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硝子の旋律 (Res:36)

1 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:43 ID:YsTg9CHY
シリアス作品なのに暗くないと近所の犬や猫に大評判です。
……ええ全部パクリですよ。むしろオマージュと呼べ。

2 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:52 ID:YsTg9CHY
硝子の旋律
         村雨驟雨

   1

 僕は昔から方向音痴で、その上新幹線のプラットホームで待ち合わせるのなんて初めてだったので、東
京駅の構内を案内板から案内板へと駆け抜けたり、目に付いた売店を梯子してはその都度ホームの方
角を尋ねたりして、目的の十二番ホームにたどり着いた頃には予定時刻を二十分も過ぎていた。最初新
幹線の改札を抜ける方法が分からず、窓口でホームへの入場券を買い求めるのに手間取り、その足で
改札を突破、階段を踏破して到着時刻二分前に何とかホームへと滑り込んだ僕は今、ホームの階段にも
たれ掛かって呼吸を整えていたところだ。

 横の自販機でスポーツドリンクでも買おうかと財布を出した時、また携帯のバイブが鳴った。慌てて取り
落とした財布を拾い、紗奈からのメールを開く。『いま東京つくらしいよっ!』――だからいちいち実況中継
しなくていいってのに。
 この「実況中継」は紗奈が出発したおよそ四、五時間前、つまり昼過ぎからずっと続いている。『新幹線
自由席取れたよ! でも一万って高くない? いちまんだよっ? いちまん』『今からこれに乗ります。あと
三時間ぐらいでつくからねっ。ホームでちゃんと待っててよう? もし着いた時あっくんいなかったら紗奈泣
いちゃうからね(笑)』(ご丁寧にこのメールには写真まで添えられていた。新幹線の車体。「東京」の文字。
そして満面の笑みでピースする少女。誰がこいつを見て家出娘だと気付くだろう。少しは不遇の身らしく悲
壮感を持て、悲壮感を)『車内食すっごいおいしいよ! デザートにプリンまで食べちゃった(笑) えーんま
た太るよう』(これは金の都合で昼飯を抜いた僕に対する一種の精神攻撃だろうか?)『ねえねえ今トンネ
ル入った! すごいよ、映画館みたい! 紗奈こんな長いトンネル初めてだよ』(…………。)『ねえなんで
返事くれないの? さみしいよう』――あのな、こっちはまだ授業中なんだって。

3 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:52 ID:YsTg9CHY
 そもそも紗奈の「逃避行」は予定されたものではない。こんな話を聞かされたのは全く今朝になってから
だ――いや、その時は紗奈が本気だとは思ってなかった。新潟にいる人間から『今から安藤篤志君のおう
ちに向かっちゃいます。だからあっくん迎えに来てねー』なんて云われて、誰が信じる。少なくとも僕は冗談
だと思う。て言うか、思いました。ええ冗談だと信じていましたよ、あの写真送りつけられるまではね。おか
げで折角クラスメイトの横川から強奪したフライドポテト吐き戻したじゃねーか。僕のささやかな昼飯、どう
してくれる。
 で、その横川裕人、通称横チン。こいつもまた僕の友人の一人で、他の友人たち同様、頭のネジがぶっ
とんだ男だ。奴には様々な伝説があって、つい先日にも騒動を巻き起こしていた。
 一週間前、彼は突如として消えた。旧い友人の僕から見れば、この程度の行方不明騒ぎなど別に大した
事無い出来事だった。しかし周囲の人間、特に高校入学して初めて裕人を知った人達からすれば、生徒
一人が消えたという立派な大事件である。予想通り裕人の母親は「そのうち帰って来ますよ」と笑って流し
たが、学校関係者はそうは云ってられない。というか横チンの母親余裕過ぎじゃないのか? 普通警察に
通報するのは担任じゃなくて親の役目だろうに。そんな事をクラスメイト達が噂していた六日目、つまり昨
日、いきなり横チンは帰ってきた。

4 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:52 ID:YsTg9CHY
 横チンが突如教室のドアを開けて「遅れてすいません」などと抜かしたのは六時間目の古典の授業中だ
った。固まる生徒。古典教師、或いは担任の神田は始め、静かに問い詰めた。「今まで何をしていたんだ?

 「はい! 世界征服を企む恐怖の大魔王を倒す旅に出てました! いやもう大変だったんですよお?
伝説の剣を見つけた所まではテンポ良く進んだんですけど、ラスボスの大魔王が意外に強敵で、HP全然
減らねーの! ほんと死ぬかと思いましたよ、はは、ははっ、あはははは!」

 時が、止まった。
 伝説が生まれた瞬間だった。

 一拍遅れて、担任教師神田の怒号が響き渡った。
 「この馬鹿者ぉ!」

 これが「横チン失踪事件」の僕が知る限りでの顛末である。その後彼は結局目的を言わず、いくら怒鳴
られても「革命」だの「大魔王」だのと云った素敵過ぎる単語を連発して煙に巻くばかりだったそうだ。紗奈
と云い裕人と云い何で僕の友人はこんな連中ばかりなのだ。いや楽しくないかと言われたら即座には否定
できないけど。

5 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:53 ID:YsTg9CHY
 ブルルッ。またメールの着信。今度は何だよ。『ねえ見て見て東京駅見えたよ!あっくん紗奈のこと見え
る?』いや、見えないから。でも音は聞こえた。掃除機の巨大版みたいな音。あれが新幹線だったっけ?
新幹線など中学の頃の修学旅行以来なのではっきりしない記憶を紐解き手繰り合わせ、どんな形状だっ
たか思い出してみる。
 そんな事をしているうちに新幹線様到着。うわやっぱでかいな。それ以前に白い。ああこれ二階建てなん
だ。こりゃ紗奈もはしゃぐよなあ。紗奈が靴を脱いで窓の景色を覗き込んでる様子が目に浮かぶ。あいつ
この年になってもガキっぽい事ばっかやってるからなあ。そんな紗奈に庇護欲を刺激されそうになったそ
の時、

 目の前の扉が開いて、
 紗奈が飛び出してきた。

6 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:53 ID:YsTg9CHY
 両手を広げて待ち構えていたのだろうこの大馬鹿者は扉が開くなりホップステップジャンプで僕に飛びつ
き抱きついてきたので、その勢いで僕はホームの柱に背中を強打、バランスを失った二人は床に崩れる
ようにしてへたり込み、それでも紗奈は固く抱擁を解こうとしないので「いい加減にしろっ! お前が邪魔で
後ろの人達が出れないんだよ!」と情けない悲鳴を上げた所、紗奈は何を思ったか急に俯いたかと思い
きやその小さな頭を僕の胸に押し付けて「ひぐっ……えぐっ……ぁいたかったよう……」とか肩震わせて泣
き出したので仕方なく彼女の身体を抱え込むようにして無理矢理立たせて唖然とこっちを見ている周囲の
野次馬連中は見ないようにして(ったく何でこんな辱めを!)とりあえず休憩ベンチに二人で雪崩れ込んで
「飲み物でも買ってくるよ……」とまだ肩に胸にと残る体温というか熱というかそういう鬱陶しいものを振る
い落とす様に言うとこの馬鹿、途端に元気に「オレンジジュース一丁っ!」とか笑顔で挙手しやがった(一
度ホームから突き落としてやろうか?)……ああ、だから嫌なんだこいつの相手は。それよりまだ見てんの
かお前ら!

7 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:53 ID:YsTg9CHY
「で、お前は何しに来たんだよ」
 隣で至福の表情を浮かべてオレンジジュースを飲んでいる紗奈の手を離して(この間ずっと手を握られ
ていた)僕はまず問いただす。
「いいじゃんそんなのー。さながいてー、あっくんがいてー、たぶんだけどひーちゃんもいてそれで万事ばん
ばんざいじゃん!」「質問に答えろ」「だっていろいろめんどいし」「俺がここまで来るのにどんだけ交通費か
かったと思ってんだよ……」「紗奈一万出したもんね」「お前は勝手に来たんだろうが! そもそもお前がこ
んな素晴らしいタイミングで来た所為でこっちは昼飯抜く羽目になったんだぞ!?」「でもひーちゃんのポテ
ト食べたんでしょ」「お前の所為で食えてねえんだよ! っつか何で裕人の事知ってるんだよ」「だってひー
ちゃんこないだうちに来たもん……」
 は? て事はあいつの失踪先、紗奈ん家だったって事か?
「えー言ってなかったの? ひーちゃんうち来たんだよ」
 知らねえっつの。っつか横チン言えよ。
「でね、そのあとのことよく覚えてないんだけどさっ、」
 よく覚えてないのに新潟から東京まで来てしまう紗奈のエキセントリックな性格は今も健在らしい。小四
の夏、学校のプールに三人で侵入した時も紗奈が言い出した。僕の友達は総じて時に異常な行動力を発
揮する。裕人といい、紗奈といい。

8 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:53 ID:YsTg9CHY
「でねでね、電車なのにトイレがついてるのって紗奈初めてだったし、もうほんと」
「待て、とりあえず落ち着け」僕は一旦遮った。
「……一応聞いてみるけど、親に連絡は?」
「してる訳ないじゃんそんなのー。前にも言ったけどこれは家出なんだよ? い、え、で」
「ああもう」僕は頭を抱える。
「とにかく! お前は自分の家に帰れ! 親御さんが心配するだろうから早くおうちに帰りなさい!」
 すると紗奈は急にしおれたような顔をして、
「おうちなんて……親御さんなんて、いないもん……」
 ああ――そうだった。こいつは小五の時に両親を交通事故で亡くしてるんだった。あの時、葬儀の時も紗
奈は僕の胸に飛び込んで泣いてたんだっけ。どうやら昔から僕は紗奈に付き合わされ、振り回され、慰め
る役割にあるらしい。ともかく、僕もいつまでもこいつのわがままに付き合ってられる訳じゃなかった。
「親御さんってのは、お前を引き取った叔父さんの事でいいだろ別に……とにかく、帰るぞ。ったく、叔父さ
んにまで迷惑かけんなって――」

 その瞬間、紗奈が壊れた。

9 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:53 ID:YsTg9CHY
「ひやだ! ぜったいにかえらない!」
 喚声。不意打ちの叫び声。突然の事に僕は硬直する。紗奈が自分の頭を掻きむしる。その腕は痙攣し
ていた。紗奈が泣き叫びながら、「やだ! わたしは絶対帰らない!あんなとこにいたくないのっ!怖い、
怖いんだよ!いやだ!こわいのう!触らないで近づかないでもうやだやめて怖い!こわいよう!」「お、お
い! 落ち着けって、とりあえず呼吸を整えろ、腕を止めろ!」僕は必死で紗奈にしがみつく。紗奈の腕を、
僕の胸を、暴れる脚を、渾身の力で押さえつける。そうする事しか出来ない。思いつかない。どうしたんだ
よ紗奈、何があった、どうするんだよ篤志、何をすればいいんだ――

 その時だった。
「お、おいおい、紗奈ちゃんっ!」
 背後からの悲鳴に近い声。駆けて来る何者か。誰だよ、っていうか今それどころじゃないんだよ。暴れる
紗奈を食い止めながら僕は思考を巡らせる。ほんと誰なんだよこんな時に――あ。え? ちょっと待て、何
であいつが今ここに――
「篤志! 紗奈ちゃん! ――探したよ!」
 息を切らせながら走りこんできたのは横川裕人その人だった。

10 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/02/11() 15:56 ID:YsTg9CHY
第一話テキストデータ:ttp://bnsk.jf.land.to/up/src/up0119.txt

11 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:14 ID:SfNpYNFw
  2

 そんな訳で今僕らは東京駅近くのマックにいる。紗奈の身を案じてひとまず目に付
いた店で気を落ち着けよう、そして今後、紗奈をどうするか考えようという事に至った
のだ。
 フライドポテトと、それぞれの飲み物を頼んで窓側の席に着いた。僕はコーヒー、裕
人はコーラを、そして紗奈は本日二杯目のオレンジジュースを飲みながら今になって
知り得た情報を交換しようとしていた。僕は大体の事情を説明し、紗奈は調子が悪
いので裕人の番となる。だがしかし裕人の話の筋は一向に見えてこない。
「もう日本海側って寒いの何の! あそこ夏ねえのかよ! って感じだったぜ? もう
ほんと」
「いや、新潟の報告はいいから早くそこに行った目的を話せ」
「やあもうなんつうの? 『トンネルを抜けるとそこは何とかでした』っていうノリ? こ
っちはもう夏なんだよ! 空気読めよ! って感じでさあ」
「で、紗奈さんはどうしてはるばる上京してきたのかな?」
「おい、俺の話は無視かよ!」
「大体そっちが延々無駄話続けて旅の目的を話そうとしないからだろうが。いいから
とっとと話せ、紗奈の家に行った目的を――っつうか紗奈も紗奈だ、いい加減裕人
が何しにきたのか話してくれ」
「ったくさっきから話せ話せってうるさいんだよ篤志は……っわかったよ! 話しゃい
いんだろ話せば――」
「やめて!」唐突に口を開き、遮ったのは紗奈だった。

12 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:14 ID:SfNpYNFw
「もうやめて……怖いの、なんでかわかんないし、覚えてないけど、とにかくすごい怖
い事があって、その事考えるたび辛くて、しんどくて、耐えられなくて」
 紗奈の目は涙ににじんでいた。裕人が紗奈の背中をさする。「だから言っただろ。
今の紗奈にこういう話は出来ないって」
「聞いてねえよ。っつうかほんと何があったの? そんだけトラウマになるような事な
んてあったのか? っていうかそれだけの事覚えてないってどういう事? 要するに
記憶喪失ってヤツ? それとも――」
「あのなあっ!」裕人が僕を睨む。
「紗奈ちゃんは今そういう事考えたくないの! わかるか? 古傷えぐられる気持ち
が――とにかく今はそれに触れるな。どうせお前にもそのうちわかるだろうけど」
「いいよ、もう」紗奈が言った。
「けどそれは紗奈ちゃんが――」
「ひーちゃん、いいの。確かに辛いけど、あっくんにも云っとかなきゃならない事だと
思うし」
「……わかったよ。言いなよ」裕人は言った。
「うん、あのね」ついに紗奈が重い口を開いた。

「ひーちゃんは勇者なの。勇者さまは大魔王を倒してお姫様を助けにきたの。つまり
そういう事なの」
 はあ? 何だそれ。

13 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:15 ID:SfNpYNFw
 紗奈まで訳のわからない事を言い出した。これは小さい頃の遊びの事を言ってる
のか? っていうか紗奈も裕人も変な夢でも見たんじゃないのか? それともこれは
何かの比喩か?
 さすがの裕人も絶句する。が、すぐさま気を取り直して、
「そ、そうだよな! 昔よくやったよな! 俺が紗奈を物置に閉じ込めたりして、それ
を篤志が助けに行くってやつ! そうそう、大魔王ごっこだっけ? いろいろ配役変え
たりしてな。っつーか俺ら小さい頃ほんといろいろやったよな! あれ覚えてる? 学
校のプールに侵入したヤツ!」
「話変えるなよ」
「陽が沈んでからさ、三人だけで泳ぎに行こっかって事になって、金網よじ登って小学
校のプールに侵入して――そういやお前あの時も最後まで止めてたよな――とにか
く、さて着替えようかって時になっていきなり俺らの前で紗奈ちゃんが服のボタン外し
だして……もうびっくりしたよ。小四とはいえ女の子だぜ? いやもうこっちはどぎまぎ
しちゃって慌てて止めて」
「だから何しに新潟行ったんだよお前は! いいから話せ! 話さなきゃわかんねえ
だろうが!」
「ったく、会話がループしてるじゃねえかさっきから……」
「お前の所為だろうが!」
「あのね、本当のこと、言う」紗奈がまた口を開く。

14 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:15 ID:SfNpYNFw
「また大魔王だのHPだの何だのって下らない妄言吐くつもりじゃねえだろうな? 二
人で駆け落ちでもしたんだったらそれならそれでいいから早いところ言っちまえって」
 僕は今回の一連の騒動も全ていつも通り、紗奈の暴走によって引き起こされたも
のだと思っていた。だから紗奈の機嫌さえ直れば全て解決し、また元通りの安息した
日々に戻れると考えていた。
 紗奈はうつむきながら少しずつ語り出した。
「あのね、本当のこと言うとほとんど覚えてないの」
「ああ、言ってたね」
「学校出て、うちに戻って、叔父さんが来て……それからよく覚えてないけど、あたし
泣いててね、そしたら急にあっくんに会いたくなって」
「ちょっと待て、叔父さんが来たところまでは覚えてて、そっから記憶が飛ぶんだな?」
「うん。あたしね、最近記憶がなくなっちゃうことがよくあったの。だから紗奈びっくり
したよ、気づいたらひーちゃんがそばにいたときは」
 え? どこから裕人が出てくるんだ?
「あのね、ひーちゃんがね、言ったの。『叔父さんに大変な事があったから二人で篤
志の所に行こう』って」
「それはいつの事だ?」
「三日ぐらい前、かな……」
 僕は裕人を問いただす。「こいつに会ってどうしたんだよ」
「いや、まあ、普通に会話して、なんなら一緒に東京帰ろっか? ってノリで、つい」
「叔父さんに迷惑かけまくってんだろうが……それで? 紗奈はどうしたの?」
 すると裕人は何かを噛み潰したかのような、感情を抑えた顔をした。まあいい、今
は紗奈の話だ。

15 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:15 ID:SfNpYNFw
「そのときは断ったの。けど、その後記憶がよく飛んでて……」
「学校の友達には話とか相談はしなかったのか?」
「……できないよ、そんな事」
「学校でいじめられてるとか?」僕は半信半疑で、むしろ冗談半分で聞く。紗奈みた
いな性格でいじめられるはずがないと思っていたからだ。しかし紗奈は言葉を濁した。
「ん……大丈夫だよ、あたしは。ほんとに、ね……ほんとだよ?」
「何かあったのか?」僕は心配になる。
「うん、学校でちょっとあっただけだし……」
「つまりだ」裕人が口を挟む。「援交してるんじゃねーかって学校で噂立てられてたん
だってさ」
「援交? ふざけんな、そんな事紗奈がする訳無いだろ。紗奈を何だと思ってんだ、
そいつらは」
 すると突然紗奈が弾けるように泣き出した。左目を手で覆い隠して、肩を震わせて
しゃくりあげる。彼女の手の中を嗚咽がすり抜けて漏れる。笑った時や泣いた時、左
目を手で覆うのは紗奈の癖だった。左目だけで感情の全てを覆い隠せるはずも無い
のに、紗奈は顔全体を、心の全てを隠し切ったかのように思い込んで安心したかの
ように大泣きしてしまう。やがて紗奈は僕の制服の上着に倒れこむようにしてすがり
付いてきた。制服が紗奈の涙に濡れていく。「いや……嫌いになっちゃいや……嫌っ、
嫌なのう、紗奈を嫌わないでっ――」「何だよいきなり、僕が紗奈を嫌った事があるか?
 そりゃちょっと言い合いしたりもするけど、僕は普通に紗奈の事が好きだよ。だって
一緒にいて楽しいし」

16 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:16 ID:SfNpYNFw
 深い意味は無い言葉のつもりだった。しかし紗奈はそれを特別な意味で受け取っ
たのかもしれない。「あっくん……ごめんね、ごめんなさい……ひっ、んっ、あたしも、
君の事が好きだよ、好きなんだよう……だけど、もう駄目なの――駄目なのう! あ
たしと居ちゃいけないんだよ! あっくんはあたしの事忘れてしまって……お願い…
…」絞り込むように懇願する紗奈に、僕は何も言えず、上着に縋りついた手を握って
やることしか思いつかなかった。紗奈の手は温かい。その熱はまるで、今にも消えそ
うな一筋の炎のようで――

「紗奈ちゃん、周りの目がある事を忘れるなって」
 我に返ったのは裕人の声でだった。今になって思い出す。ここがハンバーガーショ
ップの店内である事。どんな事情であれ紗奈を家元に返さなければならない事。紗
奈が今日泊まる場所が無い事。
「ごめんね……なんか、すごい泣いちゃって」
「いいっていいって、いつもの事じゃんそんなの」
 と、口では言ったけれど頭の中では違和感を感じていた。あんな泣き方、いつもの
紗奈じゃない。紗奈はもっとこう、狐の嫁入り雨のように爽やかな泣き方をしていた。
真夏の台風のような重い泣き方をする娘じゃなかったのに。
「篤志、事情は大体分かっただろ……要するに紗奈は学校でいじめられてて、それ
で辛くなってこっちに来たの。わかる?」
「ひーちゃん、それは違うよ」紗奈が抗議の声を上げた。
「あたしは確かにそういう嫌がらせを受けたよ。けど、あたしいじめられてなんかない
し、学校でも全然辛いことなんてないし、みんな楽しいし、大丈夫なんだから」
 僕は何となく思いつきで言ってみた。「じゃあ家での関係は? 叔父さんとうまくやっ
てんの?」

「そういう話してんじゃねーだろ今は!」
 裕人が突然逆上した。

17 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:16 ID:SfNpYNFw
 黙りこむ僕達。静まり返る店内。集まる無遠慮な視線。僕はそれらを払いのけるよ
うに問う。「どうしたんだよ裕人、何か俺、変な事でも言ったか」
「とにかく叔父さんとか、紗奈の家族の話題はやめろ。今は紗奈が今日どこに泊まる
かでも考えようぜ」
「おい、待て」僕はついに思い当たって問い詰めた。「あのさ、一つ聞いていいか?」
「ああ、いいけど――何だよ?」
「お前らさ……」意を決して、僕は尋ねる。

「何か俺に隠し事してんのか?」
 これがさっきから感じていた違和感の正体だったのだろう。僕はついに言ってしま
った。
「な――お前、まさか……」目を丸くする裕人。会心の一撃。さあ答えてもらおうか、
裕人さん。

18 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:17 ID:SfNpYNFw
「まだそんな事にも気づいてなかったのか?」
 え、何その反応。そうだよ、今俺はお前らの隠し事に気づいたんだよ、悪いか。す
ると続けて裕人が爆笑した。「はははは! どんだけ天然なんだよこいつ! このム
ードで隠し事してねえ訳ねえだろ! 五分前に気づけこの馬鹿! やっぱお前最高
だわ――ああ腹痛え」
 紗奈もつられてくすっと笑った。なんだかよく分からないけれど、さっきの辛そうだっ
た紗奈が笑ってくれた。その笑顔さえ造り出せたならそれで問題ない気がした。

 その瞬間裕人の携帯が鳴った。――げ、こいつまだ『着信音1』のままなのかよ。
着メロ位設定しとけよ。まあそれはさておき、裕人が席を立つ。その間、僕は膝の上
に縋りついたままの紗奈を抱き起こして、話し始めた。
「何がおかしかったんだよ、どこがおかしかったんだよ今」
「だってぇ……あっくん、全然何もわかってないんだもん、そしたら安心しちゃっ
て……やっぱりあっくんは紗奈のヒーローだよ」
「どこをどうやったらそんな結論になるんだよ……」
「だってあっくんは紗奈をどんな辛くても笑わせてくれるんだよ? だからあっくんはあ
たしのヒーローなの。大好きなのっ」
 そう言って紗奈は改めて僕を抱きしめてきた。僕は腕一つ動かせずに硬直する。
耳元に紗奈の頭があって、少し赤く染めた肩の長さの髪の毛が僕のすぐそばで揺れ
て、それでもやっぱりどうする事もできない。クラスのみんなだったら羨ましいとか言
い出すんだろうけど(実際、紗奈はそこら辺のアイドルより絶対可愛い自信があった)、
でも当の本人である僕にそんな余裕は無かった。ただ単に抱きしめられ続けてるだ
けで、一方的な紗奈の感情に振り回されていた。――全く、僕はいつもこうだ。

19 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:17 ID:SfNpYNFw
「ああ、ごめん」裕人が帰ってきた。
「俺、用事思い出したんだよ。だから先に帰る。紗奈の事、よろしく頼むぞ。紗奈がど
うなったのかは後で携帯にメールしてくれ」
 その声はわずかに震えていた。見ると、顔が血色を失っていて、今にも倒れそうな
勢いだった。
「お、おい、どうした裕人、何かあったのか? お前まで元気ないぞ」
「何でもねえって……とにかく、俺は帰るから。紗奈の事よろしく」
 そう言って飲み終えたコーラを持って走り去ってしまった。途中、コーラをゴミ箱に
捨てたところまでは目で追っていたが、階段で曲がってからは見えなくなった。
――何となく、しばらく裕人を見られなくなる気がして、少し怖くなって、そういう考えを
頭から払いのけた。

「でさ、今日泊まる場所についてなんだけど」
 紗奈がこちらを見た。そしてうつむいて、「今から泊まれる場所ってあるかな……あ
たし今、六千円しか持ってないし」
「帰りの電車賃すらねえのか……帰る気全くもってねえんだな、お前」
「ごめんなさい……」いや、そう素直に真面目に謝られても困るって。
「とにかく、今日は僕の家にでも泊まれって。父さんは単身赴任で居ないし、母さんだ
ったら何とか説得できると思うし」
「うそ、あっくんの家泊まれるの?」突然眼に光が戻った。そしてその眼をらんらんと
輝かせて、まるでペットフードのCMに出てくる犬のように紗奈ははしゃぐ。――いや、
そんな単純に元気取り戻されるとこっちの気力が萎えるんですけど。

20 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:18 ID:SfNpYNFw
「やった! あっくん家にお泊りだ! あたし今日絶対ツイてる!」
「あのさあ、もう少し家出人はしおらしくしろって」
「えへへ、寝込み襲われちゃうかも?」
「馬鹿、そんな趣味はねえよ。っつーか普通別の部屋だろ」
「えーやだあ。一緒のベッドで寝るぅ」
「子供じゃないんだから……とにかく、まず家に行こう。話はそれからだ」
 すると紗奈はバッグから手鏡を取り出して何かを確認するかのように覗き込み、
「あー……ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
 そう言って紗奈まで席を立ってしまった。パンプスの踵が床のタイルに引っかかって、一
瞬つんのめる。僕は慌てて席を立つが、紗奈が立ち直ったので僕も席に戻る。そし
て一人取り残される僕。祭りの後の静けさ、という言葉が脳裏をよぎる。

21 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:18 ID:SfNpYNFw
 窓の外は既に暗くなっていた。ネオンライトと窓の光が都会の電灯の海を造りだし
ている。現在時刻――七時二十七分。これ以降、紗奈を一人でどこかに歩かせとく
のはまずいだろう。僕は改めて紗奈の保護者としての意識が芽生える。それにしても、
紗奈は僕の事を好きだと言ってくれた。あれは、そういう意味なんだろうか?
――いやいや、そんな事ある訳ない。あれはただ単に友達としてって意味だ、そうに
違いない。
 しょうもない事が頭をかすめ出したので僕は何か他のものに注意を向けることにす
る。あ、明日の天気どうなるんだろう。僕は窓の外のビルの電光掲示板に何の気な
しに目を向けた。明日は――晴れか。良かった。その後も暇だったので電光掲示板
に目を向け、のんびりと眺めていた。

 目が止まった。釘付けになった。
 僕は目の前の文字が信じられなかった。

 ―――今日午後二時過ぎ、新潟県新潟市にて公務員の山本雄二さん(47)が自
宅玄関先で遺体で発見された。なお、長女(17)が行方不明となっており、新潟県警
は現在長女の行方を捜索中。

 紗奈の叔父さんは名前を山本雄二と言った。

22 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/09(金) 19:20 ID:SfNpYNFw
第二話テキストデータ:ttp://bnsk.jf.land.to/up/src/up0126.txt

23 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:47 ID:EFO6UcXU
  3

 この時間帯の京浜東北線はやたら混み合う。僕と紗奈はドアに押し付けられるようにして立っていた。僕
は紗奈を人混みからかばう様に、彼女を座席側にして立っていたので窓の外を走っていく夜景が半ば強
制的に目に入ってくるのだった。
 流れてゆくビルの灯やネオンライトをぼんやりと眺めながら、僕の背中にもたれかかってすやすやと寝息
を立てる紗奈に僕は何も言えずにいた。当たり前だ。「君の叔父さん、亡くなったらしいね」なんて当事者に
言えるほど、僕は無神経じゃない。それに――紗奈がその事を知っているかどうか、僕には分からないか
らだ。
 多分紗奈はその事を知らないのだろう。だからこうしてのんきに僕の背中に寄りかかって寝ていられる
のだろう。恐らく紗奈は叔父さんと喧嘩か何かをしたに違いない。それで発作的に家を飛び出してここに来
て、その間に押し込み強盗か何かでも入ったのだろう。だから紗奈は何も知らない。知らないはずだった。
 でももし紗奈がその事を知っていたらどうなるだろう。さっき紗奈は「あんな所に居たくない、怖い」と話し
ていた。あれは多分、学校でいじめに遭っているからなのだろうけれど、その事で叔父さんと何か問題が
あったのかもしれない。それでもし紗奈が――
 ちょっと待て。何て事を考えてるんだ僕は。紗奈が、叔父さんを? そんな事あり得る訳ないじゃないか。
篤志、お前は最低だ。友達をそんな風に疑うなんて――

24 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:47 ID:EFO6UcXU
 と、急に僕の立っている側のドアが開き、通勤客に押し出されそうになる。僕が体勢を立て直すと同時に
紗奈も駅に転がり出そうになる。ほんの一瞬――紗奈が遠くに離れてしまいそうな気がして――思わずそ
の細い腕を掴んで引き寄せた。寝惚けていた紗奈はそのまま僕に向かって倒れ込んできたので、何とか
その小さな身体を支える。間一髪、紗奈を車内に残してドアは閉まった。
「ふあぁ……びっくりしたあ」紗奈が目をこすりながら言う。
「ったく、電車で寝るなって昔も話しただろ」
「だっていろいろあって疲れたんだもーん」
「その『いろいろ』についてこっちは全くもって聞いてない訳だが」
「だってしょうがないじゃーん、紗奈だってあんま覚えてないんだし」
「自分の体験をあまり覚えてないってにわかに信じがたい話だな」
「でも、ない? そういうの。友達と話してて、話し終わって、何話してたんだか全部忘れちゃう事」
「あると言えばあるけどそれとこれとは話が別だろ」
「同じようなもんだよ、物事に必死になってると大切な事忘れちゃったりするじゃん」
「いや、ねえだろそれは普通に考えて」
「とにかく! 明日は紗奈とデートだから早起きしてね」
「おい、何で勝手に決めてんだよ」
「ほんとだったら今日行くはずだったんだよ。渋谷とか原宿とか」
「あ! まさかお前……」
 僕は思い当たる。

25 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:47 ID:EFO6UcXU
「お前まさか、そのためだけに東京まで来たのか?」
 そうなのだ。僕や裕人が住んでるのは大宮の日進な訳だから、東北新幹線に乗ってきたのなら大宮で
降りればいいはずなのだった。でも紗奈は東京まで足を伸ばした。何故なら――
「うん、そだよ。原宿とか行ってみたいなって思って」
 ああ……こいつの金銭感覚はどうなってるんだ。僕は紗奈が家に帰る交通費すら持ってない事を思い出
す。
「遊びに行くったって金はどうすんだよ」
「うん? お金はひーちゃんからもらったよ」
「いくら」
「三十万円」
 僕はむせる。
「あははは、やだなあ、そんなの冗談に決まってんじゃん」
「ほ、ほんとはいくら貰ったんだよ」
「三万円」
 僕はむせ直す。
「マジでそんな金もらったのかよ! いつ! どこで! どうして!」
「そ、そんないきなりいろいろ訊かれてもわかんないよ……あのね、さっきトイレ行ったときひーちゃんと会
ってね、『ホテル泊まるかもしれない』って言ったらね、そしたらひーちゃんが」
「じゃあ返しなさいその金全部! 結局お前は僕の家に泊まる事になったんだから、とりあえず三万は裕
人に返せ!」
「帰りの交通費はどうするの?」
「知るか! ……ああもうわかったよ、帰りの交通費足んない分はこっちが出すから」
「え、ほんと? ありがとー! あたしほんとみんな大好きだよっ!」
「金さえ出せばお前は大好きなのかよ……」

26 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:47 ID:EFO6UcXU
 そうこうしている間に大宮駅に到着。金の問題はひとまず置いておく事にして、混雑に飲み込まれないよ
う僕は紗奈の手を握り締めて川越線のホームへと向かった。
 さすがターミナル駅、さすが帰宅ラッシュだけあって別のホームへと向かうエスカレーターは混み合って
いた。そのエスカレーターを降りるとショッピングモールが拡がる。まだ改札を出ていないというのに、ファ
ーストフード店はもちろん本屋から服屋まで様々な店が並んでいる。この調子だと改札抜けた方が店が少
なくなるんじゃないのか、と僕はいつも思う。そんな店の一つにそろそろと引き寄せられる紗奈の手をしか
と引いて僕は川越線のホームを目指す。
 で、ホームに到着。平気で四、五十分待ちとかかます川越線にしては珍しくあと二、三分で電車が来るら
しい。やはり紗奈は運がかなりいい方なのだと思う。僕なんか小学校祭りの福引でたまごっちを当てて以
来運を使い果たしたらしく、それ以降不運続きの人生を歩んでるっていうのに。
 予定通りに電車が到着し、予定通りに日進駅に到着。南口を出て途中ファミリーマートに寄り、主に紗奈
がお菓子を買い漁った後でやっと家に着いた。到着時刻、午後八時三十七分。母親と妹の智美にはメー
ルしてあるので、混乱することは無いと思う。

27 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:48 ID:EFO6UcXU
「ただいまー」
「って何で紗奈が言うんだよ。ここはお前の家じゃねえって」
「おかえりー」
「母さんも普通に返すな!」
「妹さんはお元気ですか?」と、紗奈が訊く。
「ええ、お蔭様で。相変わらずあの調子よ。ほら、智美、紗奈ちゃん来てくれたんだからちゃんと挨拶しなさ
い」
 はーい、と遠くで声がして、やがて智美が眠そうな目をこすって来た。
「お兄ちゃんも家に女連れ込むなんて出世したね」
「おい、何だその言い方は。っていうか僕はこいつを女としてみた事は一回も」
「それ嘘でも傷つくよ。ほんっと女の扱い慣れてないよね」
「中学生に言われたくねえよ! お前は男の扱い慣れてんのかよ!」
 はあ、と智美が溜息をつく。
「そういう受け答えって中学生どころか小学生並だと思うよ」
 思わず自分の妹を殴りそうになる所をなんとかこらえる。全く、この皮肉っぽい性格は誰に似たんだろう。
「あーともちゃんだぁ! 懐かしぃー」
 そう言って紗奈は智美に抱きつく。智美は顔を背け、露骨に嫌そうな顔をしている。……まったく、どうし
てこいつはあからさまに紗奈を避けようとするんだろう。
「それで、用事はそれだけ?」
 抱きしめられた智美が鬱陶しそうに僕に言う。
「お前もせっかく来てくれたんだから少しの間くらい抱きしめられとけ」
 その間にも「いやあんかわいいーそのいけずなとこが愛らしいのよー」とか訳分からん事わめきながら紗
奈は智美を一方的に捕縛し続けている。

28 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:48 ID:EFO6UcXU
「……ごめん、私、塾の宿題残ってるんだけど」
「それは『早くお前のペットを引き剥がしてください』って意味か?」
「他にどういう意味があるの? とにかく私は宿題したいの」
 ますます冷め切った絶対零度の視線でこちらを刺してくる。もういい、わかったよ。紗奈の処理はこっち
でやるから。……あ、そうだ。
「そういえばさ、裕人知らない?」
「え、何? 裕人さんがどうしたの? 何かあったの?」
 急に僕に向き直る智美。智美は裕人の話に何故か反応が早い。
「いや、さっきからメールしてんだけど繋がらなくて」
「裕人さん何かあったのかな……事故とかじゃなければいいけど」
 そう言って智美はさも深刻そうに俯く。
「大丈夫だって、奴は殺しても死なない奴だから」
「お兄ちゃんに裕人さんの事言われたくない」
 途端に不機嫌になる智美。ったく、僕が何したっていうんだ。

29 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:48 ID:EFO6UcXU
「はあ、じゅーでん完了っ!」
 紗奈が満面の笑みを湛えてやっと智美を解放した。
「ともちゃん胸まだまだちっさいねー、あたしが中学生の時はCはあったよー」
「お兄ちゃん早く連れてって」
「でも女の子から見たらともちゃんみたいなスレンダー体型の方がうらやましい位だからだいじょーぶだよ」
「お兄ちゃん早く連れてって」
「あーでもひーちゃんは胸おっきい女の子好きだからどうかわかんないなー」
「お兄ちゃん! 怒るよ?」
 顔を真っ赤にして恥辱に耐える妹の姿を見ているのもそれはそれで楽しかったのだが、そろそろ紗奈を
止めないと本気でキレられそうだったので僕は止めに入る。
「ほら、智美も宿題したいっつってんだろ、智美に構うのはやめなさい」
 むうと頬を膨らませる紗奈。
「あら? もうお夕飯は食べちゃったの?」母さんが尋ねる。
「言ったじゃん、さっきメールで」
「よかったぁ、お母さん安心したわぁ」
「どういう意味だよ」
「冬のソナタ見たいからってお母さんピザ頼んで私と二人で食べちゃったの」呆れたように智美が言った。
「はぁ? 何で今冬ソナなのさ」僕は母さんに訊く。
「あのね、せっちゃんが全巻DVDを貸してくれて」
「節子おばさんが? ったく、横チンだけじゃなくあいつのおばさんまでろくな事しないな」
「でも期待しないで見たけど意外と面白いわよ?」
「どうでもいいよそんな事は! ……とにかく紗奈の泊まる部屋はあるんだろうな」
「え? いいじゃない二人仲良く寝れば」
 僕はまたしてもむせる。紗奈にぱっと笑顔が灯る。智美は溜息をつく。

30 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:48 ID:EFO6UcXU
「ほらぁ、小さい頃だって裕人君と三人仲良く並んで寝たじゃない」
「一緒にするな! 大体年頃の男女を一緒に寝かせるって事がどういう事か――」
「あんたにそんな度胸は無いわよ」と、母さんが僕を嘲笑する。
「お兄ちゃんの方が襲われそうだね」と、智美が僕を冷笑する。
「二人揃って馬鹿にすんな!」
「いーじゃんいーじゃん、そんな気にしなくたって」紗奈が何故か僕をなだめ、そして一言呟いた。「――篤
志君と会うのもこれで最後なんだろうし」

「え? 最後ってどういう事?」
「あ、ごめん、なんでもない」紗奈は慌てて笑う。
「紗奈さんも元気そうで何よりだね」と、口走った智美の声がやけに棘のある響きだったのは気のせいだろ
うか。
「まあ、玄関先でいつまでも話してるのも何だし紗奈ちゃんも上がって」やっと母さんがまとめに入った。紗
奈はおじゃましまーすと明るく家に入っていった。

31 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:48 ID:EFO6UcXU
 その後はリビングで母さんが紗奈を質問攻めにしていた。始めは紗奈にとって嫌な質問――例えば学校
についてとか――があったら止めようと思っていた。けれども紗奈が落ち着いて笑顔で答えていたのには
僕も安心した。そして、冬ソナを見ていた所為か母さんも、恐らく智美も叔父さんが亡くなった事は知らない
らしい。これにも僕は安心した。
 それと東京駅で紗奈がパニックを起こしたので母さんの質問攻めには心配していたのだけれど、和やか
に話す様子を見ているうちに紗奈は完全に回復したんだと実感した。智美とは相変わらずだけれど、母さ
んとは馬が合うらしい。……ただ、叔父さんについては言葉を濁すばかりで、僕にも紗奈が例の事を知っ
ているかどうかは分からずじまいだった。
 十時前なんかに寝るのは久しぶりだったけれど、母さんの冬ソナに付き合うのも馬鹿馬鹿しいし、それに
今日はいろいろな事が起こって疲れたので早めに寝る事にした。紗奈はシャワーを浴びてから寝るらしい。
けれども僕は疲れていたので制服だけ着替えてそのまま寝る事にした。僕の部屋に戻ると布団が一つだ
け敷いてあったので、結局紗奈は隣の部屋で寝る事になったのだなと安心して僕は寝床に着いた。

32 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:49 ID:EFO6UcXU
 ――気付くと僕はどこかも分からない場所に立っていた。でも何故か懐かしさを胸の奥に感じた。夏のう
だる様な暑さ。どこかで鳴り響く蝉の声。切れた有刺鉄線と束になって寝かせられた土管。それらにはどこ
か覚えがあったのだけれど、後一歩思い出せずにいた。……後ろを振り向く。そこにあったのは――あの
物置小屋。

 そして理解する。僕は今、夢を見ているのだという事。ここが小さい頃紗奈や裕人と遊んだ空き地だとい
う事。
 やがて子供だった頃の三人が走ってくる。一人の少年は怪物の仮面を頭に載せて。もう一人の少年は
長い木の棒きれを振り回しながら。そして最後の少女は小さなペンダントを硬く握り締めて。
 ペンダントを握った少女が物置小屋に駆け込む。それから始まる二人の少年の戦い。少女は物置小屋
の引き戸の隙間からそれを見守る。どこか懐かしい光景を僕はじっと眺めていた。
 日が傾き出した頃、三人は蓋付きの大きな缶を拾った。三人で話し合い、その中に大切なものをしまう
事にした。仮面の少年は仮面を、もう一人の少年はおもちゃのピストルを、そして少女はペンダントを。そ
してその缶は物置小屋の影に埋められた。
 その後、仮面の少年が一足先に立ち去っていった。少女は笑顔で彼を見送った。二人は空き地に残さ
れた。

33 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:49 ID:EFO6UcXU
 そうして日も沈み、残された二人は話していた。彼らの言葉は手に取るように分かった。
 ―――ヤマザキ君のマンション、屋上に登れるんだって。
 僕は耳を澄ます。
 ―――そこに行けば、星とかも見られるかな。
 僕は、『彼女』の言葉を待った。

 ―――日が沈んだら、二人だけで行ってみよっか。
 ふと、手を引かれる感触がした。

 気付けば僕はどこかのマンションの屋上に立っていた。「立ち入り禁止」の板は外れかけ、金網は破れて
いた。金網の向こうにあの二人を見つけた。僕は金網をくぐった。
 二人は何も言わずにただ星空を眺めていた。どこかで自動車の通る音がする。犬の咆哮が響く。天上
の星と、街中で輝く地上の星達とに二人は見とれていた。やがて、少女がぽつりと呟く。

34 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:49 ID:EFO6UcXU
 ―――あたし、たぶんいなくなるんだ。
 僕は少年の言葉を待った。しかし少年は何も言えなかった。
 ―――あたしがいなくなったら、悲しい?
 少年は言った。

 ―――悲しくなんかないよ。だってきみは絶対いなくならないから。誰かに連れて行かれそうになったって、
ぼくが引き止めるから。だから、悲しいことなんて一つもないよ。
 少女は黙ってうなずく。
 ―――だけど、それでもきみがいなくなったら……ぼくは泣く。泣いて泣いて、泣き死ぬくらい泣く。きみ
がこの世で泣けなかった分まで全部泣いてあげる。でもそしたらぼくが泣き疲れて死んじゃうから、きみは
ずっといてほしいな。

 少女は俯いた顔をやっとの思いで上げた。月明かりの下、少女の顔は僕からは見えない。けれども僕は知っていた。彼女の瞳が涙で濡れていた事を。

 ふと、誰かに手を繋がれた。驚いてみると、大切な人の姿がそこにはあった。
 この先に続く少女の台詞を僕は知っている。それは多分、今隣に居る彼女も。
 二人の少女は、震える声を言葉にした。

 ―――最後にね、キス、してもいいかな。

35 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:49 ID:EFO6UcXU
 蒼白に輝く月明かりの下で、二人のラストシーンは今静かに始まる。どちらからともなく差し出した指と指
が絡み合い、やがて互いの手を強く握り合う。僕は進行していく遠くの二人を横目に見やりながら彼女の
動きに身を任せた。すぐ傍の彼女は繋がってないもう一つの腕で僕の身体を抱き寄せる。そして――唇に
溶け出す熱の感触。
 彼らが一つになったように、僕らも今一つとなった。天空の照明装置だけが僕らを照らしていた。そこに
確かなものは何もないように思えて、それでもただ一つここで確かに灯る熱を二人は求めた。唇を通じて
流れてくる熱の奔流はやけにリアルで、それは余りに夢のようで、まるで夢ではないみたいで――そうだ、
僕は夢を見ているんだ。
 僕は彼女の口づけの冷めぬうちに目覚めようと思った。たとえこの温もりが現実のものじゃないとしても、
夢で出会った二人の記憶を少しでも留めておきたかったからだ。夢の世界は少しずつ溶け出していく。目
覚めの光は少しずつ僕らの世界を溶かしていく。やがて僕や彼女、そして彼らが溶け合って一つとなった
とき――僕はぱっと目を開けた。僕は目覚めた。

 紗奈が僕にキスしていた。

36 名前: 村雨驟雨 ◆S9aLLulD9I 投稿日:2007/03/16(金) 01:51 ID:EFO6UcXU
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