻ってきた。
「おかえり。どうだった? ダンスは楽しかったかい?」
 ドルシラはめがねをかけて、何かを繕っていた。
「うん! 親切な人ばかりで、とっても楽しかったよ。ごはんもとっても美味しかったし」
 女が少年の頭を撫で回した。「こいつったら、人見知りを克服したよ。沢山の淑女た
ちにちやほやされて興奮しておったわ。ハルナが見たらやきもちを焼くぞ?」
 女は少年の頬をつまんだ。
「そりゃあよかったねえ」ドルシラは大きなあくびをした。「そろそろ寝ようか。明日
出発するんだろう? しっかり寝て、力を蓄えておかなくっちゃねえ」
「そうだな。寝るとしよう。――行くぞ、ルイ」
「お館さまは先に寝ていてください。ぼくは、ハルナたちの様子を見てきますから」
「起こさないようにするんだぞ」女はそういうと、大きなあくびをして歩いていった。
 少年は真っ暗な階段を上がり、少女たちの寝ている部屋へと入った。できるだけ物音
を立てないようにそっとベッドに忍び寄り、二人の顔を覗き込む。
 二人は穏やかな寝息を立てて眠っている。
 寝顔が見たくなって、灯火魔法を唱えた。手から浮き出た魔力が、眩しいほどに光輝
いた。少年は慌てて光を消した。

75 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:23 ID:X8Cs0z6E
「誰――?」ハルナの声がした。
「ぼくだよ。ごめんね、起こしちゃったみたい」
 少女は静かに笑った。「淑女の寝室に入りこむなんていけない人」
 少年はもう一度灯火魔法を唱えた。その長さ、わずか三音節。
 今度は淡い光が灯り、ろうそくの光のようにロマンチックに二人を照らした。
「きれいな光ですわね。――私も使えたらいいのになあ」
 少女は体を起こして、手の平を見つめた。ためしに唱えてみるが、光らない。
「練習しなくちゃ出来ないんだ。でも、今は病気なんだから、寝てなくちゃだめだよ」
 少女の肩を押して寝かせてやると、布団をかけてやった。
「ルイくん。私が寝るまでここにいてくれませんか?」
「いいよ。だから、おやすみなさい」
 少年は明かりを消した。
「ありがとう。おやすみなさい」
 少年は暗がりの中で、しばらく少女の顔を見つめていた。
 吐息が寝息に変わったのを確かめると、部屋を出た。
 翌日、遅めに目覚めた少年は、女とともに出発の準備に取り掛かった。少年は、病み
上がりの二人をベッドにはりつけて、その分働いた。
 宿に預けていた馬車を引き取って、ドルシラの用意してくれた少年の服や食料を馬車
の中に積み込む。買った剣はバスケットにしまわずに、いつでも抜ける状態で馬車のな
かに備え付けた。もちろん、ユリアの剣は馭者席に備えてある。
 身支度を整え終えた少年たちは、ドルシラとの別れを惜しんだ。
「なんだか、寂しいです。もう一回、ミルクを絞ってみたいな」
 名残惜しげに少年がつぶやくと、少女が励ますように言ったものだ。
「帰り道もここを通るでしょう? そのときはよろしくお願いいたします」
 もちろんドルシラは快諾した。
「またいつでもおいで。私は毎日ここで暇しているんだから」
 ドルシラは一人ずつ抱きしめて、それぞれに励ましの言葉を送った。
 馬車が進み始めると、遠ざかっていく姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「竜のご加護がありますように」ドルシラは踵を返し、家の中へと戻っていった。

76 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:24 ID:X8Cs0z6E
.
 馬車は日の高いうちにノドルカを出た。病み上がりの少女たちは、既にそれを感じさ
せないほどに元気になり、馬車の中で近き思い出話に没頭していた。
 話が土産のことにまで及ぶと、女がある暴露をし始め、笑いを誘った。剣の生みの親
であるモーガンは女装癖があり、剣を叩くことよりもアクセサリー作りの方が得意であ
るというのである。息子が猫かぶりであるなら、父は女かぶりであるとまで言った。
 そんな話を聞かされて、気味の悪い思いをしてしまった一同であったが、少女が自分
の剣を半分ほど抜き、皆で改めて観察してみると、どうにも女装癖が功を奏しているよ
うに思われて仕方が無かった。装飾は繊細ながらも優雅で、気品に満ちている。
 少女は、樋に刻まれた古代文字を指でなぞってみた。
「ハルナ、それはなんて書いてあるの?」と少年が尋ねた。
「読めませんわ。これは文字ではなくて、ただの模様なのではないかしら」
 首をかしげて言う姿を見て、女はくすりと笑った。
「古代文字だよ。竜から言葉を教わって、それを始めて文字にしたものだ。詠唱の代わ
りにできる、唯一の文字だよ。――それ故に、使われなくなってしまったのだがね」
 少年は感心して頷いた。「壊れないようにって思いを込めて刻んだのかなあ」
「そうかもしれないし、なにか呪文を刻み込んだのかもしれない。古代文字に魔力を注
げば魔法が発動するからな。私が使えば、何かが起こるかもしれないよ」
 馭者席のユリアが顔を出した。
「川が見えてきましたよ。そろそろ夕食にしませんか」
 話に熱中していた少年たちにとって、時の流れは早いものだった。いつのまにか日は
既に沈みかけ、空は赤く染まっていたのである。
 馬車を停めたユリアは、休まず夕食の準備に取りかかった。
 腕まくりをして、せっせと働くユリアの姿はいつ見ても気持ちのよいものだ。
 腹ごしらえを済ませた少年たちは、眠たくなるまで馬車を進めた。
 翌日、再び馬車が進み始めたとき、延々と続いていた一本道の緑が、だんだんと濃く
なっていることに気が付いた。道は森の中へと続いているのである。
 その森は、ちょうどミレイとルーディアを隔てており、出口付近に関所がある。
 その先はルーディア領内であり、首都フーリアまでは一日とかからない。
 森の中を入り込んでいくにつれて、枝葉に覆われた天井は、黄緑から深緑へと変わっ

77 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:24 ID:X8Cs0z6E
ていった。地面には柔らかな腐葉土が敷き詰められ、道の外には木の根が突き出て、
その陰からは、さまざまな動物たちが興味深そうに馬車を覗き見ていた。どうやら、
この森の住人は人間を恐れないらしい。
 可愛らしい森の小動物を見つけては、少女たちは興奮していたし、鳥のさえずる声を
聴いては、その真似をして遊んだ。
 女が茸狩りを提案すると、反対する理由など持ち合わせていない少年たちは、すぐさ
ま馬車を飛び降りて、森の中に分け入った。
 ふんわりと膨らんだスカートは樹木の間をくぐり抜けるのにはとても邪魔くさかった
ので、ハルナとユリアは少年の服を借りて、それに着替えた。
 少し歩くだけで、沢山の茸を見つけることが出来た。地味な色合いのものから、毒々
しいまでに色鮮やかな茸まで様々である。そのうち、食べられるものだけをバスケット
に摘むと、次の茸を探して彷徨った。
 茸を採り飽きた少年たちは、次いで木の実を探し始めた。
 ユリアはリスと気が合うのではないかと思うほどに、どんぐりをたくさん拾い、ハル
ナは小動物たちを捕まえようと駆けずり回った。
 ふと少年が見上げると、橙色をした拳ほどの大きさの実が、木にぶら下がっていた。
 興味を惹かれた少年は、採ってやろうとその木を登った。手を伸ばして身を乗り出す
と、葉と葉の間から、隠れていたものが覗く。
「いっぱい生ってるよ!」少年は興奮気味に声を上げ、さらに高いところまでよじ登っ
た。「ハルナもおいでよ!」
 少女は木を視線でなぞってみた。自分の三人分、いや四人分は悠に越える高さに少年
は座っている。これをいとも簡単に登って見せたのだ。
 木の上で、小鳥と会話する夢は幾度となく見たが、覚める度にがっかりしたものだっ
た。負けてはいられない。今はスカートを穿いていないのだし、後込む理由は見つから
なかった。大股を開いても問題ないのである。
 気が付けばよじ登っていた。少年と同じ枝に腰掛ける。
 夢で見た以上に素敵な光景だった。枝葉の間から差し込む光が、地面に鮮やかな模様
を描いており、遠くを見渡せば、雛に餌をやる親鳥の姿を見ることができる。
 二人は揃って見下ろし、手を降った。
 落ちはしないかと冷や汗をかいたユリアをよそに、女は大きく手を振り、実をよこす

78 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:25 ID:X8Cs0z6E
ように言った。
 投げ下ろされた橙色の実を受け取ると、皮を剥いて口に運んで見せる。
 木の上の二人は、笑顔を見合わせた。
「こうやって、皮を剥くんだね」
「ええ、私も一つ。これはユリアに」
 一つユリアに投げ下ろしてやり、少女は皮を剥いて口に運んだ。
「おいしい! ――わわっ」思わず飛び上がった少女は、枝の上で体を滑らせた。
「危ないなあ、もう」と言って、少年が少女を支えてやる。
「ひっくり返るほど、美味しかったんですもの」少女はくすりと笑った。
 甘酸っぱさに顔をすぼめたり、甘さで落ちそうになる頬を押さえたり、危なっかしく
よろめいたりと少女は上気していた。
 持てるだけの実を採った少年たちは、満足顔で馬車に戻った。
 小川で茸を洗い、ついでに魚を釣って昼飯に備えた。
 ユリアがただ直火であぶっただけなのに、皆舌鼓を打った。
 昼下がり、馬車は変わらず森の中を進んでいった。やがて天井は緑と赤の斑模様を描
き、しばらくして森は闇に包まれていく。早めの夕食を馬車の中で済ませた少年たちは、
夜が更けるまで馬車を走らせたのである。

 やはり一番に目を覚ましたのは少年だった。
 体を起こして馬車が揺れると、両手で寝ていた二人の少女も目を覚ました。
「あ、ごめんね。起こしちゃった」
 三人は朝の挨拶を交わし、外へ出た。
 陽の差す天井は緑色の宝石のように輝いて、小鳥たちが賞賛するように鳴いている。
 朝食の準備は二人に任せ、少年は女を起こしに馭者席へと向かった。
 窮屈そうに寝ている女の肩を揺すったが、女は唸るばかりで目を開けようとしない。
 根気強く揺らしていると、目ではなく、口を開いた。
「私はまだ寝る――」
 女は拒むようにうつ伏せたので、少年は少しばかり腹を立てた。
 何としても起こしてやると意気込み、もっと広いところで大きく揺さぶろうと、女を
抱きかかえて馬車の中へと移ったのである。が、それは大きな間違いであった。

79 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:25 ID:X8Cs0z6E
 女が馬車の中に転がされようとしたとき、咄嗟に少年の体を絡めとり、抱き枕にして
しまったのだ。
「離してください! 起きてください!」
 必死に訴えかけるも虚しく、女はただ唸るだけで、この抱き枕を放そうとはしない。
それどころか、いっそう強く抱きしめて心地よさそうな寝顔をしたのである。
 少年は、それから一時間ほど窮屈な思いを強いられたが、解放されたときの女の寝ぼ
け顔が実にいい表情だったので、責める気にはなれなかった。
 馬車は元気よく走り出したが、少年はうなだれていた。
「ルイくん。元気を出してくださいな」
「そんなこと言われたって、お館さまに元気を吸い取られたような気がするんだ。見て
ないで、助けてくれたってよかったのに――」
 少年は口を尖らせてこぼしたが、少女は口元を隠して笑った。
「だって、シャーロットさまがとても幸せそうなんですもの。ねえ、ユリア?」
 馭者席からは肯定の返事が返ってきた。
「素晴らしい抱き枕だったぞ。どれ、今度はお前たちにも貸してやろうか」
 二人は顔を見合わせて笑っている。ユリアの笑い声も混じっていた。
(これだから、女の人って――)少年は絶望した。
 ひとしきり笑い終えた女は、思い出したように口を開いた。
「もうそろそろ関所に着くだろう。ちゃんと通行証はあるな?」
 少女はバスケットの中を探り、一つの便箋を取り出した。
「ええ、この通りですわ。――もうすぐですのね」少女は俯いて瞳を睫毛で隠した。
「嫌か?」女が心配そうに尋ねる。
「いいえ、そんなことはありません。私が王妃となれば、ルーディアとの関係がより穏
やかになるはずですもの」
 それは希望的観測に過ぎないとは思ったが、女は口をつぐんだ。
「でも、ハルナがルーディアに行っちゃったら、すごくさみしいよ。それに王子さまは、
すでに婚約者がいるのにハルナをお嫁さんに貰おうとしてるんだから、欲張りすぎるよ
ね。ぼくだって、お嫁さん欲しいのにさ」
 はっとした女は、すぐさま問いただした。
「ちょっと待て。王子には婚約者がいる、だと? どこでそんな話を仕入れたのだ」

80 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:25 ID:X8Cs0z6E
 少年は、女の態度に一瞬首を傾げた。
「このあいだの舞踏会です。すでに婚約しているってリーナが言っていましたよ」
「リーナ?」
「はい。ぼくと同じくらいの年の女の子です。一緒に踊ったりしたんだ。――ほかにも、
イディオットって人に会いました」
「イディオット王子!」ハルナが声高に叫んだ。
「そんなはずはありません。今はルーディア城で私を待っておられるはずです」
「確かに。――イディオット王子はどんな背格好をしていたか、言えるかい?」
「えっと、すごくでぶっちょで、ヘレナ王女って人を探しながらのしのし歩いてました。
その人はすっごく可愛いんだって言ってましたよ。やっぱり、女の子はみんな可愛いの
かな? だってハルナもユリアもリーナも、すっごく可愛いんだから」少年は呑気に笑った。
 馭者席のユリアは、自分の名前が含まれていることに驚き、ひそかに頬を赤くした。
「ヘレナ王女を探していたと」
 ルーディア王家のことなど一つも知らぬはずの少年が、これだけ詳しく述べるのであ
る。信じるしかなかった。
 少女は声を上げずにいられない。
「信じられませんわ。まさか、ヘレナ王女とご婚約なさっているというの? ルーディ
アでは正妻を迎えるまで、愛妾を娶ることは出来ないはずですのに!」
 女は腕を組み、深く考え込んだ。「どうあれ、あの関所をくぐればはっきりするさ」
 遠目に見えていた関所は徐々に大きくなった。
 国境を隔てるには十分な大きさの砦が立ち、中央には馬車が二台ほど通れる幅の検問
所が設けてある。砦の両脇には長い障壁が立てられていて、検問所を通らなければ抜け
られないような仕組みになっていた。関所の前は木々も切り倒されて広くなってはいる
が、森はまだしばらく続いている。
 馬車が検問所の門の前まで近づくと、両脇に立っていたミレイ兵がそれを制して近づ
いてきた。「お疲れ様です。通行証を拝見します」
 ユリアは女から受け取った通行証を渡した。
「はい、結構です。長旅でお疲れでしょう、休んでいかれてはいかがですか?」
「どうします?」ユリアが女に尋ねた。
「休む必要は無いだろう」と言って、女は怪訝そうな顔をした。

81 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:25 ID:X8Cs0z6E
 ユリアが兵に伝えると、一歩下がって恭しくお辞儀をして、奥にいる兵に叫んだ。
「おーい。グリンメルス公の馬車がお通りになる」
 門が開かれ、その下をくぐった。大きな音を立て、後方で門が閉まる。
「妙だ」女が呟いた。
「何がですか?」きょとんとして少年が言う。
「どうしてグリンメルスの馬車だとわかったのだ?」
 少年は、内密にと言ったヘンゼルの言葉を思い出した。
「ユリア、速度を上げろ。――早く!」女は声高に叫んだ。
「え、え?」
 ユリアは言われるがままに手綱を振り上げようとしたが、突然役馬が反り返り、いな
ないた。馬車は大きく揺れ、急停止する。ユリアは悲鳴を上げた。
「どうした、ユリア!」
 大きな揺れにも関わらず、たちまち馭者席に身を乗り出した女は、愕然とした。
 馬車の前方には、先日対峙した怪物が這いずっており、緩んだ服を着た男たちが数人、
杖を振りかざして詠唱しているのである。
 さらに二体の怪物が地面の中から現れ、馬車に向かって触手を動かし始めた。
 女は舌打ちすると、馬車から飛び出した。「剣を持て! 私のそばに来るんだ」
 馬車の三人は素早く武器を携帯し、馭者席から女の元へと飛び移った。
 少年が馬車の後ろを確認する。
 関所の外壁に黒いものが巻きついており蠢いていた。その上では、先ほどまでミレイ
の軍服を着ていた兵が、同じように緩んだ服に実を包んで杖を振りかざしている。
「囲まれたか」
 道端の茂みからは、黒ずくめの男たちが次々と現れた。彼らは剣を携えている。
 女は警戒しながら、敵の人数を数えた。
(二十二人か――)額には冷や汗が浮かんだ。
 魔法使いは、接近戦において多人数を相手にすればするほど不利になる。包囲してい
る者たちは、女の二十二倍の詠唱が可能なのだ。
 女一人であるならば、難なく切り抜けることもできるだろう。空高く留まって魔法を
撃つこともできれば、自分以外の周囲の空間を消し去ることも出来た。
 しかし、女は守るべき者を三人も抱えているのである。

82 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:25 ID:X8Cs0z6E
 ノドルカで武器を揃えておいた事が不幸中の幸いだった。少年はもちろん、少女も剣
が相手ならば持ちこたえてくれるはずだ。
「ルイ、私はハルナを守る。お前はユリアを守るのだ。――できるな?」
 少年は真剣な眼差しで頷き身構えたが、剣を持った男たちはほとんど女の方へと飛び
掛り、少年に襲い掛かったのは五人であった。
 女は短く詠唱し、飛び掛ってきた男を投げ飛ばしては、別の男の顔に光弾を放った。
左手に炎を受け、襲い掛かる虫を焼き払う。さらに、数十本の氷の刃を形成し、女の周
りを舞わせて剣を弾いた。余裕が出来れば、すかさず少女たちの助太刀に飛ばしたのである。
 その間に、少女には怪物が襲い掛かっていた。それは三匹をして少女を絡めとろうと
触手を伸ばした。
 少女は剣を振り回して動き回っているうちに、女から離れてしまったが、再び近づい
ている余裕はなかった。防戦一方で、女の助太刀無しに踏み込むことは出来ない。
 女の放った氷の刃が怪物を怯ませ、少女はすかさず踏み込んだ。
 勢いに乗せて脳天を貫くも、倒すには至らない。気味の悪い感触を伴って切り裂いた
が、すぐに再生してしまう。
 八人もの男たちを女が殺し終えていたころ、少年とユリアは一人倒していた。
 少年は、両脇から襲い掛かる敵の剣を腕輪と短剣で受け止め、逃げ回っていたユリア
がその隙を突き、男の脇腹に剣を突きたてたのである。
 一人を倒しても、戦況は変わらない。相手は虫を使って立ち回ってくる。
 関所に張り付いていた無数の虫たちが一斉に飛び立ち、少年に向かってくる。
 さらに一人を殺し、後方からの剣閃を弾いたとき、少年は凄まじい羽音を耳にした。
 大量の虫が次々と少年の体にまとわりつき、動きを邪魔してくる。
 一人はユリアが抑えていたが、少年めがけて二人の男が両脇から迫ってきた。
 足を動かそうとしたが、糸が絡みついて動かせない。少年にしがみついている虫たち
は、殻のようになって体を覆っている。腕を動かすことで精一杯だった。
 二対一の鍔迫り合いとなった。大人二人を相手に力で敵うはずはなく、少しずつだが、
押し負けてしまう。それでも地面を強く踏み、耐え抜いていた。
 少年の耳にユリアの短い悲鳴が届いた。しかし、駆けつけてやることは出来ない。
 その悲鳴は女の耳にも届いていた。立ち回りながら目を遣ると、視界の端に、虫に囲
まれ追い詰められている少年の姿があった。その背後に忍び寄る影がある。

83 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:26 ID:X8Cs0z6E
 ユリアを突き飛ばして気絶させた男が、少年を刺しに向かっていたのである。
「ルイ!」
 叫んでも少年は気付かない。背後から迫る男は、ゆっくりと少年の影を踏んだ。
 女はなりふり構わず少年の元へと走った。
 残った三本の氷刃のうち、二本を少年の両脇にいる男に飛ばして仕留め、もう一本を
少年の背後の男に突き刺した。
 しかし、一瞬怯ませただけで、剣を振り上げる動作を止められなかったのである。
 追撃している暇はなかった。走り寄るほか無い。
 あと一歩のところまで駆け寄り、拳に力を込めた。
(あの剣が逸れればよいのだ。ぶん殴って、それから殺してやる)
 こぶしを握り締め、地面を蹴る。
 何故、一歩の距離がこれほどまでに遠いのか。女にはその距離が無限にも感じられた。
 届くか、届かぬかが問題であり、一歩と百歩に何ら変わりは無い。ただ、あと一歩で
あるという点において、女は不幸だったかもしれない。少年の小さな背中に凶刃が突き
刺ささる様子を間近で目の当たりにしなければならなかったのである。
 音も無く少年の小さな背中に剣が突き刺さった。引き抜かれると、鮮血が飛び散った。
返り血で、女の頬は生温く濡れた。
 男は高笑いをして、その場に倒れた。
 時間は残酷だった。悲惨であるほど時間は徐ら流れ、胸を抉る。押し寄せる悲しみが
大きすぎて、女は思考も出来なかった。
 敵を突き飛ばし、前のめりに崩れ落ちる少年の体を抱き、顔を見た。
 無意識に涙が浮かぶ。それは受けた血と混じりあって、薄紅色に滴った。
(私の可愛いルイ――)
 女は蝋人形のように動かず、ただ涙を流していた。
 無防備な姿を晒そうと、少年を抱きしめたまま体は動かない。
 敵がその隙を逃すはずがなかった。
「うっ」女の首元に鈍い痛みが走った。痺れが体中に広がっていく。
 女の体が少年の上に崩れ落ちる。横目にぼんやりと、下卑た含笑の男が映った。その
顔を目に焼き付け、少年を抱きしめたまま、女の意識は薄れていった。
 女が陥落しては、決着はついたようなものだった。

84 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:26 ID:X8Cs0z6E
 辺りを見回す余裕のなかった少女は、自分一人が残されていることなど気付きもしな
かった。とにかく自分の身さえ守っておけば、女の魔法がどうにかしてくれるとばかり
思い込んでいた。が、期待は大きく外れた。女の助太刀どころか、それまで女が抑えて
いた連中はすべて少女に狙いを定め、掴みかかったのである。
 いたいけな少女を相手に男と怪物が情け容赦なく襲い掛かる。
 とうとう触手に腕を絡め取られ、少女の体が宙に浮いた。
 柄を握る手が緩み、場違いなほどに澄んだ金属音をたてて、剣が地面に横たわった。
「そんな――」
 覚えず漏れた言葉は、怪物に飲み込まれようとしている自分を嘆いたわけではない。
 見下ろす光景の中に、女とその腕に抱かれた少年が、血の海の中に沈んでいた。


 無人となり、堅く閉ざされた国境関門の前方に、閑散とした一本道が伸びていた。
 その上に横たわる二つの人影のうち、片方の女の子が体を起こす。
 立ち上がると視界が真っ白になり、再び意識が飛びそうになったが、目を強く瞑って
ゆっくり開くと、眩暈はすぐに引いた。体の異変といえばそれだけで、特に軋むところ
は無く、かすり傷の一つや二つが見つかるだけでほとんど無傷といってよかった。
 ただ、記憶が少し混乱していたので辺りを見回した。遠くの関所は静かに聳えており、
馬車は何事もなかったかのようにそこにある。
 少女の姿も、女の姿も無い。だが、その中に一つ、血の海の中に横たわる小さな男の
子の姿があった。
 記憶が正常に戻る。すぐさま少年のもとへと駆け寄った。
 少年の背中は血でべっとりと濡れており、抱き起こしたユリアの腕は血まみれになった。
 その上、傷は腹にまで貫通しており、ユリアの服にまで血が染み込んだのである。
 一見するに、その傷は絶望的なものだった。だが、腕には確かな温もりと、規則正し
い脈動が伝わっている。
 生きている。浸れるほどに出血していても、生きているのだ。
 ユリアは少年にすがるようにして、その名を呼び続けた。
「――ユリア?」
 一瞬、体が固まった。自分の幻聴でなければ、その声は確かに少年のものだ。

85 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:26 ID:X8Cs0z6E
 抱きしめる腕を緩めて少年の顔を見た。
 その目は開き、ユリアを見つめていた。名を呼んだのは、本当に少年だったのである。
 ユリアの目元に大粒の涙が浮かんだ。
「よかった。ルイさままで死んでしまったら、私――」
 少年はひりひりと痛む背中の傷を我慢して、ユリアに微笑みかけた。
「なんか気絶しちゃってたみたい」
 このような間の抜けた言葉でも、ユリアにとっては十分だった。
 とうとう声を上げて泣き出して、少年をきつく抱きしめたのである。
 抱きしめられる力が強くなると、背中の傷が鈍く痛み、血がこぽこぽと流れ落ちた。
我慢できる程度だったが、少年は少しばかり大げさに声を上げてみた。
「あうっ」
 ユリアは大慌てで手を離した。「ああ! ごめんなさい、私ったら」
 申し訳無さそうに顔を覗き込むと、少年はだらしない笑顔をつくった。
「お手当ていたします」ユリアは頬を赤らめて涙を拭い、小さく咳払いをした。
 ユリアは頬を上気させながらも少年の服を脱がせ、傷の小さそうな腹部から手当をす
ることにした。
 ちぎった袖に水筒の水をつけて、生乾きになっている血の塊を拭き取ろうとした。
「あれ? 傷がありませんね」ユリアは不思議に思った。
 少年の服は前も後ろも血が染み込んでおり、腹部は血まみれになっているというのに、
傷が無いのである。きれいに拭き取ってみると、傷跡すら無かった。
「雷さまが取っていっちゃったのかな」これまたおかしなことを口走る少年である。
「へ?」ユリアが頓狂な声を上げる。
「ぼくは覚えていないんだけど、ちっちゃいころに、おへそを雷さまにとられちゃった
んだよ。お館さまが言ってた」
 確かめると、本当にへそが無い。ユリアは腕を組み、顔をしかめた。
 雷がへそを取るなんて、女の作り話であることは明らかであるし、傷まで取るという
話は聞いたことがない。そもそも、雷などどこに落ちていないではないか。
 けれども、実際に少年のつるつるの腹を見ていると、雷の迷信を信じざるを得なかった。
 珍しいこともあるものだと納得したユリアの柔軟さは、おそらく彼女の長所であろう。
 ユリアは次いで背中を手当てした。血は既に止まっていたが、傷は大きいものだった。

86 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:26 ID:X8Cs0z6E
 見ている方が痛くなるほどの傷に躊躇したが、勇気を振り絞って傷口を洗った。血に
濡れて着られなくなった少年の服を帯状に裂き、腰に巻いて傷口を圧迫したのである。
 少し刺激するだけで走る鈍い痛みを我慢しながら、少年は言った。
「ねえ、お館さまとハルナはどこ? ご飯の準備をしているのかな」
 ユリアの手が止まった。少年は、二人ともここにはいないということを知らないのだ。
 少年が助かったという事ばかりに気をとられて、二人のことは何も考えられなかった。
あまりに元気な少年の姿を見て、救われた気さえしていたのである。
 しかし、ここには誰もいない。死体すら無い。始末されてしまったのか、それとも
連れ去られてしまったのか、それすら不明である。明らかなのは、二人だけが取り残
されてしまったという事実だけだった。それは、潰れそうなほどに重たくのしかかった。
 ユリアの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちた。
 少年は泣かれる理由が分からず、慌ててユリアの肩を抱いた。
「どうしたの? どこか痛むの?」
「――みんな、どこにもいないの」ユリアがヒステリックな声を上げた。「お嬢さまも、
シャーロットさまも、みんな殺されてしまったんだわ!」
「そんなこと、あるわけないよ」少年は当惑した。なんておかしなことを言うのだろう。
「どうしてそんなふうに言い切れるんですか! こんなところに二人だけ放り出されて、
私たちはどうすればいいの? ――きっと、何もできません」
 ユリアに迫るものを感じたが、慰める言葉が思いつかない。少年をきつく抱きしめて、
さめざめと泣くユリアの姿は、物悲しくて見ていられなかった。
 少年は、ユリアの頭をそっと撫でてあげた。
「大丈夫だよ」少年が静かに言った。「お館さまも、ハルナも殺されてなんかいないよ」
 少年の女に対する絶対的な信頼は、目の前から消えた程度では崩れない。
「そうでしょうか――」
「うん! だから迎えにいこうよ。馬車はぼくたちが持っているんだし」
「私たちに、できるでしょうか」ユリアが顔を上げた。
「できるよ。剣だってあるし、馬車だってある。それに、お腹がすいたらユリアがいる
じゃないか。だから大丈夫だよ。きっとぼくたちのことを待ってるよ」
 どうして言い切れるのかユリアには分からなかったが、ほんの少しだけ勇気が湧いた。
 ユリアは涙を拭って、立ち上がった。「私たちの力でお二人を助け出すのですね!」

87 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:27 ID:X8Cs0z6E
.
 それからの二人の行動は早かった。
 落ちている少年たちの剣をしまい、それぞれ服を着替えた。少年は深い傷を負ってい
るにもかかわらず元気に動きまわることができたので、二人で馭者席に座って交代しな
がら馬を操り、首都フーリアを目指したのである。
 フーリアまでは半日とかからなかった。
 幸いなことに、ヘンゼルの用意した旅費は馬車の中に残っており、それを使って適当
な宿をとることができた。窓からはルーディア城の大きな門が見て取れる。城壁はとて
も高く、登って忍び込むのは不可能であると見せ付けているかのようだ。
 一段落つけた二人は、作戦会議を始めた。
「これからどうすればいいのでしょう」とユリアが切り出した。
「ルーディアの王様に直談判して、探し出してもらおうよ」
「無理ですよ。お嬢さまのお供であるということを証明するものを私たちは何一つ持っ
ていないじゃないですか。私たちの言葉を信じてくれるとは思えません」
 そもそも、子ども二人が王に謁見できるわけがない。
「やっぱり、ぼくたちで迎えに行くしかないのかな」
「きっと虫使いのアジトに囚われているのでしょうから、忍び込んで救出するんです!」
「でも、虫使いはルーディア軍の一部だよ? 連れ込むならルーディア城じゃないかなあ」
「いいえ。王の勅令たる見合いを阻止しようとしているんですからね。人目のつくとこ
ろへ置くはずがありません。国家に造反するのに、隠れ家の一つや二つ持っていないは
ずがないでしょう」
「そっか。それじゃあ早速、そのアジトにいこうよ」
 話は早いとばかりに剣を持ち、少年は立ち上がった。
「待ってください。そのアジトがどこにあるか、わからないでしょう?」
「それなら、とりあえずルーディア城に行こうよ。兵隊さんなら、誰かきっと知ってる
よ。ぼく、敵から秘密を聞き出す方法をお館さまに教えてもらったことがあるんだ」
「どうやるんですか?」
「なんかね、爪をとってあげたり、虫歯を引っこ抜いてあげたりするんだって」
「それは拷問というのでは――」
「ごうもんって?」

88 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:27 ID:X8Cs0z6E
 ユリアは咳払いした。
「知らなくていいことです。それよりも、城の中に入るのは危険すぎると思うのですけど」
 ユリアは多少の危険は覚悟していたが、さすがに敵陣に正面から飛び込むことには抵
抗があった。犬死するかもしれないと思ったのである。
「ぼくにいい考えがあるよ」
 少年は得意気な顔をして、ユリアに耳打ちした。
「ルイさま、それはいくらなんでも無茶です」
「大丈夫! ユリアの腕なら絶対に成功するよ」
 少年はユリアに顔を近づけて微笑んだ。
 間近にある自信満々の笑顔に、ユリアは顔を真っ赤に染めて、大きく首を縦に振った。
すると額と額がぶつかって、慌てて顔を背けた。
 そして小さく咳払いをして言った。「善は急げ、です!」
 ユリアは急に立ち上がると、部屋を出て行った。
「あ、待ってよ」少年は慌ててユリアの後を追いかけた。


 女は右手で全身の傷を庇いつつ、左手の剣を竜の鼻先に突きつけた。腕の傷口から剣
先へと血が伝う。
「今、殺してやる」
 竜は地面に横たわったまま、体を上下させて苦しそうに呼吸している。大きな血の塊
を吐き出して、虚ろな目でひとりごちた。
「ああ、私の赤ちゃん。どこへ行ってしまったの、私の赤ちゃん」
 竜の目からぽたぽたと大きな涙が零れ落ちた。
「ここにはいない。探す場所も方法も間違えたのだ。なぜこんなことになったのかなん
て知らないし、言い訳なんて聞きたくもない! ただ、自分の罪を知れ」
 苦しそうに頷いて、竜は言った。
「聞こえます。命の消える音、すすり泣く声、悲鳴、嗚咽――。これが私のしたことな
のですね。捕食者でもない私が、愛すべき人間を殺したのですね。なんて愚かなこと。
何の罪もない人間を虐殺し、私の赤ちゃんすらもなくしてしまうなんて」竜の涙が地面
を湿らせる。「ありがとう。最後に正気を取り戻すことが出来たのはあなたのおかげ。

89 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:27 ID:X8Cs0z6E
私を処刑することができるのもあなただけです」
「最後に言いたいことがあれば聞こう」
「もし、あなたが今後私の赤ちゃんを見つけることがあれば、名付け親になって欲しい。
そして、その子の行く末を見守って欲しい」
「ならば、私はお前が愛するべき分だけその子を愛そう。種族など関係ない」
「ありがとう」
 女は最後にひとつ詠唱し、竜に止めを刺した。
 竜の体が静かに光り、だんだんと色が薄れて透き通っていく。それはふわりと浮かぶ
ように、空気に溶け込んでいった。
 何もなくなったその場所に、最後に二つ、黒と赤の大きな石ころが転がっていた。
 女はそれを拾い上げた。
「竜玉髄――竜の生きた証、か」
 雨が降り始める。
 女は膝を突いた。うずくまり、大きな二つの粒を抱きしめて泣いた。

 竜を打ち滅ぼした女は、痛む肩を抱えながら、森の中を進んでいた。
 女は父親を失った。血の繋がりは無いけれども、悪戯っ子だった女を目一杯に可愛が
ってくれた両親の片割れを理不尽にも奪われてしまったのである。
 ノドルカを襲った竜はもういない。だが、町には大きな爪痕が残っていた。
 村中の建物は打ち壊され、恋人を失った者は亡骸の前で目を腫らし、家族を失って残
された者は寄り添って泣いていた。どうして、どうしてと答えの出ない自問を繰り返し
ている者もいる。竜を相手にちっぽけな人間が太刀打ちできるはずも無く、竜の意志な
らば仕方が無いと、逃げ回る気力すら湧く者はいなかった。
 唯一の例外が、女とその友人たちだった。竜に対する信仰心の薄かった彼らは、報復
せんと立ち上がったのである。
 まともに戦えたのは女だけだった。友の剣を携え、竜を打ち滅ぼした。
 思えば失ったものばかりで、何の感慨も無い。先ほどまで逆上していた女の気はすっ
かり冷めて、ただ漠然と悲しみが残っているだけだった。
 竜を殺しても父親は帰ってこない。手元には竜玉髄と、叩き折った牙だけが残っている。
 こんなものが何になる? どれだけの貨幣価値があろうとも、それが命に代わること

90 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:27 ID:X8Cs0z6E
はない。魔法も同じだ。殺すことは出来ても、死人を蘇らせる事など出来ない。そんな
魔法が存在すれば、どんなに救われることだろう。死んだ父親も、友人たちも、生き返
らせることが出来ればどれだけ幸せだろう。
 考えるだけ無駄だった。
 ぽろぽろと零れ落ちる涙は、雨垂れに紛れて消えていく。
 ノドルカに戻るつもりは無かった。
 父親の亡骸にすがり付いて泣きじゃくるドルシラの姿も、何もかも見たくない。降り
かかった現実があまりに悲しくて、逃げられるものなら逃げたかった。このままひっそ
りと森の奥に迷い込んで、死んでしまえばいい。
 真っ黒な地面が広がり、その上に沢山の木々が生えている。豪雨のせいで、目には二、
三本の木しか映らないほど視界が悪い。それでも足は止まることなく歩き続けた。足場
は悪く、何度も足を取られた。歩けば歩くほど体の傷は増えていく。それでも気になら
ないほど、心の中には大きな穴が開いていた。
 木の根につまづいて、うつ伏せに倒れた。手からこぼれ落ちそうになった二つの玉髄
を握り締めた。
 雨を吸った土は柔らかい。
 女の泣き声は、大きな雨音にかき消された。
 泣き疲れた女は、しばらくの間そのままでいたが、ようやく立ち上がった。寝転んで
いるよりも、歩いているほうが楽であるような気がする。
 そうしてまた一歩踏み出そうとして前を見た。遠くに真っ白な空間が浮かんでいる。
悪い視界の中、一目で分かるほどに鮮やかな、魔力の靄である。
 急に心惹かれた女は、よろよろと靄に近づいていった。視線は常にその靄へ向けてい
たので、何本もの木々にぶつかり、何度も転んだ。
 靄の中に腕を差し込んでみると、何か温かいものに触れた。魔力が温かいのかとも思
ったが、やわらかな手触りがある。手で形を探り、靄の中から取り出した。
 女の腕に乗っていたのは赤ん坊だった。くりくりと大きな目をしていて、瞳は吸い込
まれそうな夜の色である。とても可愛らしい男の子だ。
 赤ん坊は、女の顔を見ると満面の笑みを浮かべた。だあだあと愛くるしい声をあげ、
女の顔に向かって腕を伸ばしている。
 まだ生まれたばかりだろうに、笑顔の作り方は知っていた。赤ん坊の笑顔は、女の悲

91 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:27 ID:X8Cs0z6E
しみを少しずつ削り取ってくれる。
 寒く無いようにと、抱きしめてやった。
 自分の魔法では誰も助けられなかった。竜を殺したのに、どうしても自分は無力であ
るようにしか思えない。
 何も知らないこの子の笑顔を壊したくなかった。村の皆の代わりに笑っているのだろう。
 壊すことしか出来ない自分の魔法で、この子の笑顔を守れるだろうか? この子を立
派に育てることができれば、償いになるだろうか?
 女は赤ん坊に、ルイと名付けた。


 買出しを済ませた少年たちは、宿の主人に交渉して台所を貸してもらった。刃物の備
品は貸し出せないと言われたので、ユリアは包丁の代わりに自分の短剣を取り出した。
もちろん、短剣は水でよく洗った。
 ユリアは体を強張らせていた。これほどまでに料理で緊張したことはない。失敗は許
されない料理など生まれて初めてのことである。宮廷の料理人は毎日がそうなのかもし
れないが、年端のいかぬユリアにとっては重過ぎる荷だった。
 旅の資金を全て使い、食材は手に入るかぎり最高級のものを用意した。
 まずは買ってきた牛肉の塊をまな板の上に置いた。それを指一本分ほどの厚さに切っ
ていく。短剣は非常に切れ味がよく、水を切るように肉を切ることができた。
「あら?」ユリアは切り落とした肉の断面を見て、異変に気付いた。「ルイさま、ちょ
っと来てください」
 ユリアの後ろでパンを切っていた少年に、肉の断面を見せた。
「すごい、焼けてるね」
「でしょう? どうやらこの短剣のせいみたいです」
 短剣を肉に当てて見せた。すると、美味しそうな肉の焼ける音とともに、食欲をそそ
る美味そうな香りが充満する。
「ほんとだ。――ちょっと見せて」
 少年はユリアに握られている短剣を隅々まで眺めてみた。刀身の樋には、古代文字が
刻まれており、うっすらと赤く光っている。
「わかった!」少年が嬉しそうに声を上げた。

92 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:28 ID:X8Cs0z6E
「古代文字だよ! この剣は、魔法の力でお肉を焼けるんだ」
「そんな、便利なお鍋みたいな力があるのでしょうか? それに、私は魔法が使えない
んですよ?」
「本当は、ユリアも魔法が使えたんじゃないかな。ちょっと、ぼくにも切らせて」
 少年が短剣を握り締め、牛肉に刃を当てようとした瞬間、「ぶわっ」と言って少年は
たじろいだ。短剣が大きな火を吹いたのである。その火は少年の顔を真っ黒焦げにした
ものの、咄嗟に剣から手を離したおかげで、火傷せずに済んだ。炎はすぐに止んだのである。
「うわー、びっくりしたなあ」
 ユリアは驚いて身を引いたが、すぐに煤だらけの少年の顔を見て吹きだした。
「ひどいお顔ですこと」
 ユリアはまだ使っていない台拭きで少年の顔を拭ってやった。
「ぼくにはこの短剣は向いてないみたいだね」
「そうですね。きっと私にしか使いこなせないんでしょう。だってこの剣、私と同じ名
前なんですもの」ユリアは満足そうに微笑みながら、次の作業に取り掛かった。
 先の騒動で肩の力が抜けたのか、ユリアはいつも通りの手つきに戻っている。
 切った肉に火を通した。中のほうは少しばかり赤みが残っていて、つつくとそこから
赤い肉汁が滴る。
 それからユリアはいろいろな調味料や野菜を組み合わせてソースを作った。少しばか
り匂いがきついのは、もちろん意図してのことである。
 ユリアは、肉をソースに浸しておき、次いで新鮮な野菜を適当な大きさに千切った。
野菜を切るときは手で切るのが一番美味しいのだ。
 少年の切ったパンは、一つ一つ太さが違ったが、ユリアはそれでも見栄えが良くなる
ようにはさむ食材に工夫をした。
 そして、たくさんのサンドイッチが出来上がった。
「さて、味見をしてみましょう」
 一つのサンドイッチを取り出して、ユリアは半分に割った。片方を少年に渡す。
「いただきます!」少年は大口を開けて、一口で平らげた。
 咀嚼していると、まるで天国にいるような気分になる。喉の奥を通り越すまでサンド
イッチを楽しんで、少年は溜めていた言葉を吐き出した。
「おいしい!」と叫んでもう一つのサンドイッチに手を伸ばした。

93 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:28 ID:X8Cs0z6E
 ユリアは少年の手を素早く弾く。
「だめですよ。私たちが食べてしまっては意味が無いでしょう?」
「そうだったよ。――残念だなあ」
 ユリアは優しい笑顔を作り、少年の頭をそっと撫でた。
「事が終われば、いつでも作ってあげますから」
「うん!」
 二人はサンドイッチをバスケットのなかに詰め、台所を後にした。
 宿を出て向かった先はもちろんルーディア城門である。そこには一人の門番がいるだ
けで、他に監視している者は居なかった。城壁にそれほどまでに自信があるのだろう。
「剣は持っていますね?」少年は頷いた。上着の中に短剣をしまい、隠すことの出来な
いハルナの剣を背負っている。背と変わらないほどに長いので、どうにも滑稽に映った。
「ユリアは?」
「ちゃんと隠し持っていますよ」
 お互いの決心を確認しあうように頷きあうと、門番のほうへ駆け出した。
 近くへ寄ると、城門と城壁がいかに高いものであるかが実感できた。よじ登って越え
ようとしても、途中で転落して死んでしまうだろう。
 門番は駆け寄った少年たちの姿を見て、鬱陶しそうな顔をした。こっちは疲れている
んだからとでも言いたげである。
 ユリアはそんな様子は気にもかけず、門番に話しかけた。
「お昼ご飯時だというのに、お疲れ様です。旦那さまに、お弁当を届けたいのですけれ
ど、どこへ行ったらいいのでしょうか?」
「駄目だ駄目だ。許可証の無いものを通すわけにはいかない。あっちへ行け」
 まるで聞く耳を持たぬ様子だったが、そんなことは想定済みのユリアは意に介さない。
「お姉ちゃん、おなかすいたよう」少年がユリアの袖を引っ張りながら言った。もちろ
ん手筈どおりである。
「もう、仕方の無い子ね」ユリアが少し頬を赤らめて言った。「これで我慢しなさい」
 少し背伸びをして、精一杯大人っぽくした口調で咎めると、抱えたバスケットのふた
を開けた。中からサンドイッチを一つ取りだし、半分に割ると、少年に差し出した。
 サンドイッチからは、ぽたぽたとソースが滴り落ち、甘辛そうな香りが辺りに広がっ
た。パンと肉の間からは野菜が飛び出して、その色の対比が見るものの食欲をそそる。

94 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:28 ID:X8Cs0z6E
 仏頂面で眺めていた門番も、無意識に鼻をひくひくと動かしていた。昼飯時なのに立
ち仕事をしているのだから、その胃が悲鳴をあげていたとしても不思議ではない。
 少年はサンドイッチを受け取ると、満足そうにほおばった。美味しそうな顔をして、
見せ付けるように咀嚼すると、じつに大げさな動きで飲み込んだのである。
 門番は少年の動きをいちいち目で追い、ごくりと唾を飲み込んだ。
 なんておいしそうに食べるのだろう。こっちは昼飯も食べていないというのに! 
とでも言いたげな門番を見て、ユリアはにやりとした。
「半分残っているけど、どうしましょう。――食べる?」
 少年は差し出されたサンドイッチを物欲しそうな目で見ながら、口では正反対のこと
を言った。「もうおなかいっぱいだよ。食べさしなんて旦那さまに出せないから、捨て
ちゃったほうがいいかもしれないね」
「そうね。捨てちゃいましょう」ユリアは放り投げようとして振りかぶった。
「ああ!」門番が頓狂な声を上げる。
「どうかしましたか?」
「いや、その――」門番はきまりが悪そうに腹を押さえて俯いた。
 少年がたたみかける。
「おかしな門番さんだね。おなかがすいているんじゃないのかな」
「こんな真昼間に苦しい立ち仕事ですもの」ユリアは門番を流し目で見た。
「でも、あげるわけにはいかないよね。お仕事中だもん」
「そうね。やっぱり捨ててしまいましょう」
 ユリアは左腕にバスケットをぶら下げたまま、大げさな動きで振りかぶった。ふたが
少し開いて、中にびっしりと詰められたサンドイッチが門番の目に入る。
 そんなものを見せられては、堪ったものではなかった。
「ま、待ってくれ! そのサンドイッチを俺にくれないか?」
 ユリアも少年も、顔を見合わせて小悪魔のように笑った。
「まさか、お仕事中の方に差し上げることなんてできませんよ。旦那さまに知れたら、
それこそ仕事の邪魔をしたと思われて、きっとお叱りを受けることになるでしょう。私
だって、捨てるよりは食べてもらったほうが嬉しいです。ああ、なんて残念なことなの
でしょう。お仕事中でないのでしたら、お譲りすることもできるというのに」
 ユリアは大きな身振りをして、悲しげに口ごもった。

95 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:28 ID:X8Cs0z6E
 門番は俯いてしばらく無言でいたが、突然、肩を揺らして笑い始めた。
「仕事中だから、か」
 少年は門番の正気を疑った。
「わかった、わかったよ。ここを通せばいいんだろう? お前は要するに、これが欲し
ければ私たちを通せと言いたかったわけだ。ああ、わかっている。そんなことはお見通
しなんだ。だけど、わかっているけれども、どうしようもないことだってこの世にはた
くさんあるんだよ。いけないとわかっていながら、友人の女に手を出したりする。腹が
減るっていうのはそういうことなんだ――」
 門番はユリアからサンドイッチを受け取ると、城壁にもたれかかってサンドイッチに
かぶりついた。彼は泣きそうな声で言った。「すごくうまいよ」
 ユリアは恭しくお礼を言って、バスケットの中からサンドイッチを三つ取り出し、門
番に握らせた。
 こうして少年たちは、城の中へ入ることができたのである。
 城内はとても広かった。本城らしき影ははるか遠くに浮かび、それ以外にも塔などの
沢山の建物がある。二人はそのまわりを歩き回っていった。
「そういえば、門番さん、なんだかすごく落ち込んでしまいましたね。私、なにか酷い
ことを言ったのでしょうか」
「ぼくたちの名演技に恐れ入ったのかもしれないよ」
「しっかり見破られていましたけれどね」ユリアはくすりと笑い、大きく一歩進んで少
年を見た。「さあ、気合いを入れて、お嬢さまたちを探しましょう!」
 少年たちは物陰に隠れて、それぞれの塔から出てくる人々を観察した。
 そうしているうちに、面白いことに気が付いた。塔の正面には何やら文字が書いてあ
り、そこから出てくる人たちの服の色が、同じ色に統一されている。今少年たちが観察
している塔には、赤い外套を羽織った人が出入りしているし、その前に観察していた塔
では、緑色の外套を着た人ばかりが現れた。二人は、何らかのグループが、その塔に割
り当てられているのだと推測した。もしそうであるならば、虫使いたちの塔もどこかに
あるはずだ。
「ここも違うようですね。なんだか広くて疲れましたし、ちょっと早いですけれど、こ
の辺りで夕飯にいたしませんか?」
 少年は待ってましたとばかりに鼻息を荒げ、先に見える木を指差した。

96 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:29 ID:X8Cs0z6E
「あそこの木の下で食べようよ。あそこなら、ついでにあの建物も見れるよ」
 木から離れた先には塔があった。
「それはいい考えですね」
 ユリアは大きく頷いて木陰まで駆け寄り、バスケットの中から敷物を出した。
 二人で大きな布の敷物を木の下に広げると、背負っていたハルナの長い剣は端に置き、
バスケットを囲むような形で座った。
 バスケットの蓋が開かれ、その輝かしきサンドイッチに少年の視線が釘付けになった。
「いただきます!」サンドイッチに負けないくらい、少年の目もきらきらと輝いていた。


 ハルナはベッドの上で目を覚ました。窓からは沈みかけた日の光が差し込み、少女の
目に飛び込んでくる。
「ここは?」
 ベッドから降りると、襲われた時と同じ服を着ていることがわかった。ところどころ
汚れていて、髪の毛もごわごわして気持ちが悪い。
 薄汚れた小さな部屋で、ベッドのほかには小さな引き出しのついた棚と、鏡台がある
だけだった。窓は開かないように細工してあり、外を眺めることしか出来なかった。
 少女はベッドに腰掛け、空を眺めていた。やわらかな夕日が、物思いに耽るのには丁
度よく、ここ数日間の思い出が浮かんでは消えていった。
 瞼の裏には、打ちのめされた少年たちの姿が焼きついている。自分だけが生き延びて
しまったのか、それともただ離れ離れになってしまっただけなのか、どちらにせよ原因
は自分にあるのだろう。巻き添えになってしまった少年たちのことを思うと、いたたま
れなくて涙が出そうになった。
 こんな自分が、とても情けなく思える。母親にこんな姿を見せようものならば、ひっ
ぱたかれて一喝されるに違いない。
 頬を一叩きしてみると、程よい痛みが全身を引き締めるような気がした。
 このようなとき何もしないことが最も愚かであると、母の血が囁いている。自分が原
因であるのなら、後始末は自分でしなくてはならない。自分の尻も拭えぬような者が、
どうして立派な淑女になれよう?
 そこへ、ドアの軋む音がした。

97 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:29 ID:X8Cs0z6E
「お目覚めか」
 振り向くと、見知らぬ男が入ってきていた。冷たい目をして少女を見、嘲け笑ってい
るようだ。少女は無性に腹が立った。
「淑女の寝室に入り込むなんて、恥を知りなさい!」
 少女が睨みつけると、男は表情を崩さずに肩を竦めた。
「これは失礼。あなたのことを淑女だとは認識していなかった」男は喉の奥で笑い、慇
懃に頭を下げた。「こんな部屋しか用意できなくて申し訳ないが、しばらくの間は我慢
していただこう。ここには男しかいないけれども、心配することは無い。丁重に『淑女』
として扱うことを誓う。あなたは我々の賓客だからな」
 再び喉の奥で笑うと、少女に背を向けた。
「待ちなさい。目的は何なのです?」
「大人しくしていれば、いずれ分かることだ」男は少女を一瞥し、去っていった。
 少女は閉まったドアをしばらく睨みつけていた。
いずれなんて言葉は、大人の都合の良い言い訳だ。いずれ分かることならば、事を起こ
せばすぐにでも分かるのかもしれないではないか。
 少女は憤然と立ち上がり、すぐに正面のドアから出て行こうとしたものの、外から鍵
が掛けられていて開かない。仕方なく、大人しくベッドの上に座って機会を待つことにした。
 しばらくして、別の男が食事を運んできた。
 グラス一杯の水に、パンとスープ。それらを小さな机の上に置くと、男は何も言わず
に部屋を出て行った。
 なるほど、これはチャンスである。連中は食事の面倒を見てくれるらしい。その時に
男を気絶させて、この部屋から脱出すればいいのだ。
 少女は部屋の中をあさり始めた。この場所から出るためには、何か武器になるものが
必要だ。鈍器が理想的であるが、棚も鏡台の中も空っぽで、見つけることは出来なかった。
 まさかその程度で諦める少女ではない。無いならば作り出せばいいだけのことである。
 はじめに、鏡台の脚を鈍器にしようと思い切り蹴飛ばしてみたものの、被害を受ける
のは少女の足だけだった。倒して踏み折ろうとも考えたが、鏡台は床に固定されていて
倒すことも出来ない。いくらがんばっても、少女の力では折れなかった。
 次に、少女は棚の引き出しを抜いてみたが、気付かれずに殴打するためには不便であ
る。少女はそれを鏡に叩きつけた。

98 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:29 ID:X8Cs0z6E
 大きな音を立てて鏡にひびが入る。予想以上の音が出たので、気付かれてはいないか
と冷や冷やしたものの、部屋に迫る足音は聞こえてこなかったので作業を続けることに
した。もう一度鏡を叩きつけると、床に大きな破片が転がった。
 破片はそれだけで人を殺せそうなほどに鋭利だったが、素手で持ったのでは自分の手
まで傷つけてしまいそうだった。シーツを引き裂き、破片の持つべき部分に巻きつけた。
 右手で掴むと、案外持ちやすく、自分の指が切れるという事もなさそうだった。
 少女は何回か素振りをしてみて、手に馴染ませた後、そのままにしておいたパンに手
をつけた。何事にも腹ごしらえは必要である。ユリアの作った食事のように美味しいわ
けではなかったが、残すことなく全て腹に収めた。
 壁に耳を澄まして待ち伏せていた。心臓は高鳴りっぱなしで、とても長い時間に感じ
られた。大事な賓客であるとは言われたものの、信用できたものではない。失敗すれば、
何をされるか分からないのである。
 頭の中で何度も倒す方法を考えていると、壁の奥で床の軋む音が聞こえてきた。食器
を取りに来たのだろう。
 少女は腰を屈めて破片を逆手に握り、左手を添えて身構えた。
 鍵の開く音がして、ドアノブが回る。破片を握る力が強くなった。
 ドアが開いて男が入ってきた途端、少女は飛び掛った。大きく振り上げた破片を首根
に突き刺したのである。破片はその反動で割れてしまった。
 しかし威力は絶大だった。喉を潰された男は、悲鳴を上げることもできずに床に倒れた。
 倒れたままのた打ち回っている男を引き出しで何度も殴りつけて動かなくさせると、
目が覚めても動けないようにシーツで縛り付けた。血の海をシーツでふき取った。
 少女は一息ついて額に浮かんだ汗を拭うと、部屋からそっと顔を覗かせた。
 廊下は右手に伸びているが長くはなく、この建物自体がそれほど大きいものではない
ということが分かる。廊下の突き当たりには階段が見えた。
 人の気配はしないので、慎重に部屋から踏み出した。ドアの前に立っては聞き耳を立
ててみたが、この階はどの部屋も無人であるようだった。どこも鍵がかかっている。
 今度は音を立てぬように、階段を下りていった。
 階下もまた同じような造りになっている。そして、廊下の真ん中辺りに外へとつなが
る大きな扉があった。階段があるべき突き当りには、他の部屋とは違う作りのドアがある。
 壁に背中をつけて、そっと廊下を進んで行った。中央の大きな扉を開けようとしてみ

99 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:29 ID:X8Cs0z6E
たが、鍵がかかっていて開けることは出来ない。
 その時である。がちゃりと音を立てて、外側からドアノブを動かす音がした。
(誰か来る!)少女は急いで階段のところまで駆け戻り、丁度置いてある箱の陰に隠れた。
 男は二人居るようだった。他に人の気配のないこの建物の中に、その声はよく響いた。
「アンブローズはどこに行った?」
「地下にいるんじゃないか。今頃、儀式の準備に取り掛かっているはずだ」
「一服してから俺たちも取り掛かるか? 出遅れたら取り分が無くなっちまうぜ」
「お前はどこを襲撃するんだっけ?」
「俺はイーリスだ。あそこの女は美人揃いだから、好き放題蹂躙してやるよ」
「お前に制圧される国は気の毒だな!」
 下卑た高笑いが建物の中に響いた。
 男たちが昇降口正面の部屋に入ると、少女はその扉に聞き耳を立てた。
「あの娘はどうするんだろう。黒玉髄が手に入った以上、ここに置いておく必要もない
だろう。殺すか?」
「傷つけるなと言われている。アンブローズの指示を待ったほうがいいだろう。奴も、
脅迫するつもりで連れ去ったのに、まさか本人が黒玉髄を持っていたなんて思いもしな
かっただろう」
 黒玉髄? はっとして胸に手を当ててみると、そこにあるはずのものがない。
 少女は唇を噛んだ。
 連中の言っている黒玉髄は、間違いなくあのお守りのネックレスについた黒い宝石の
事だ。取り返さなくてはならない。旅が終われば、あのお守りは役目を終え、いつもの
ように母親の胸に据えられていなくてはならないのだ。だが、武器になるものは何も無
い。聞き耳を立てて、情報を集めることに専念するしかなかった。
「笑いが止まらねえな。こんなに簡単に事が運ぶなんてよ」
「簡単じゃあなかったろう? 犠牲が多すぎた」
「そのおかげで、俺たちの取り分が増えたじゃないか」
「それもそうか」
 再び下卑た笑い声が響く。
「ちょいと、あの娘で遊んでくるか」
「馬鹿め。アンブローズに知れたらどうする?」

100 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:29 ID:X8Cs0z6E
「ばれやしないって。殴って黙らせておけばいいのさ」
「俺はどうなっても知らないからな」
 椅子から立ち上がる音がした。少女の聞き耳を立てている方向に足音が近づいてくる。
 このままでは抜け出したことがばれてしまう。仲間の一人がやられていることを知ら
れれば、あの男たちに何をされるかわからない。
 少女が立ち上がったその時である。昇降口で、がちゃりと音がした。
 外から部屋から人がやってくる。挟みうちだった。
 少女が咄嗟に思いついた逃げ方といえば、外から入ってくる者の油断と隙を突いて、
ドアから外に出るというものだった。窓から飛び出そうにも、助走を付けている余裕は無い。
 少女は大きく息を吸い込んだ。
「お前は!」
 部屋から出てきた男が大声をあげた。ほぼ同時に、外から人が入ってくる。
 あわせて四人の男たちが一斉に飛び掛ってきた。すかさず男の股の下を通り抜け、
外へと駆け出したのである。
「逃がすな、追え!」
 男たちの声に、少女は振り向いた。血相を変えて、四人の男たちが追いかけてくる。
 スカートを持ち上げ、息をするのも忘れて走った。とにかくこの場所から遠ざから
なくてはならない。視野はとても狭かったが、前方に大きな木と、その奥に人影が見
えた。さらにその奥には巨大な城壁が聳えている。
 振り向くと、男たちは確実に少女との差を詰めてきていた。どうにか障害物を使う
しかないと考えたが、まさか、木の陰に隠れてやりすごせるはずもない。右へと方向
転換した。
 そのとき、少女の体がふわりと浮いた。
 足をもつれさせたまま、どさりと音をたてて体が地面に転がる。 
 すぐに起き上がって走り出そうとしたが、既に男たちに取り囲まれていた。
 少女は背中を掴まれ、そのまま地面に引き倒された。さらに後ろ手に縛られ、体を
地面に押し付けられた。後ろ髪を掴まれ、頭だけを持ち上げられる。
「お嬢ちゃんよお。悪戯が過ぎるんじゃねえのかい? 俺たちは、鬼ごっこの相手を
していられるほど暇じゃあないんだ」
 少女は負けじと男を睨みつけた。

101 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:30 ID:X8Cs0z6E
「汚らしい喋り方ですこと。その上、淑女の扱い方もご存じないようですわね」
「なんだと!」
 男は少女の顔を地面にたたきつけた。口々に汚い言葉を吐き、少女を踏みつける。
靴についた泥が少女の服を汚した。土が口の中に入り、むせて咳き込んだ。
 横腹を蹴られ、痛みで体が跳ね上がる。ふと前を見た。
 新たに二つの人影が見えた。男たちに比べると、それはひどく小さかった。

「ハルナから離れろ!」少年は声を張り上げ、男たちに飛び掛った。
 少年の目は、目じりが裂けるほどに見開かれ、噛み締めた歯からはぎりぎりと音がす
る。心の中は殺意すら抱くほどに煮えたぎっていた。
 大人たちが寄ってたかって、幼気な少女を相手に何をしている?
 少年は男たちの剣を次々に弾くと、一人の首に掴みかかり、脳天に短剣を突き刺した。
引き抜くと竜の如く咆哮を上げ、また別の男に飛び掛った。敵の刃が少年の腹や腕を傷
つけても、勢いは止まらない。
 少年が男たちをにひきつけている間、ユリアはハルナの剣を足元に置いて、後ろ手に
縛られていた少女を自由にした。
 少女は頭を抱え、ユリアの足元に落ちていた剣を杖に立ち上がった。背ほどある長さ
の剣は、手に吸い付くように馴染む。
「私も行くわ」
「いけません! そんな状態で何が出来るのです?」
「ルイくん一人に任せておくなんて、できないもの」少女は鞘から剣を抜いた。
「お嬢さま!」
「ユリアはそこにいなさい。私たちで、あの男たちを片付けるわ」
 渇望していた剣がこの手にある――。
 剣の樋に刻まれた古代文字が、根元から血を吸い上げているかのように真っ赤に光り
始めた。少しずつだが、体が軽くなっていくのが分かる。痛む体も気にならなくなるほ
どに気分が高揚した。
 ユリアに微笑みかけ、少女は男たちの中へと飛び込んだ。
 真っ赤に光る古代文字は、少女が剣を振るうたびに美しい残像を残した。
 今の少女にとって、男たちは鈍腕にしか思われない。飛んでくる刃を払い、重心を流

102 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:30 ID:X8Cs0z6E
すようにして攻撃に転じる。
 少年が一人の男の首根に短剣を突き刺そうとしている瞬間、少女は既に一人の男を袈
裟に斬り落としていた。
 残った男は二人の子どもに挟まれ、剣を突きつけられている。
 少女は男越しに少年を見た。返り血か、流血か、服は真っ赤に汚れていた。
 少年は短剣を左手に持ったまま男を睨みつけ、じりじりと距離を詰めた。
「待ってくれ、殺さないでくれ!」 男は子ども二人に対して、何度も同じ言葉を連呼
し、頭を地面にこすり付けて懇願している。「たのむ!」
 少年は足を止めて怪訝そうな顔をした。
 男は少女の方へと向きなおすと、同じように命乞いをした。
 少女はあまりに哀れなその姿にとまどい、剣をおろしかけた。
 男は地面の砂を掴むと、少女の顔に投げつけた。
 短く悲鳴を上げ、少女が剣を落とす。
 少年は咄嗟に男を仕留めようとしたが遅かった。男の腕は既に少女の首を捉え、人質
にとっていたのである。
「おっと、近づくなよ? 剣を捨てな。このお嬢ちゃんがどうなっても知らないぜ」
 少年は歯軋りをして立ち止まった。しぶしぶと短剣を地面に投げる。
「異変に気付いた仲間がやってくるのは時間の問題だよ。残念だったなあ。寂しくない
ように、三人とも同じ牢にぶち込んでやるから安心しろよ。いいや、同じ墓の間違いか
な?」男の卑しい笑い声が響く。「情けねえ連中だぜ。お前らがこいつらを始末してく
れたおかげで、また取り分が増えた」
「仲間が来るのを待っているくせに、仲間が死んだことを喜ぶのですか」少女が叫んだ。
 なんて下衆な男なのだろう。こんな奴に自分は捕まって、少年たちを巻き添いにしよ
うとしている。自分の不甲斐無さが許せない。
 しかし、どんなに暴れても首に巻きついた腕は外せないし、剣も無い。おまけに戦っ
ていたときには忘れていた体の痛みがぶり返してくる。
「おっと、あまりじたばたしないでくれよ、お嬢ちゃん? その脳天に風穴を開けて、
俺の魔力で虫のように扱き使うことだってできるんだぜ」
「やれるものならばやってみるといいわ。あなたのような魔法使い崩れに、そんなこと
ができるものですか」少女は吐き気を催して嫌悪した。

103 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:30 ID:X8Cs0z6E
「言うねえ、お嬢ちゃん」男は少女の首根に剣を突きつけた。
 少女の首筋を血が流れ落ちる。少女は唇を噛んだ。首の痛みよりも、胸の奥が痛む。
 時間が経てばこの下衆な男の仲間が駆けつけてくる。ただ捕まるだけならば、それか
ら打開策を練ってもいいだろう。だが、自分たちは三人も殺している。捕まって無事で
いられるはずがない。どうすればいい? 締め付ける腕を剥がすことも出来ない。剣を
拾うことも出来ない。爪を立てても動じない。
「俺たちは自力で魔法を使うことを諦めた。だけどな、魔法使い崩れなんて俺たちを罵
れるのは、魔法を知り尽くした人間だけなんだ。お嬢ちゃんは魔法が使えるってのかい?」
 少女ははっとした。ノドルカで見舞いに来た少年を思い出す。
「やってみなければわからないわ!」
 出来る限り腕を振り上げ、唯一知っている呪文を叫んだ。
 その長さ、わずか三音節。
 つと少女の体内に力が流れ、手の平から溢れ出す。鋭い光となって男の眼を焼き潰した。
「め、眼が――」男は腕を解き、眼をかばった。
 片手で眼を押さえ、もう一方を振りまわして混乱している。
 自由になった少女は剣を拾い上げ、男の腕ごと首を刎ねた。
 男の首が転がり、少年がそれを蹴飛ばした。
 少女は目を伏せた。
 ふと体の力が抜けて、地面に膝をつく。手の平に痺れるような感覚が残っていた。
 少女は意識を失った。

「ねえ、大丈夫?」
 少年に揺さぶられて、少女は目を覚ました。
「よかった。それにしてもびっくりしたよ。魔法、使えたんだね」
「無我夢中で私にも何が何だか――」
 ユリアは少女に飛びついた。
「お嬢さま! なんて馬鹿なことをなさるのです。魔法が使えていなかったら、今頃ど
うなっていたか――」ユリアは涙を流した。「でも、無事で本当に良かった」
「もう、ユリアは大げさね。私がそんな簡単にくたばるわけが無いでしょう?」
 少女はくすくすと笑った。

104 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:30 ID:X8Cs0z6E
「僕の言ったとおりだったでしょ。みんな生きてるんだよ。あとはお館さまだけだね!」
 ユリアは涙を拭って頷いた。
「それにしてもお腹すいたなあ。さっき、サンドイッチ食べ損ねちゃったんだよね」
 食べようと目を輝かせていたところに、追いかけられて捕まってしまったハルナの姿
が飛び込んできたのである。
「そうですね。休憩が必要です」
 サンドイッチのある場所まで戻ると、男たちの死体が木で隠れて見えないように敷物
を広げなおした。三人はバスケットを囲んで座った。
「なんだか血まみれになっちゃった」と少年が言った。全て返り血だった。
「水浴びをしたい気分ですわね。髪の毛もごわごわですし、服もどろどろ」
「早いところシャーロットさまに頼んで、薬湯を出してもらいましょう」
「そうだね。でも、その前に腹ごしらえだよ!」少年は舌なめずりをしてバスケットの
蓋を開けた。「持ってたお金を全部つぎ込んで作ったんだよ。ぼくもお手伝いしたんだ」
「さきほどパンをいただいたばかりなのですけど――いただきましょうか。なんだかお
腹がすいてきましたわ」
 三人は水筒の水で手をきれいにしてから、サンドイッチを手にした。
 真っ先に少年が口へと運び、それから少女たちが食べ始めた。
「おいしいね!」少年は咀嚼しながら嬉しそうに言った。「ハルナが見つかってよかっ
たよ。体は大丈夫なの?」
 少女は口元を隠しながら喋った。
「ええ。痛いところはたくさんありますけど、走り回るくらいどうってことないですわ。
お母さまのお守りを取り返さないといけませんし、弱音なんて吐いていられませんわよ」
「お嬢さまが大変なことになっていたというのに、私たちは呑気に夕飯を取ろうとして
いたのですね――」ユリアは申し訳なさそうにしている。
「いいのよ。もしここでご飯を食べずにこの場所を通り過ぎていたら、私のことは気付
いてもらえなかったでしょう」
「大人たちにいじめられてるんだもん。びっくりしたし、腹が立ったよ」
 少年はその光景を見るとすぐに短剣を抜いて飛び出し、ユリアはちゃんとバスケット
の蓋を閉めてから、少女の剣を抱えてそれを追いかけたのである。
「いきなりルイさまが飛び出すから何事かと思ったのですけれど、あの距離からお嬢さ

105 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:31 ID:X8Cs0z6E
まのことが分かるなんて、すごく目がいいんですね」
「そりゃ、ハルナは可愛いもん。見間違えるはずがないよ。ユリアだって見分けられるよ」
 少女は頬を赤らめて言った。「ありがとう、二人とも。本当に危ないところでしたのよ」
「お嬢さまをお守りするのが私たちの役目ですからね!」ユリアが声高に言った。
「あとはお館さまだけだね。さっさとつれて帰って、ドルシラさんのケーキを食べようよ」
 二人はくすくすと笑った。「ルイさまは食べることばかり」
 少年はだらしなく笑って後ろ頭を掻いた。
 三人は談笑をしながら、ゆったりとした夕飯の時間を過ごした。
 空は夕焼けから夜空に変わり、一番星が輝いた。得体の知れない敵地でさえ、三人揃
えば怖くない。もう一人揃えば無敵である。
「さあ、そろそろ参りましょう。シャーロットさまはきっと、あの建物の中にいます」
 少女が指差した建物をみて、少年は首をかしげた。
「どうして?」
「それくらいわかりますわ」少女は、少年をかばうようにうずくまっていた女の姿を思
い出した。「シャーロットさまのような美人を男たちが放っておくはずがありませんもの」
 ユリアは身震いした。触手に絡まれたことを思い出す。
「ああ、恐ろしい! 一刻も早く助け出さなくてはなりませんね。私と同じ思いはさせ
たくないですもの」
 ユリアは奮い立ち、スカートの中に隠しておいた短剣を腰に備えなおした。
「もう、ルイくんがいるというのに、はしたないわ」
「お嬢さま! そんな悠長なことを言っている場合ではありませんよ。ルイさまも、
準備はよろしいですか?」
「待って! 今全部食べちゃうから」
 バスケットに残った三つのサンドイッチを一口で平らげ、水筒の水を飲み干した。
「まあ、ルイさまったら」ユリアは少し嬉しそうな顔をした。
「よし、行こう!」
 少年と少女が立ち上がる。
「こっちですわ」
 少女を先頭に、三人は歩き出した。

106 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:31 ID:X8Cs0z6E
.
 開かれたままの扉をくぐり、三人は虫使いのアジトへと乗り込んだ。
 少女は壁に背をつけて、慎重に進んでいく。反して少年は、廊下の真ん中を堂々と通
った。ユリアは少年の腕を掴んでいる。
「ルイくん! もっと慎重に行動しないと、見つかってしまいますわよ」
「大丈夫だよ。誰もいないんだから」少年は奥のドアを指差した。「それでね、あそこ
から生ぬるい感じがするんだよ」
 ユリアは気味悪がって少年の腕にしがみついた。
「私は何も感じませんけれど」少女は背を壁につけたまま怪訝そうにドアを見つめた。
 少年がドアノブを握る。
 途端、ばちんと音がして少年の手が弾き返された。びっくりして後ずさった。
 少年にしがみついていたユリアが言う。「私にまでびりりときましたよ」
「魔法か何かがかかっているのかもしれないね」
 少女が慎重かつ大胆に少年のところまでやってきた。
「そんなもの、叩き斬ってやりますわ」
 こんな仕掛けがしてあるということは、先に何かがあるということだ。少女はそう確
信して剣を抜き、思い切って振り下ろした。
 大きな音を立てて、剣が弾き返される。何度やっても同じことだった。
「やっぱり、魔法で守ってあるんだわ」
「それならぼくの剣で切れるんじゃないかな。竜の牙はどんな魔法でも噛み砕いちゃう
んだよ」少年は得意気にそう言うと、短剣をドアに突き立てた。
 弾き返されることもなく、短剣はドアに突き刺さっている。
「ほらね!」少年はそのまま大きく長方形を描いて剣を滑らせ、ドアの中に通り口を作
った。「さあ、行こっか」
 ハルナもユリアも、目をぱちくりさせていた。
 ドアのすぐ奥には地下へと続く階段がある。三人はゆっくりと降りていった。
 少年の後ろで、女の子二人がひそひそと話をしている。
「ルイくんってやっぱりすごい人なのね」
 ユリアは自慢げに言った。
「私は一目見たときから存じておりましたよ。お嬢さまもそうでしょう?」

107 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:31 ID:X8Cs0z6E
「もう、ユリアったら!」少女は口元を隠して笑った。
 ユリアもくすくすと笑った。
「なんだかじめじめしていて気持ち悪いね」
 少年が振り向いたので、二人は咳払いをして真顔を作り直した。
 階段を降りきると、一本道が続いていた。建物の廊下というよりは洞窟に近い。
 真っ暗なので少年の出した灯りを頼りに進んだ。少女も灯りを出そうとしたが、うま
くいかなかった。
 どこへ向かっているのか見当もつかなかった。行く先にはまた扉が現れた。
 扉の奥は大きな部屋になっていた。
 あまりの生臭さに、三人は鼻を庇った。
 見渡すと、腐った管虫の屍骸や、元の虫が何だったかも分からぬほどに変形した虫の
屍骸があたりに転がっている。壁際には水槽が置いてあり、中にぼうふらが湧いている。
別の水槽には、魚と虫の混じったような、奇妙な生物が泳いでいた。
 部屋の奥には扉があり、その上に白く大きな繭があった。少年たち三人は用意に中に
入れそうなほどの大きさがある。
「あれを見て。大きなちょうちょでも出てくるのかなあ」
「繭から出てくるのは蛾だと思いますわ」
「蜘蛛とかも繭を作るよね。でっかい蜘蛛が出てきたらびっくりするなあ」
「もう、やめてください、二人とも!」ユリアが話を遮った。「そんなことよりも奥へ
進みましょう」
「そうだね。早くお館さまを見つけなきゃ」
 少年たちは一度ノックしてから扉を開けた。


 地下の奥深くで、虫使いたちは仕上げに取りかかっていた。
「まずは我々を虚仮にしたルーディア王家を滅ぼしてやる」
「月が出始めたようだ。ちと人が少ないが、始めるとしよう」
 大きな杯を囲んでいる男たちは、次々と手首を切った。四人の血が杯を満たしていく。
 ある程度溜まると、黒い宝石をその中に沈めた。黒玉髄である。
「魂と血、それらを我らの魔力が繋ぐ。これでいいんだな? アンブローズ」

108 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:32 ID:X8Cs0z6E
 三人の視線が集まり、アンブローズと呼ばれた男はにやりとした。
「ここには全ての材料が揃っている」
「ならば始めよう」
 三人が杯の上に手をかざすと、アンブローズもそれに続いた。
 男たちは目を瞑り、詠唱が始まる。四つの手首からは尚、血が滴り落ちている。
 詠唱を聞いていたアンブローズはくつくつと笑った。
「何がおかしい?」男の詠唱が中断する。
「余りにも滑稽なので、つい」
 アンブローズは大きく口元を歪めると、素早く剣を抜き、詠唱しながら隣の男に突き
立てた。刺された男はその場に倒れた。
 アンブローズの詠唱に呼応して、地面から触手が伸びた。残った二人の男に絡みつく。
 不意にがんじがらめにされた男たちは、不可解そうにアンブローズを見た。
「何のつもりだ!」
「血と魂だけで命が蘇るとでも思っているのか? 眼、耳、鼻、歯、それに四肢も、
内蔵も足りていない。愚だな。――だが、材料はすべてここに揃っている」
 アンブローズは冷笑して、刺し殺した男を見下ろした。
「まずは眼だ」
 男の死体から眼球を抉り取り、杯の中に放り込んだ。次いで歯を叩き折る。
 短く詠唱をして触手を操り、絡みとったもう一人の男の腕を伸ばした。
 男は悲鳴を上げて暴れた。抵抗して詠唱しようとすると、口の中に触手が入り込む。
 斬りおとされた男の腕が杯の中へ放り込まれた。
 男は腕の切断面から大量の血を流し、青くなりながら涙や鼻水を垂らしている。
「一人の人間から材料を調達するのはあまりよろしくないことだ。その人の我が残って
しまうからな。三人しか材料に使えないのは予定外だったよ。ちょいと濃くなってしま
うが、仕方がない」
 アンブローズは二人の男を解体し、次々と杯の中へ放り込んでいった。
 一通りの作業を終えて額の汗を拭う。次いで無傷でとっておいた男と向き合った。
 彼はがくがくと震えて失禁している。
「最後に足りない物は、きみが補うのだよ」アンブローズが嗤いかける。
「あの女を使えばいいじゃないか! たのむ、見逃してくれ――」

109 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:32 ID:X8Cs0z6E
 泣きながらすがりつく様子は何とも哀れである。
「まさか、あれは私の妻になるのだよ」
 アンブローズは男の頭を鷲掴みにして静かに詠唱を始めた。
 男に絡み付いている触手から細い管が伸び、体の中に進入していく。皮膚の下を這っ
て全身にまわっていった。
 別の呪文を唱えると、男の皮膚が膨張して弾け飛んだ。真っ赤な肉が一瞬見えたあと、
皮膚の代わりに、男の全身には、黒に近い緑の鱗が形成された。
 男は既に死んでいる。
「甲虫の殻と同じ成分でできた紛い物の鱗。丁度いい」
 アンブローズは鱗を剥ぎ取って、杯の中に放り込んだ。
 ドアを叩く音がする。
「おや、来客だ」アンブローズは面白そうに笑った。


 抜けた先にある部屋は、とてもだだっ広いものだった。やはり腐臭に満ちている。
 ユリアはゆっくりと辺りを見回して、口元を覆った。光景が余りに凄惨だった。
「なにこれ――」少女は顔を顰めた。
 大きな部屋中に血が飛び散り、あたりに肉塊が転がっている。皮の剥かれた片方だけ
の足や腕、眼窩が剥き出しで、半分ほどしか残っていない生首――。
 あまりに異形で、三人には何なのかがわからなかったのは幸いだった。
 変なものが転がっている。そう思えたのである。
 部屋の奥には男が立っていた。
 少年たちのことをしばらく見ていたが、徐に歩み寄ってきた。
「おやおや、坊やたち、何かご用かな? それに、小さなご淑女さんは部屋で大人しく
していないとお叱りを受けますよ?」小馬鹿にしたような口調である。
 少女にはこの男に見覚えがあった。
「あなたが親玉だったのね!」少女は鋭い視線を向け、剣の柄を握り締めた。「お母さ
まの宝石を返しなさい! あなたが持っていることは知っています!」
「おやおや、淑女どのがそういきり立っては台無しですよ」アンブローズは嘲笑している。
 そんな少女の前に少年が歩み出た。

110 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:32 ID:X8Cs0z6E
「ぼくたち、お館さまを探しているんです。どこにいるか知りませんか?」
 少年が馬鹿正直に言うと、アンブローズは笑った。
「お館さまというのは、金髪で黒い服の似合う、年齢不詳の美人さんかい?」
「そうです」少年は頷いた。
「戦うときは真っ黒に染まり、飛び上がればまるで蝙蝠のよう――そんな人かい?」
「そうです!」
「なるほど。――それなら心当たりがある」と言って、アンブローズは少年たちの後ろ
を指差した。「あの人のことじゃないか?」
 同時に爆音がした。振り向くと、すぐ後ろで壁が崩れ、土煙が上がっている。
 土煙が消えて現れたのは、大きな翅と触覚を有して宙に浮かぶ、シャーロット・スウ
ォープ本人だった。
「お館さま!」少年は嬉しそうに声を上げた。女の足元に駆け寄って見上げる。
「帰りましょう、お館さま。ずっと探していたんですからね!」
 手を伸べてにっこりと微笑んだ。
 しかし、女は目を瞑ったまま微動だにしない。
 少年の横をアンブローズが通り過ぎた。
「蝙蝠の魔女。子守りは任せよう」
 アンブローズは杯を持って、高笑いをしながら部屋から出て行く。
「逃がさないわ! お母さまのお守りを返しなさい!」
 少女が追いかけようとすると、女がふわりと降りてきて立ちはだかった。
 女は何も言わずに、魔力を込めた手の平を少女に向けて振り下ろした。
 飛び退いて避けると、地面には大きな穴が開いた。
 その様子を呆然と眺めていた少年が、たまらなくなって声を上げる。
「やめてよ、お館さま!」女に飛びつくが、振り落とされて蹴飛ばされた。
 女は少年に狙いを定め、魔力を手の平に溜め始めた。真っ黒な魔力の塊が、少年に向
けて投げられようとしている。
 少年はすぐに起き上がって女に抱きついた。精一杯、動けないように押さえつける。
「行って! ぼくがお館さまをなんとかするよ」
 女の顔を見た。目をつむって、とても悲しそうな顔をしていた。
 きっと、悪い夢でも見ているのだろう。起こしてあげなくちゃ。

111 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:32 ID:X8Cs0z6E
「大丈夫だから。お館さまを起こすのはぼくの役目なんだ」
「でも――」少女はためらった。
「お嬢さま、行きましょう。きっとあの男がシャーロットさまを操っているんです。今、
シャーロットさまを止めていられるのはルイさまだけです。だったらあの男を倒すのは
お嬢さまと私の役目でしょう。――そうしなきゃ、シャーロットさまが」
 ユリアが少女の手を握り締めた。ユリアは泣きそうだった。
 少年は振り落とされ、女の魔力が腹に直撃した。血を吐きながら少女に訴える。
「行って!」
 二人は手を強く握って、泣きながら走り出した。
 その姿を見送って、少年は女を見た。「お館さま、今、起こしてあげるからね」
 少年がよろよろと立ち上がったところへ、翅を使って飛び上がった女が突っ込んできた。
 首をつかまれ、部屋の奥まで引きずられた。壁に叩きつけられ、持ち上げられる。
 女は少年の首を締め上げながら、片手に魔力を込めて振り下ろした。
 死を覚悟して目を閉じた。次の瞬間には、首と胴が離れているだろう。
 こもった金属音がした。
(あれ?)
 まだ首はつながっているようだった。恐る恐る目を開ける。
 鞘に収まっているはずの短剣が飛び出して、女の攻撃を防いでいた。
 鍔の宝石が真っ赤に光っている。
 女は手を離した。
 少年の首が自由になり、地面に足がつく。宙に浮いたままの剣を取った。
 女は両手を振り上げ、さらに大きな魔力の塊を作り出そうとしている。
 少年は絶望しない。短剣はとても頼もしかった。
(あの塊を弾いたら、その隙に頬をつねって起こしてやるんだ!)
 次の瞬間、少年の短剣と女の魔力が衝突した。
 竜の牙と莫大な魔力は、大きな衝撃波をあたりに撒き散らした。四方の壁にひびが入る。
 少年は必死に踏ん張って、魔力を弾き飛ばそうとした。だが、ぎりぎりと押されてし
まう。魔法でもないのに、ただの魔力でしかないのに、竜の牙が押し負けている。
 少年が倒れ、女が馬乗りになった。女の魔力は眼前にまでせまっている。
 そのとき、大きく地面が揺れた。

112 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:33 ID:X8Cs0z6E
 一瞬、女の力がそれる。少年は機を逃さず、ありったけの力をこめて、女から魔力を
弾き飛ばした。少年の手から剣がこぼれ落ちる。魔力は天井にぶつかって破裂した。
「お館さま!」
 女の頬をつねってやろうと手を伸ばした。その時である。
 少年の視界が真っ暗になり、強い衝撃に意識が飛んだ。
 天井が崩れ落ち、二人は下敷きになってしまったのである。

 
 少女二人は涙を拭い、男を追いかけていた。
 来た道のドアとは別のドアが開いている。すぐに飛び込んだ。
 その中にアンブローズはいた。杯に手をかざし、淡々と詠唱している。
 彼は二人を一瞥すると、にやりとして手を振った。
 壁から大きな黒い塊が飛び上がった。壁に張り付いていた無数の虫たちが、アンブロ
ーズによって動かされたのである。
 二人は剣を抜き、虫に斬りかかった。体に張り付いた虫を剥ぎ取り、とにかく剣を振
るう。その間もアンブローズは詠唱を続けていた。
 ユリアの剣は虫を相手にするのには都合が良い。剣先に触れるだけで虫は焼き払われ、
剣をでたらめに振りまわすだけで、大きく数を減らすことが出来た。
 ユリアが少女へ飛び掛ろうとする虫を切り払う。
「お嬢さま、ここは私に任せて、あの男を叩いてください!」
 少女もそれが妥当だと判断した。この剣は小さな虫を斬るのには長大すぎる。
「お願いね、ユリア」
 少女は目の前の虫を切り払い、アンブローズのところまで駆け寄ろうとした。
 アンブローズが再び腕を振ると、地面から触手が伸び、少女に襲い掛かった。
 少女は舌打ちをして触手をなぎ払った。
 地面が隆起し、巨大な管虫が顔を出す。無数の触手が少女に向かって伸びた。
「あなた、三度目ね」と言って、少女は管虫の下へと潜り抜け、一振りで触手を刈り上
げると、根元を踏み台にして管虫の上に飛び乗った。今は男を倒すほうが先である。
 少女は剣先を男に向け、管虫の上から飛んだ。
 アンブローズは真上に迫る少女とその剣を見て言った。

113 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:33 ID:X8Cs0z6E
「残念だったな。少し遅かった」
 杯が光り輝き、放たれた衝撃波が少女の体を吹き飛ばす。
 杯を中心にして地面に模様が描かれ、大きな光の柱が昇った。
 アンブローズは大いに笑った。
「終わったよ。もっと時間がかかると思っていた。グリンメルスから黒玉髄を脅し取る
まで、長い時間が必要だと思っていた。ちゃちな偽造文書がここまで功を奏するとはね。
きみたちには感謝する」
 辺りが大きく揺れ始めた。地響きがして、天井から土が落ちてくる。爆音がして、光
の柱が天井を突き破った。やがて光の柱は線になり、杯の上方に収束した。
 空間が歪んでいるのか、そこがねじれて見える。ひずみは大きくなっていく。
 おぞましい咆哮が響き、歪みの中から黒い翼が現れた。殻から這い出るようにして、
徐々にその全体像が明らかになる。
 それは目をつむったまま、黒の鱗と翼を持ち、青白く光る二対の大きな牙を有している。
 間違いなく竜だった。徐に目を開く。
 アンブローズは口元を歪めて手を伸ばした。
 竜は地面に足をつけて首を下ろした。アンブローズがその上に乗る。
「手に入れた! まずはルーディア城だ」
 男に言われるがままに竜は咆哮し、翼を広げた。
 途端に衝撃波が周囲に飛び交い、壁に大穴を開けた。
 竜は大きく口を開け、気伸びをするかのように、上空へ向かって炎を吐いた。
 夜の空が真っ赤に染まる。
 竜は大きく羽ばたいて飛び上がろうとしたが、上手く飛べずに落下した。
「まだ本調子ではないか。――あの小娘でも食らって景気づけるといい」
 竜は少女二人を睨みつけた。
「お、お嬢さま」ユリアは腰を抜かしてへたりこんだ。
「ルイくんだって戦っているのよ。私は怯まないわ。引きつけて時間を稼ぐから、ユリ
アは隠れて機を伺ってて」
 少女は剣を握り、果敢にも飛び込んでいった。
 竜が炎を吐くと、少女は横に転がって避けた。
「面白い」アンブローズは口元を歪めて、竜を飛び上がらせた。

114 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:33 ID:X8Cs0z6E
 竜が羽ばたくと、大きな衝撃波が巻き起こる。周囲の壁が壊れ、遂に辺りが崩れ始め
た。さらに遠くで大きな音がした。本格的に崩壊が始まったのである。
 竜は大きく飛び上がり、少女を睨みつけた。
 満月に重なっている竜の口には、大きな炎の玉が咥えられていた。

 
 頬が温かい。何か柔らかいものが当たっている。そして、とてもいい匂いがした。
 少年がはっとして目を覚ます。
 温もりの正体はすぐに分かった。女が頬ずりをしていたのである。
 そこは真っ暗闇だった。
「お館さま!」少年は嬉しくなって声を上げた。
 体は動かすことが出来なかった。土砂に埋まっている。
 女が咄嗟に顔を上げた。勢いあまって、後頭部をぶつけてしまった。
「なんだ、ここは?」女は素っ頓狂な声を上げた。
「虫使いのアジトですよ」少年は満面の笑みを浮かべた。
 女が体を起こそうとした。しかし、体は土砂に埋もれていて動かすことが出来ない。
 少年から血の臭いがした。
「まさか、私はお前に何かしたのか?」女に戦慄が走る。
「頬ずりをしたよ」
「そうではない」
「何もしてないよ。ただ、崩れてきた天井からぼくをかばってくれたんだ」少年は嘘を
ついた。その口からごほごほと血を吐いた。
「ルイ――」女の涙が少年の顔に落ちる。「ありがとう、私の可愛いルイ」
 女は少年に軽く口付けをした。
 少年は顔を真っ赤にして、だらしなく笑った。
「とりあえず、ここから出るとしよう。息苦しくなってきた」
 女は短く詠唱をした。大きな音を立てて、辺りの土砂が弾け飛んだ。
 二人が立ち上がる。少年は短剣を拾った。
「悲しい夢を見ていたら、お前の良い匂いがしたよ」
「本当は、頬をつねってやろうと思っていたのになあ」

115 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:33 ID:X8Cs0z6E
 女は翅を動かした。「面白いものがくっついているな」
「お館さま、飛んでいましたよ」
「それは面白い」女はにやりとして少年を抱きかかえ、大きく羽ばたいた。
 月光に照らされた鱗粉が金色に光る。
 女は少年と共に、空へと舞い上がった。
「見てください!」少年が地面を指差して叫んだ。
 大きな黒い竜が、炎を吐こうとしている。その先には二人の少女がいた。
「こりゃ、いかん」女はそう言うと、詠唱した。
 少女の前に大きな壁が形成され、炎を弾く。
 女は素早く少女たちの前に舞い降りた。
「シャーロットさま!」
 子どもたちは女を囲んだ。待っていましたとばかりに嬉しそうな顔をする。ユリアに
至っては、涙を浮かべてさえいた。
「状況は大体把握した」女は竜を一瞥してにやりとした。「あいつが悪者だろう? 
それだけで十分だ」
 女は三人を下がらせた。
「なに、私が全て終わらせよう」
 大きな黒い翅をはためかせて、女が舞い上がる。
 同時に竜も飛び上がった。
「蝙蝠の魔女め、大人しく私の下僕となっていればいいものを」
「正直、危なかったみたいだな」
「妻に迎えようと思ったが、仕方あるまい」
「考えただけで吐き気がする」
 女は魔力を解き放った。髪の毛は逆立ち、真っ黒に染まる。全身を黒い靄が包み込んだ。
「竜殺しに二度目があるとでも思っているのか?」アンブローズが凄んだ。
「あるさ。何度でもな」
 女は短く詠唱し、大量の氷の刃を放った。
 アンブローズは手を竜の頭に沿え、魔力を注ぎこんで指示を送る。刃を翼で弾くと、
竜が大きく口を開けた。青い光がそこに収束していく。
「この一帯諸共、破壊しつくせ!」

116 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:33 ID:X8Cs0z6E
 轟音と共に、竜の口から青白い光線が放出される。その直径は悠に女を超えていた。
 女はにやりとした。「私が殺した竜のは、もっと黒かったぞ」
 女は障壁を張って受け止めた。自分を守るためではない。後ろにいる少年たちを守る
ためだ。そのまま障壁を貫いて手を伸ばし、竜の魔法を握りつぶしたのである。
 すぐに詠唱し、無数の黒い針を形成する。女は竜の頭に向けてそれを放った。
 アンブローズが指示を送り、竜が炎を吐いてそれを防ぐ。防ぎきれなかった針が、次
々と竜に突き刺さっていく。
「おやおや、紛い物かな? その鱗は」
 竜がのた打ち回るように空中で暴れた。アンブローズは必死にしがみついている。
 その間にも女は詠唱し、巨大な黒い槍を作った。
「私が昔、竜を倒したときのことだ。私は大地から魔力を吸い上げすぎて、その土地を
腐らせてしまったよ」
「な、何が言いたい?」
「つまり、竜の鱗を突き破るのには、それだけの魔力が必要だったってことだ」
 女は竜の上へ飛び上がると、槍を投げ下ろした。
 竜が咆哮し、槍に噛み付く。目は充血し、頭部は血塗れである。必死に噛み砕こうと
するが、槍の勢いは止めることができない。
 竜の口の中に、槍が突き刺さった。牙は砕けて消えた。槍は竜の内部を貫通し、尻か
ら槍の先が見える。
「まるで、とかげの串焼きだ」女は笑い、もう一本の光の槍を作った。
 竜の背中目掛けてそれを放つ。
 槍は竜の背中を突き破ろうとする。
 竜の鱗は簡単に砕け、槍は胴を貫通した。
「ほとんどが紛い物のようだな、その竜は」
 竜が落ちていく。竜の呻き声と、男の悲鳴がその場に響いた。
「一つ、本物があるだろう」と女は言って竜の眉間に手を突っ込み、黒玉髄を抉り出した。
「返してもらうぞ。これは元々、私がメルシーに上げたものだ」
 女は最後に一つ詠唱した。
 天からの雷撃に、竜と男は消滅した。
 

117 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:34 ID:X8Cs0z6E
.

 女は少年たちの下へと戻ってきた。
 手に持った黒玉髄を少女に渡す。
「ありがとうございます、シャーロットさま」
「実はそれ、黒と紅で一対なんだよ」
 少年が女に飛びついた。
「ルイ、怪我は無いか? 私の魔法が間違えてこっちへ飛んできたりしなかったか?」
 少年は女に顔をうずめたまま首を振った。
 女は少年の頭を撫でてやった。
「そういえばな、この翅のおかげで、奴らのやっていることの仕組みが理解できたよ。
この翅は脱着自在らしい」
 女は詠唱すると、三人に向かって指を振った。
 三人の背中から翅が生えてくる。
「まあ!」
「お嬢さま、動きますよ、この翅!」ユリアは翅を大きく動かした。体が舞い上がる。
「すごい! 飛んでます!」
 ユリアは自由自在に夜空を舞った。
 少女も恐る恐る羽を動かした。だんだんと早く動かして、体が少しずつ宙に浮いていく。
「本当だわ!」
 二人の少女が夜空を舞った。
「ほら、ルイもやってみろ」
 少年は顔を真っ赤にして俯いている。
「どうした?」
「だって、スカートの中が見えちゃうんだ――」
 女はとても気持ちよさそうに笑った。そして舞い上がる。
「さあ、早く来なさい。ノドルカまでひとっ飛びだ」
 少年は恥ずかしそうにしたまま、空を飛んだ。
 四人はノドルカを目指して飛んだ。
 女と少年の腕には、猫に変わった役馬が抱えられている。

118 名前: 文才無し 投稿日:2007/09/18(火) 04:35 ID:X8Cs0z6E
 馬車では何日もかかる距離でも、空を飛べば一日とかからない。まだ日の昇らないう
ちにノドルカへと戻ることが出来るだろう。
「今日で蝙蝠の魔女の二つ名は返上するよ。今日からは――黒蝶の魔女だ」
「本当はさ、繭から出てきたんだから、蛾だよね」と少年が言った。
「私が蝶と言えば蝶だ、わかったか!」少年を女がくすぐる。
 くすくすと笑いながら、ハルナが言った。
「戻ったら、シャーロットさまの薬湯に浸かりたいですわね」
「まあ、お嬢さまったら、あれだけためらっていらっしゃったのに」
「ぼくは、ユリアのごはんが食べたいな」
「おいしい紅茶もいただきたいものですわね」
「ああ、ノドルカに戻ったらそうしよう」
「ドルシラさん、寝てるんじゃないかなあ」
「たたき起こせばいいさ。暇人だからな」
 四人の夜空はとても明るい。満月が掴めそうなほど近くにある。
 国境の関門を通り過ぎた。眼下には一面の森が広がっている。そのずっと先に、海沿
いの町並みが広がっていた。
「ぼくたちってさ、もしかして世界を救ったのかな」
「まさか、あんな連中にそんな大それたことができるわけがないだろう」
「じゃあ、ハルナをお見合いから救ったんだね」
「そういうことだ」
「そういえば、そのお見合いはもともと無かったみたいですのよ」と少女が言った。
「なに! ハンスがまた馬鹿をやったというわけか」女はにやりとした。「皆で一発ず
つ小突いてやろうか」
「ええ、そうしましょう」少女は口元を隠して笑った。
「私も、お嬢さまにお付き合いいたしますね」ユリアも静かに笑っている。
「女の人って、怖いなあ――」
 少年が言うと、三人は大いに笑った。

 ヘンゼルがその夜、冷や汗をかいて目を覚ましたのは言うまでもない。

119 名前: QIrxf/4SJM 投稿日:2007/09/18(火) 04:36 ID:X8Cs0z6E
-完-

120 名前: 文才無し 投稿日:2008/04/29(火) 11:15 ID:X17jsevs
Oh my fucking god.... this is so good can be a good seller!
Thanks a million!
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